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2017年5月21日
覆い

●神はいるのか

『かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:15)


 一つの事実に対して、情報を聞いた一人一人がそれぞれ想像力を働かせると、解釈がいくつも生まれます。たとえば、「有名な外科医」と聞くと無意識に男性をイメージしたり、「罪」と聞くと無意識に罰があるものと思ったり、実際には事実に含まれていなかったイメージが追加されて、いくつもの解釈が生まれ、その結果、事実がわからなくなってしまう、ということが起こるのです。つまり、それぞれの勝手な想像が覆いとなって、事実をありのまま知ることができなくなってしまうのです。
 モーセの書、すなわち、聖書を読む時にも、これと同じことが起こっています。心に掛かっている覆いを取り除かなければ、正しい福音が見えなくなってしまいます。この覆いこそ、私達が戦い、取り除くべき敵です。

●サタンの策略

もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)


 サタンが人間に対して持っている策略、それは、私達が人を赦さないことです。人に対して怒りを感じる時、あなたはサタンの策略に陥っているのです。なぜなら、赦せないという思いは、神様が私達に望んでおられる「愛」に反対する思いだからです。私達は、その策略に落ちないようにしなければなりません。 私達が「赦せない」という思いを抱いてしまう、そもそもの原因は、私達の心の中に「人から愛されたい」という思いがあるからです。人から愛されたい、良く思われたいと思うと、相手が自分に望んでいることをしようと思います。こうして、心の中に「相手の期待に応えなければならない」という思いが芽生えます。この「○○でなければならない」という思いのことを、聖書は律法と呼びます。この律法があるために、私達は、「赦せない」という怒りを抱くのです。

律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)


 愛されることを目指すとは、この世界では律法に生きることを意味します。親や先生や友人の言葉に応えなければならないという思いが律法となり、それが達成できないと自分をさばき、また、従っていない人を裁くようになります。このようにして、私達は「赦せない」という感情を抱くようになるのです。どんな理由があろうとも、もしあなたが怒りを覚えたなら、それは律法に仕えているということであり、サタンの罠に落ちているということです。

●キリストの香り

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:15)


 神様の前には、私達はかぐわしいキリストの香りです。それは、どういうことなのでしょうか。

1. あなたの中に神のいのちがあるから

 あなたの中に神が住んでおられることが、あなたがキリストの香りである理由です。あなたが、唯一の神を「天のお父様」と呼び、祈ることができるなら、あなたの中には御霊なる神が住んでおられます。それは、あなたが神の子であり、神の相続人であることを意味します。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:6〜7)


 「アバ」は、「パパ」の語源となった言葉で、子どもがお父さんを慕って呼ぶ言葉です。神様は、私達にとって、それほどまでに近しいお方なのです。

2. あなたはいのちのことばを持っているから

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:16〜17)


 「イエスは救い主である」と知ることが、「いのちのことば」です。イエスは救い主であると知り、「いのちのことば」を持っている人は、いのちの香りを持ち、キリストにあって語ることができます。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:5)


 私達は、イエス・キリストを知り、いのちのことばを持っています。それは、キリストを宣べ伝えることばです。そこには、神の前にはかぐわしいいのちの香りがあるのです。

3. あなたは神に必要な存在だから

何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:5〜6)


 神様があなたを必要としているから、あなたはかぐわしい存在なのです。
 あなたは本当の自分が見えているでしょうか。自分をマイナスに見てはいないでしょうか。自分が神様から必要とされている素晴らしい存在だということに気づけなくさせているのが、心の覆いです。人を赦せないと思ったり、自分を責めてしまったり、人や自分を裁くのは、自分がかぐわしいキリストの香りを放つ者だということに気づいていないからです。それは、御霊ではなく文字に仕えているところに原因があると言います。

●文字に仕えるとは

もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:7〜9)


 文字とは律法のことです。モーセは、神様から石に刻まれた十戒を受け取りました。ところが、人々は、この神の律法を、人を良いとかダメとか判断するために用いて、人を罪に定めて裁くための道具にしてしまいました。これが、律法に仕えるということです。その結果、神様が与えた新しい契約が見えなくなってしまったのです。
 もしあなたが、認められたり、愛されたりすることを求めて、律法が示す良い行いを目指しているなら、サタンの策略に落ちている状態です。それでは、かぐわしいいのちの香りがわかりません。
 罪に定めるのではなく、義とする務めに励みましょう。それは、イエス・キリストを信じて救われ、罪が赦され、永遠のいのちを受け取ったことに目を向けることです。私達はもう「アバ父」と祈ることができるのですから、律法ではなく、いのちに目を向け、いのちに仕えて生きていきましょう。

もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:11)


 どんなに立派な行いをしても、それは私達の死と共に消えてしまうのです。律法は、人を裁いたり、自分をダメな者だと裁くためのものではなく、イエス・キリストの贖いに気づくためのものです。しかし、律法に仕えてしまうと、かえってそれが神の恵みの覆いになってしまうのです。

かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:15)


 古今東西、昔も今も「罪=罰」という価値観があり、どこの親も子どもを叱り、どんな社会でも罪を裁きます。それは、皆が人の価値は行いにあると信じているからです。
 しかし、聖書は、人は神のいのちが宿っているところに価値があり、すべての人がキリストの器官として存在する素晴らしいものだと教えています。それぞれ能力が違うのは、役割が違うからです。ところが、神とのつながりを失ったために、その価値がわからなくなり、人は、自分には何が出来るかという行いで自分の価値をはかろうとするようになりました。キレイかキレイでないか、勉強ができるかできないかなど、何かを持っている人や、何かができる人は、価値があり、何もできない人は価値がないと思い込んでいます。こうして、神に愛され、救われるのにも、行いが必要だと考えるようになったのです。イエス様は、このことを「人はうわべを見る」と言って、この思い込みと戦われました。
 この価値観で聖書を読むと、神の福音を、律法による義だと誤解してしまいます。「罪=罰」という考えが覆いとなって福音が見えず、一生懸命律法に仕えるようになったのです。この「罪=罰」という覆いを取り除かない限り、いのちの香りに気づかず、自分と人の素晴らしさに気づくことはできません。

●どうやったら覆いが取り除けるのか

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:16〜18)


 覆いを取り除く方法は、キリストに目を向けることです。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)とある通り、キリストに目を向けるとは、十字架に目を向けることです。
 神様は十字架であなたを罰したでしょうか。十字架の贖いは、行いで手に入れたものでしょうか。そうではありません。十字架に目を向ける時、私達は、神様は罪を罰する方ではなく、あわれむ方だと知ることができます。こうして、覆いが取り除かれて、「罪=罰」ではなく、「罪=あわれみ」が見えてくると、罪を見た時に、自分をダメな者だと思うのではなく、神のあわれみが見えるようになるのです。
 律法に仕えていると、「〜しなければならない」と、人の目が気になり、自由がありません。しかし、覆いが取り除かれると、ここからも自由になれます。私達が、人の目にしばられるのは、神様に愛されている自分が見えないためです。イエス・キリストに目を向けることで、無条件に愛されている自分に気づき、人から愛されようとしたり、人からどう思われるかを気にしたりする虚しさに気づくのです。
 また、「栄光から栄光へ変えられる」とは、私達がもともと良き者だということです。よく「自分はダメな者だけど、神様が良い者に変えてくださる」と誤解する人も多いのですが、そうではありません。「ダメな者だから良くならなければ」という発想は、文字に仕える生き方です。あなたはもともと神の栄光を表すかぐわしい香りです。覆いが取り除けられることによって、真にかぐわしい香りを放つことができるようになり、自分自身もその香りに気づくようになるのです。


私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:7〜9)


 土の器とは、やがて滅んでしまう人間の体のことです。体は滅びますが、あなたはすでに神の子であり、その内側に神の宝を持っているのです。しかし、覆いによってそれが見えないため、見えるものを求めて裁き、一喜一憂してしまいます。宝を手に入れようとして文字に仕える必要はありません。文字に仕えるのをやめ、裁くことをやめましょう。それはサタンの策略です。
 放蕩息子のたとえの中で、お兄さんは、放蕩し尽くした弟が、ただで赦され、良い扱いを受けたことに対して、嫉妬し、腹を立てました。このお兄さんは、サタンの罠に陥っています。お父さんが慰めても、自分はこんなにも律法に仕えてきたのに何もしてくれないとつぶやく兄の様子は、こんなに行いを頑張っても、ちっとも地上での問題が解決されない、不公平だとつぶやく私達の様子と重なります。この時、神様は、「私のものはすべてお前のものだ」と語られました。
 あなたはすでに、土の器の中に宝を持ち、いのちの香りを放っています。しかし、律法に仕えて生きているために、覆いがかかり、神様の祝福が何も見えていなかったのです。そのために人を裁いてつらくなってしまうのです。すでに受けている祝福に気づけば、この苦しみから解放されます。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16〜17)


 人間的標準では、「罪=罰」です。しかし、この覆いで見ると、福音を間違えてしまいます。つらいのは、人のせいでも環境のせいでもありません。人の価値はうわべにあるという覆いによって、律法に仕えているからつらいのです。あなたを苦しめているのは覆いです。その覆いが取り除かれたら、あなたはすでに神様から宝をもらっていたことに気づき、すべてが新しくなっていたことに気づきます。あなたを苦しめている、真の敵である覆いと戦い、すでに受け取っている素晴らしい宝に気づきましょう。