ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年5月14日
神に対するイメージ


 大人はよく、「悪いことをしたら、神様が怒って罰を与えるよ」と言って、子どもを脅します。「嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれる」とか、洋の東西を問わず、この手の話は昔も今も尽きることありません。
 つまり、人は皆、神様に対して、「罪を犯せば罰せられるというイメージ」を抱いているのです。そのために多くの人が、何か災いに遭うと「バチが当たった」と思ってしまいます。このような神様に対するイメージが、神様と人との距離を決めてしまうのです。
 たとえば、間違いを犯せば容赦なく罰するような上司に、あなたは近づきたいと思うでしょうか。その人を怒らせないよう、美辞麗句によって適当な距離を保とうとするか、その人の前では緊張し、一生懸命に頑張ろうとすることでしょう。
 「神は罪を犯せばさばく怖い方」だと思うことによって、神様に対しても同様のことが起こります。つまり、神様に対して、無意識に一定の距離を保とうとし、賛美は、神をほめたたえる歌詞を好み、祈りは、神への称賛を並び立てることに終始するようになります。そして、一生懸命律法の行いを頑張り、自分を良く見せようとするのです。こうして、神との関係は儀礼的なものになり、儀式を通しての表面的な交わりになってしまいます。これでは、神を遠くに感じることしかできなくなり、「神に近づきなさい」(ヤコブ4:8)と言われてもできません。
 私達が、神に対する正しいイメージを持つことができれば、神をもっと身近に感じることができるようになり、神に近づくことが容易になります。

神は「医者」である

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
(新約聖書 マタイの福音書 9:12〜13)


イエス様は、罪をいやす医者です。人が罪を犯すのは、もともと持っている性質ではなく、後から入り込んだ「病気」です。人が犯す悪い行いの根底にあるのは、「自分は愛されていない」という不安です。その不安は、悪魔にだまされたアダムが罪を犯した結果、神との結びつきを失い、神に愛されている自分が見えなくなったことによるもので、ここから人から愛されることやモノで心を満たそうとする生き方が始まり、人は罪を犯すようになりました。

それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった。
(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12 私訳)


 聖書は、「死のとげは罪」(Tコリント15:56)と言っていますが、まさに人の罪は、死(神との結びつきを失うこと)によって発生し、自分を苦しめる「死のとげ」です。この「死」は、私達が選んだものではなく、知らぬ間に自動的に、神との関わりを失った結果、人は死ぬものとなりました。つまり、「死」によって発症した罪は「病気」という位置づけになるのです。そこで、神様は、ご自分を「医者」のイメージに重ねられたのです。
 闘病という言葉があるように、人は、病気にかかったら病と戦います。同様に、「罪」は病気だと認識できることによって、人は、罪と戦うようになります。こうして、「罪」をいやすことができる唯一の医者であるイエス・キリストに近づき、病気を治してほしいと願うのと同様、「罪」をいやしてほしいと願うことができるようになります。
 しかし、今日、罪が病気だとはなかなか知られておらず、人は罪に対して抵抗するよりも、自分の罪を隠すことに必死です。罪を犯すのは、自分が悪いせいだと思っているからです。罪と戦うには、罪は必ずいやされることを知らなければならないのです。

あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。
(新約聖書 へブル人への手紙 12:4〜7)


 医者であるイエス様は、罪という病気を見て見ぬふりはできません。何としても罪を取り除こうと願い、人が罪と戦うように導かれます。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」とは、そうした神の思いを表しています。

神はどのように罪を取り除こうとなさるのか

 人が犯す罪は、神に愛されている自分を認識できない「不安」から生じています。この「不安」は、潜在意識の中に隠されており、人はそれを意識できません。しかし、この「不安」によって、人は、見えるもので「平安」を得ようと、欲望を抱き、それが罪の行為となるのです。
 したがって、人の罪を取り除くには「不安」を取り除けばよいのです。それには、見えるものにしがみついても「平安」など得られないことを気づかせる必要があります。そこで行われる神様の治療とは、人に襲いかかる患難を「静観」することです。それによって、私達がつらさに耐えかね、自ら神様に助けを求めるよう、忍耐強く待っておられるのです。
 例えば、創世記に出てくるヤコブは、長子の権利を手にすることで「平安」を得ようとし、父親を欺きました。その結果、長子であった兄の恨みを買い、故郷を追いやられるトラブルに遭いました。さらにヤコブは、見えるもので「平安」を得ようと、富をどんどん増やした結果、嫉妬を買い、命が狙われるというトラブルに遭遇します。ヤコブは、見えるものに「平安」を求めれば求めるだけトラブルに巻き込まれ、そのことで苦しくなり、ついに、その「つらさ」に耐えかね、神に助けを求めました。そこで初めて、まことの「平安」を手にすることができたのです。
 人は見えるもので「平安」を得ようとすると必ず、様々なトラブルに巻き込まれます。神様は、このトラブルや患難を、ただひたすら「静観」されることで、見えるものに「平安」を求めても得られないことに気づかせようとなさいます。そうすることで心を神に向けさせ、神にどれだけ愛されているかを知らせいようとなさっているのです。
 神様のこうした訓練により、罪という病気の元になった「不安」が取り除かれ、人は「平安な義の実」を結ぶようになります。これが神様の治療です。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:11)


 神様は「医者」であり、人が犯す罪は「病気」であるというイメージを持つことができれば、人は神様にもっと近づきたくなり、血を流すまで罪と戦うようになれるのです。

神は「弁護士」である

 聖書が教えている次なる神のイメージは、ずばり「弁護士」です。

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1)


 イエス・キリストは、私たちが犯す罪を弁護してくださるので、必ず無罪となり、その罪は赦されます。ですからこの続きに、「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです」(Tヨハネ2:12)とあります。ただし、罪が赦される理由を正確に知っておく必要があります。

 弁護士は、「×」を「○」にするのではありません。「○」なのに「×」とされた者の冤罪を晴らすことをします。イエス・キリストは、私たちが犯す罪は冤罪であり、人のせいではないことを誰よりも知るからこそ弁護し、無罪を勝ち取ってくださるのです。

 私たちは罪とされる悪いことをした時、それは自分の中の欲がはらんだために罪を犯したと認識します。そう認識するので、自分が悪いから罪を犯したと自らを責め、周りの人たちも、「お前が悪い」と責めます。こうして、「お前はダメな者」という判決が下されます。イエス・キリストは、この判決に異議を申し立て、弁護してくださいます。なぜなら、それは冤罪だと知っているからにほかなりません。

 神は知っています。罪の行為へつながる人の欲は、罪を犯した本人の中から出てきたものでないことを。罪の行為に直結する「肉の欲」、「目の欲」、「自慢欲」などといったものは、神との結びつきを失った「この世」から出たのであって、人の「本性」から出たのではないことを誰よりも知っています。だからこそ、神は弁護してくださることを教えた御言葉の先に、次のような説明があります。

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:16)


 罪の行為に結びつく様々な欲は、「この世」から出たと断言します。「この世」とは、神が見えない、神に愛されている自分が認識できない「死の世界」のことであり、そのことの「不安」から欲が生じます。そして、欲をはらませる「死の世界」は悪魔の仕業によったことから、罪を犯すのは悪魔から出たと、さらにこの先で教えています。「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(Tヨハネ3:8)。まさに神が弁護する理由は、この悪魔の仕業を打ち壊すためです。ですからこの続きに、「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Tヨハネ3:8)とあります。

 すなわち、神が弁護し罪が赦される理由は、人の罪が冤罪だからです。ただし、神の目には冤罪であっても、自らのしたことで生じた被害は本人が責任を負うしかありません。そのことで人に迷惑を掛けたのなら、自らが責任を取って何とかするしかないのです。というより、自分の罪が無罪だと知れば、喜んで責任を取るようになります。ザアカイも、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(ルカ19:8)と言って、喜んで責任を取りました。逆に、責任を取ろうとしない人は、罪が赦されたことをまだ知らない人ということになります。

 かつてイエス様は、「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)と言われましたが、罪が赦されたと知ると、人は神と人を愛するようになり、自分のしたことで生じた被害の責任を喜んで取るようになります。

 余談ですが、先に述べた「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Tヨハネ3:8)の続きに、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(Tヨハネ3:9)とあります。ここでいう「罪」とは、キリストを信じないことを指しています。なぜなら、神が問う罪はこれだけしかないからです。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:9)。クリスチャンになれば、もう二度とキリストを信じないという罪は犯せなくなるので、ここでは「罪を犯しません」と教えています。

 それに対し、「不安」からする罪の行為は病気なので、神は何も問いません。「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません」(ヨハネ12:47)。つまり、「罪」という言葉は、神が問う罪を指して使われるときもあれば、神が問わない病気を指して使われるときもあるのです。同じヨハネの手紙はクリスチャンに対し、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(Tヨハネ1:8)と教えています。片や「罪を犯しません」と教え、片や罪を犯すと教えています。前者はキリストを信じない罪であり、後者は「不安」からする罪の行為を指しています。では、聖書が教えている、三つ目の神のイメージを見てみましょう。

神は「友」である

 イエス様は、弟子たちにこう言われました。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
(新約聖書 ヨハネの福音書 15:15)


 この世界では、人は「上下」の関係を築こうとします。人は競って上に立とうとします。これが人との間に喧嘩や争い、反目を生じさせます。人が上に立ちたいと思うのは、人の中に「自分はダメな者」という劣等感があるからであり、それを何としても払拭しようとして上に立とうとします。要は、自分をさばくからそうなるのです。「自分はダメな者」という誤った判決を下すからそうなります。人は神に対しても「上下」の関係を築こうとします。神は主人であり、自分はその僕であって、神の言いつけを守ることでほめられようとするのです。 

 しかし、こうした「上下」の関係は誤りです。なぜなら、人は「ダメな者」ではなく、誰であれキリストの器官であるからです。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Tコリント12:27)。一人一人が、キリストにとってなくてはならない器官であり、それは「上下」の関係ではなく、互いを必要とする「横」の関係にほかなりません。

 イエス様は、こうした人の誤りを是正するために来られました。そしてイエス様は、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)と言われ、十字架に架かられました。イエス様の十字架は、まさしく人類に対し、「あなたは私の友だ」という証しでした。またイエス様は、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15:14)とも言われましたが、神が命じることとは、神を「愛せよ」であります。その入り口は、イエス・キリストを信じることから始まるので、イエス・キリストを信じるなら、誰でもその人は「友」としての関係が始まるということを言われました。これは、何ともありがたい関係ではないでしょうか。

正しい神のイメージ

 神は「医者」であり、「弁護士」であり、「友」です。そうしたイメージを持てるようになれば、人は積極的に神に近づきたいと思い、儀式的な神との交わりには満足できなくなります。本音で、自由な交わりを求めるようになります。キリストの福音は、私たちに自由をもたらすものなのです。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:1)


 あなたには自由があるでしょうか。もし自由がないのであれば、ぜひ神への正しいイメージを持つことから始めてみましょう。