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2017年6月11日
愛とは何?

●愛とは何?

 「愛」というと、何を連想するだろう。一般には、困っている人に手を差し伸べたり、助けたりすることを連想するだろう。クリスチャンならそれに加え、深い同情心とか、慈愛とか、謙遜とか、柔和とか、寛容とか、互いに忍び合うとか、誰かが他の人に不満を抱くことがあっても互いに赦し合うといった行為を連想するだろう。聖書にも、次のように書かれている。


それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:12〜13)


 私たちはこうした一連の「行い」を「愛」だと信じて疑わない。ところが、この御言葉の続きにはこう書かれている。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:14)


 先に述べた「行い」の上に、「愛」を着けなさいとある。となれば、「愛」とは、私たちが連想する「行い」とは違うことになる。ならば、「愛」とは一体何なのだろう。その答えが、この続きで述べられている。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:14)


 前節の「愛を着けなさい」を、ここでは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するように」と言い換えている。このことから、「愛」とは「行い」ではなく、「キリストの平和が心を支配するようになる」ことだと分かる。「キリストの平和」とは、神との関係が回復することであり、それが「心を支配するようになる」とは、神との関係がもたらす「平安」が心を支配するようになることを意味する。具体的には「神の言葉」を食べ、それにより「平安」を持つようになることであり、それは神への信頼が増し加わることを指す。



 聖書はこの「愛」を、「行い」の上に着けなさいと言っている。つまり、聖書が教える「愛」とは「行い」ではなく、「神の言葉」を食べ、「神への信頼」(平和)を増し加えていくことを指す。「神を愛せよ」とは「神の言葉」を食べなさいということであり、「神を信頼せよ」ということを意味する。では、なぜそれが「愛」なのか、別の視点からも見てみよう。

●「心」の糧

 人は「心」と「体」から出来ている。生きていくためには「体」に食物が必要なように、「心」も食物を必要とする。ただし、「心」に必要な食物は「神の言葉」であって、「人の言葉」ではない。イエスはそのことを、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4:4)と言われた。

 ところが、生まれながらの人は神との結びつきがないため、「神の言葉」が食べられない。食べられるようになるには、助け主なる神、聖霊の働きが必要となる。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。これを、「キリストの平和」を持つという。

 いずれにせよ、生まれながらの人は「キリストの平和」を持っていないので、「神の言葉」が食べられない。そこで、「人の言葉」を「心」の糧とするしかなかった。ただし、美味しい「人の言葉」の糧を得るには、人から良く思われる「行い」を目指すしかない。そのため、その食事には大きな副作用があった。それはこうである。

 人は美味しい「人の言葉」を「心」の糧にしようと思えば、相手からほめられることを頑張るしかない。しかし、頑張ってもほめられないときがある。そうなると、「こんなに尽くしたのに…」、「こんなに頑張ったのに…」と、「怒り」が沸き上がってくるのである。そのことが繰り返されると、その怒りは「赦せない」となり「敵意」に発展する。さらには、自分よりもほめられている者を見ると「嫉妬」が湧いてくる。こうして、ほめられることの競争が起き、「争い」が生じるようになる。これが、「人の言葉」を「心」の糧にしようとすることで生じる副作用であり、聖書はそれを「罪」と呼ぶ。

 人は「人の言葉」を「心」の糧としたことで、この「罪」に苦しめられることになった。無論、神は、そうした人の状態を放置されなかった。神は、人が「神の言葉」を食べられるよう、救いの御手を差し伸べられたのである。そのおかげで、人は神の呼びかけに「応答」するだけで救われ、神との関係を回復することができた。「キリストの平和」を持つことができ、助け主なる御霊が人のうちに住まわれるようになった。それにより、人は「神の言葉」を食べられるようになったが、ここに新たな問題が生じた。

●新たな問題

 人は長きにわたり「人の言葉」を「心」の糧としてきたので、「キリストの平和」を持つようになっても続けて「人の言葉」を「心」の糧としてしまい、「神の言葉」が食べられないのだ。そうした問題を聖書は、次のような切り口で綴っている。

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳(人の言葉)を与えて、堅い食物(神の言葉)を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
(Tコリント3:1-2) ※( )は筆者が意味を補足


 ここでは、クリスチャンを肉に属する「幼子」と御霊に属する「大人」とに分類している。その違いは、食物にあるとした。「幼子」は「乳」しか飲めないが、「大人」は「堅い食物」が食べられるとした。「乳」とは、噛むことを必要としない心地良い食事であり、人の慰め、賞賛といった「人の言葉」を指している。それに対して「堅い食物」とは、「神の言葉」を指している。というのも、人は神と異なる思い(罪)を持っているので、「神の言葉」を素直に信じることが困難となるからだ。

 例えば、何か試練に出会ったとき「神の言葉」は喜べというが、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)、私たちは喜べないというのが本音だろう。この「神の言葉」を食べるには、実に困難を覚えてしまう。ゆえに「堅い食物」という。いずれにせよ、聖書はクリスチャンが「心」に必要な糧を何で補っているかで、片や「幼子」と呼び、片や「大人」と呼ぶ。



 話はさらに続き、今度は「人の言葉」で心を満たそうとすると、ねたみや争いといったことがつきまとうことが綴られている。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:3)


 先に、「人の言葉」で心を満たそうとする限り、そこには嫉妬や争いといったことがつきまとうことを説明したが、聖書はそのことを指摘している。

 以上の経緯が分かるなら、どうして神は、「愛」と「行い」とを区別されるのか、そのことが分かるだろう。それは、いくら立派な「行い」をしようとも「人の言葉」を食べることが目的でなされるなら、それはただ「肉に属する」だけであり、しかも「ねたみや争い」が伴うからだ。ゆえに聖書は、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配する」(コロサイ3:15)ことが「愛」だと教える。「神の言葉」を食べ「平安」(平和)を得ることが、すなわち「御霊に属する」ことが「愛」だと教える。人に於ける問題を綴った同じ第一コリントの手紙を読み進めると、そうした「愛」のことがさらに詳しく語られているので、続けて見てみよう。

●愛の教え

 聖書は、人は一生涯「死の恐怖」につながれ、「恐れ」の奴隷になったことを教えている。

…また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:1〜3)


 ここでも、明確に「行い」と「愛」とを区別している。さらにどんなに立派な「行い」であっても、それが「人の言葉」を食べるためにされる「行い」であったなら「肉に属する」だけとなることから、何の役にも立たないと切り捨てている。しかし、人は「愛」というとどうしても「行い」を連想するので、続けて次のように教えている。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜5)


 確かに見た目は、「寛容」、「親切」、「自慢せず」、「礼儀に反することをせず」といった「行い」は愛で間違いないが、問題はそれを支える「心」が、「自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず」であるならという条件が付くという。一言で言うと、見返りを求めない「心」でする行いなら愛だと言っている。ならば、見返りを求めない「心」とは何なのだろう。それは、「神の言葉」を食べる「心」である。「心」が「神の言葉」で満たされれば、人はもう「人の言葉」を食べる必要もなくなるので、人に対し見返りを求めなくなる。教えはさらに続く。

不正を喜ばずに真理を喜びます。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:6)


 「不正」はなぜ起きるのだろう。なぜ人は嘘をつくのだろう。それは、少しでも美味しい「人の言葉」を食べたいと思うからである。つまり、「不正を喜ばず」とは、「人の言葉」で心を満たそうとしないことを述べている。そして、「神の言葉」こそが「真理」なので、「真理を喜びます」とは、「神の言葉」を食べ「平安」を得ることを意味する。聖書は、それが「愛」だと教えている。教えはさらに続く。

すべてをがまんし、
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:7)


 「すべてをがまんし」と訳されたギリシャ語は「ステゴー」[ste,gw]で、第一義は「覆う、覆って守る」であり、他人の欠点や過失を覆い隠すことを意味する。要は、人を赦すことを言っている。そして、人を赦すというのは、「人の言葉」で心を満たそうとするのをやめない限り実現しない。なぜなら、「赦せない」という怒りの感情は、美味しい「人の言葉」が得られないことで生じるからだ。「人の言葉」で心を満たそうとするから、それが手に入らないと「赦せない」という感情が生じる。したがって、「すべてをがまんし」とは、「人の言葉」ではなく「神の言葉」で心を満たすことを意味する。教えはさらに続く。

すべてを信じ、すべてを期待し、
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:7)


 「すべてを信じ」の「すべて」は、「神の言葉」を指す。「神の言葉」を疑わずに信じることを言っている。「すべてを期待し」とは、「神の言葉」は必ずなると期待することを言っている。このことから、「すべてを信じ、すべてを期待し」とは、「神の言葉」で心を満たすことを述べていることが分かる。愛の教えは、いよいよ最後の締めとなる。

すべてを耐え忍びます。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:7)


 ここで「耐え忍びます」と訳されたギリシャ語は「ヒュポメノー」[u`pome,nw]で、意味は「逃げ出さないで留まる」だ。患難を通して生じる「つらさ」から逃げ出さないで、「つらさ」に向き合うことを意味する。人は「つらさ」と向き合えばどうなるだろう。「人の言葉」など何の役にも立たないことに気づく。そうなれば、人は必死に神に助けを乞うようになり、「神の言葉」で心を満たすようになる。それに伴い、神への信頼は増し加わり「平安」が訪れるので、もう美味しい「人の言葉」を必要としなくなる。そうなれば、見返りを求めない「寛容」、「親切」、「自慢せず」、「礼儀に反することをせず」といった「行い」ができるようになるので、最後に愛とは「耐え忍びます」と教えている。こうした「愛」は、まさに神から始まった。

●神の愛

 見てきたように、神が教える「愛」とは「神の言葉」を食べ、キリストの「平和」(平安)が心を支配するようになることを指す。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3:15)。その「平和」こそが人の「安息」となり、誰に対しても見返りを求めない交わりを生む。その交わりを「愛の交わり」という。



 この「愛の交わり」は神から始まった。三位一体の神は、互いに信頼し合う関係にある不変の「安息」に支えられている。ゆえに、互いに見返りを求めるような交わりをする必要が全くない。互いを生かし、互いのために交わりだけをされる。それが「愛の交わり」の起源となった。神は、人に対しても何ら見返りを求めることもなく、一切の条件を付けることもなく、「だれでも」あわれむことができる。聖書はそれを、次のように教えている。

ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
(新約聖書 ローマ人への手紙 10:12〜13)


 神の目には、人に対する区別は全くない。ユダヤ人もなければギリシャ人もない。「だれでも」、神の呼びかけに「応答」する者は救われる。神は、人が立派な行いができるから愛するのでも、悪いことしかできないから愛さないのでもない。「だれでも」、みな同じように愛される。それは、まるで太陽のようであり、雨のようである。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5:45)。これが「神の愛」であり、神の「意志」にほかならない。

 そうした「神の愛」は、神が人に立てられた「永遠の契約」にも表れている。その契約は人に一切条件を求めず、神の呼びかけに「応答」する者を救いカナンの地に導く契約になっている。普通、契約というのは、相互に負うべき義務を取り決めるものだが、神はこの契約を自らにだけ義務を課す形とされた。それゆえ、神は契約を結ぶとは言わず、契約を立てると言われた。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる」(創世記17:7)。ここに、見返りを求めない神の人に対する関わり方が見て取れる。こうした「神の愛」を知るなら、私たちの目指すべきゴールも見えてくる。

●目指すべきゴール

 「愛」は、三位一体の神の交わりから始まった。その交わりは、互いの信頼関係から生まれる「安息」に支えられていたので、神の交わりは何の見返りも求めなかった。これを「愛の交わり」と呼ぶが、神は「愛の交わり」の輪を広げるために人を造られたので、私たちが目指すべきは神を信頼することである。具体的には、力を尽くして神と異なる思いとなる罪と戦い、それにより「神の言葉」を食べ、「安息」に入ることが目指すべきゴールになる。


ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:11)


「神の言葉」を食べ、神に対し「信頼する心」を持つようになるというのが目指すべきゴールとなる。だから聖書は、次のように励ましている。

こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心(信頼する心)を持とうではありませんか。
(新約聖書 ヘブル人の手紙 4:1)


まことに「人の言葉」で心を満たそうとするのをやめ、「神の言葉」で心を満たすようになれば「安息」に入ることができる。例えば、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)を食べたなら、どれだけ心が満たされることだろう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)を食べたなら、どれだけ勇気が湧いてくることだろう。何よりも、罪が赦される御言葉を食べたなら、どれだけの「平安」が得られ、神を信頼でき愛せるようになることだろうか。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(新約聖書 ヨハネの人の手紙第一 1:9)


 こうして、「キリストの平和」が心を支配するようになる。それは神から賜った「信仰」を使い、神を「信頼」する者になることを意味する。これを、神は「愛」と呼ばれる。私たちの目指すべきゴールは、まさに神への「信頼」を増し加えることにある。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
(新約聖書 ヨハネの人の手紙第一 2:28)