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2017年5月28日
福音の中で最も大切なこと

 福音で、最も大切なことは何でしょうか。聖書にはこうあります。

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:3)


 第一に、「キリストが私達の罪のために死なれたこと」です。では、罪とは何でしょうか。キリストが罪のために死なれたことを預言した御言葉にはこうあります。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
(旧約聖書 イザヤ書 53:4)


 ここに、キリストが背負った「罪」のことを「病を負い」と言っています。このことから、キリストが背負われた私たちの「罪」は、「病気」であることが分かります。では、なぜ私たちの「罪」は病気なのでしょうか。
 私たちがする悪い行い(罪)の底辺に横たわっている思いは「不安」です。「不安」ゆえに、人は何としても安心を得ようと、見えるものに必死になってしがみつこうとします。必死になって人から良く思われようとし、必死になって富を得ようとします。こうして競争が起き、互いを比べるようになり、しがみつくものを巡っての争いが生じるようになります。これが、私たちがする悪い行い(罪)に発展します。ならば、私たちに罪を犯させてしまう「不安」は、どこから来たのでしょうか。
 その昔、人は神と一つ思いの中で、神と共に暮らしていました。その様子を聖書は、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Tコリント12:27)と綴っています。ところがそこに悪魔が登場し、「神と異なる思い」を人に食べさせてしまいました。そのことで、人は神と一つ思いを共有できなくなり、人は神との結びつきを失ってしまいました。これを「死」といいます。そのことで人は、神に愛されている自分が認識できなくなり、人の体も朽ち果てる体に変化してしまいました。そのせいで人は「不安」を覚えるようになり、それが人の「罪」になりました。つまり、「罪」の底辺にある「不安」の始まりは、私たちの与り知らない悪魔の仕業によりました。ゆえに、「罪」は「病気」という位置づけになります。
 となると、この病気をいやすには、人は神との結びつきを取り戻し、神に愛されている自分を認識できるようになる必要があります。そのために、キリストは十字架に架かられました。十字架を通して、神は無条件で人を愛していることを示し、それにより罪をいやそうとされました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)


 福音の理解で、このことが最も大切だと聖書は教えています。要するに、私たちの罪は神に愛されている自分が見えないことによる病気なので、その病気をいやすためにキリストは十字架に架かられたということです。次に福音で大切なことは、こうだと教えています。手が自分に望んでいることをしようと思います。こうして、心の中に「相手の期待に応えなければならない」という思いが芽生えます。この「○○でなければならない」という思いのことを、聖書は律法と呼びます。この律法があるために、私達は、「赦せない」という怒りを抱くのです。

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:4〜5)


 次に大切な福音は、キリストのよみがえりです。なぜ大切かというと、キリストが死から復活したということには、とてつもなく素晴らしい事柄が秘められているからです。それは、私たちもキリストと同様によみがえるということが、そこには秘められています。ならば、私たちはどのようによみがえるのでしょう。よみがえりには順番があります。最初によみがえるのは、私たちの「魂」です。そのことを聖書は、次のように教えています。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)


 キリストを信じている人たちの「魂」は、キリストと共によみがえっています。これを、「永遠のいのち」を持つといいます。「わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち」とは、そういうことです。「永遠のいのちを持ち」とは現在形で、「永遠のいのちを持っています」という意味です。「魂」がよみがえったなら、次は終わりの日(肉体の死)を迎えたとき、「体」がよみがえります。聖書はそのことを、次のように教えています。

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:24)


 「それから終わりが来ます」とは、それから「肉体の死」が訪れますということです。その時、キリストは「魂」がすでによみがえっている者の「体」を脱ぎ捨てさせ、「御霊のからだ」だけとします。「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし」とは、そういうことです。それから、その人を「神の国」に連れて行きます。「国を父なる神にお渡しになります」とは、そういうことです。これで、最後の敵である「死」も滅ぼされることになるので、「最後の敵である死も滅ぼされます」(Tコリント15:26)。

 このように、キリストのよみがえりには、こうした私たちのよみがえりが含まれています。だから、福音の理解で二番目に大切だとされました。このよみがえりの理解は大切であると同時に、なかなか信じがたい内容でもあるので、さらに詳細な説明がこのあと続きます。

もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:29)


 「死者のゆえにバプテスマを受ける人たち」とは、クリスチャンでない人たちが受ける「水のバプテスマ」を指しています。というのも、神を信じない人たちは生きているようでも、神の目には「死んでいる者」という扱いになるからです。ゆえに、この手前で、「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Tコリント15:22)という説明がありました。このバプテスマを受けたのは、よみがえりを信じたからではなかったのかと励ましています。さらには、次のような説明があります。

しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
(新約聖書 コリント人への手紙第一15:38)


 キリストを信じている者たちは、その「魂」に「御霊のからだ」を着せられています。「おのおのの種にからだをお与えになります」とは、そういうことを意味します。これを、「永遠のいのち」を持っていると言います。信じがたいかもしれませんが、キリストを信じている私たちは、すでに「御霊のからだ」なる「永遠のいのち」を持っています。

私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:13)


 ゆえに、私たちは「肉体の死」を迎えると同時に、すなわち「終わりのラッパが鳴る」と同時に、キリストによって「肉の体」を脱ぎ捨てさせられ、すでに着せられていた「御霊のからだ」とされ、「神の国」(天国)に連れて行かれます。そのことが、先の続きでこう綴られています。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:52)


 こうして、人は「死」と完全に決別します。神との結びつきを完全に取り戻し、神に愛されている自分を否が応でも認識できるようになります。したがって、神の愛が見えないせいで生じていた「不安」は完全に無くなり、罪を犯すこともなくなってしまいます。聖書はこう綴っています。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 5:55〜56)


 私たちの罪は、まさしく神との結びつきを失った「死」による病気でしたが、「死」は完全に滅ぼされるので、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか」となるわけです。今までは「死」は人を支配し、人に罪を犯させていましたが、それはもうできなくなったので、「死のとげは罪であり」と綴られています。私たちは、この勝利をキリストから与えられています。そのことを信じることこそ、福音で最も大切なことなるので、さらにこう綴られています。 

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:58)