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2017年5月7日
勘違い


 人は、あらゆる出来事を、自分の経験を物差しにして判断します。そのため、自分に経験がない出来事に出会うと、自分の経験の範囲内で合理的な理由を見つけようとし、間違った理解をしてしまうことがあります。
 聖書を読む場合も同じです。自分の経験の範囲によって判断するために、御言葉の意味を勘違いしてしまうことがよく起こります。
 今回は、その代表的な例を3つ取り上げてみましょう。

1.罪に対して

 私達は、犯罪に対しては刑罰があり、悪いことをしたら罰があるのが当然だと考えています。そのため、罪を犯した人間に、神様が罰を下すのは当たり前だと思い込んでいます。ところが、イエス様は、私達のこのような理解は間違っていると言われました。
 このことを、身をもって知った人物が聖書に登場します。パウロです。


ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)


 パウロは、イエス様を信じる前は熱心なパリサイ人で、罪に対しては神のさばきがあり、救われるためには、モーセの律法を守って、良い行いを積まなければならないと信じてきました。それが理にかなっていると思っていたのです。パウロは熱心に聖書を読んでいましたが、人は行いによって評価され、その価値を判断されるのだと信じて疑いませんでした。
 ところが、イエス・キリストは、「私は罪をさばかないし、罰しない」と言い、「行いに関係なく、信じれば誰でも救われる。行いでは救わない」と言われました。

だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)


人は、生まれながらに神との結びつきのない霊的に死んだ状態で生まれてきます。しかし、神は人に呼びかけ神を信じられるように導かれます。もしその呼びかけに応じなければ、人は神との結びつきを回復できず、そのまま死ぬしかない存在なのです。つまり、人間的な感覚でいうならば、人はすでにさばかれた状態にあります。その人間を助け出すために、イエス・キリストは来られたのであって、さばくために来られたのではありません。

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
(新約聖書 ヨハネの福音書 12:48)


 しかし、パウロはこの言葉を聞いて、「罪を犯してもさばかれないなんてあり得ない、なんてひどいデタラメを言うのだ」と腹を立てました。パウロは、イエス様を迫害し、イエス・キリストを信じる人を迫害して、死刑にまで追い込んで行ったのです。
 そのパウロが、イエス・キリストと出会って救われました。パウロ自身が救われて気づいたことは、「自分が持っている価値観で神を知ろうとすると間違ってしまう。神の福音がまったく見えなくなってしまう」ということです。
 
それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(新約聖書 ローマ人への手紙 1:19〜20)

 聖書は、あなた自身が悪いものだから罪を犯すのではなく、この世界は神の愛が見えなくなっているために、罪を犯すようになってしまったのだと教えています。つまり、一貫して罪は病気だと教えているのです。聖書が「死のとげが罪」と語るのは、死とは神と離れた状態にあることであり、その結果、人は神の愛が見えなくなり、そのつらさから罪に向かうようになったからです。これは、アダムとエバが悪魔にだまされたことによるものですから、あなたの内側に罪を犯す原因があるわけではないのです。
 ですから、人を更生させるために罰を与えることは無意味です。自分を責めることも無意味です。ならば、どうすれば良いのでしょうか。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
 (新約聖書 マルコの福音書 2:16〜17)


 パリサイ人達は、イエス様がやくざのような人々といっしょにいるのを見てさばきましたが、イエス様は罪人を病人と呼び、自らを医者だと言われました。それは、罪は病気であり、あなた自身がダメな者だから罪を犯すのではなく、神が見えないという死のせいで罪という病気を引き起こしているからです。イエス様はその罪をいやすことができる唯一の医者なのです。
 人は本来神の愛の中で生きる存在として造られました。それは、無条件で愛される存在であり、私達はキリストの一部であるということです。ところが、悪魔が人をだまし、神との結びつきを失ってしまったために、人は、自分は価値がない、ダメなものだと思うようになってしまいました。人は、生まれながらにして神が見えないために、自分の存在理由とするために、人からの愛や関心を得ようとして生きるようになったのです。しかし、人に関心を持ってもらうために、競争が生まれ、比較が生まれ、嫉妬・怒り・憎しみが生まれ、より良いものを得ようとして戦争も生まれました。人から自分が良く思われないとイライラしたり落ち込んだりしますから、そのストレスを発散するために、快楽を求めるようにもなりました。
 私達は、死の世界(神の見えない世界)に閉じ込められているがゆえに、罪を犯してしまうのです。ですから、イエス様は、ご自分が十字架に架かることで愛を示し、ひとりひとりが「私は愛されている」と知ることを望んでおられます。
 聖書が「あなたの敵を愛しなさい」と教えるのは、罪を犯すのは病気のせいだから、自分も人もさばいてはいけないということです。罪が病気だと気づかないと、さばき合ってしまいます。そうではなく、愛が見えないために罪が生じているのですから、罪を見たら、さばくのではなく、神を愛し、人を愛せるように祈ってほしいのです。

2.災いに対して

 人は、つらいことがあると、瞬間的に「神様からの罰(ばつ)だ」「罰(ばち)が当たったのだ」と思うものです。大きな災害が起こると、人間が犯した罪のために神様が罰を与えたと考える人も多く、さらには、なぜ神は地震を起こして人々を苦しめるのか、なぜ神は戦争を止めないのかという疑問まで浮上します。しかし、これは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
 神は人を裁きません。災いを与えません。災いは神から来るものではありません。そうではなく、神様は、災いから私達を助けたいと願っておられるのです。この前提をしっかり理解しておかないと、間違った信仰を持つことになってしまいます。
 なぜ、この地上に自然災害が起こるようになったのか、それは、人が神との結びつきを失ったことによると、聖書は教えています。
 悪魔が蛇を使って、アダムとエバに罪を犯させ、その結果、人は神との結びつきを失いました。そして、このことは、人間だけの問題にとどまりませんでした。神様は、人をお造りになった時、この地を支配するように命じて、この世界を人にお任せになりました。ですから、人に死が入り込んだことによって、世界のすべてが変わってしまったのです。

また、人に仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」
(旧約聖書 創世記 3:17〜19)


 神様は、「人に死が入り込んだために、土地は呪われてしまった。」と言っておられます。これは、神様の罰ではありません。人が神との結びつきを失ったことによって朽ちるものとなったため、それと連動して、被造物すべてが滅びの法則を受けるようになったのです。これがすべての天変地異の始まりです。
 今、科学の研究が進み、この宇宙にも寿命があることを私達は知っています。しかし、もともとはそうではありませんでした。人も自然も、神との結びつきを失ったために、滅びるものとなってしまったのです。
 人の体は、やがて滅び、土に帰ります。人が病気になるのも、死が入り込んだためです。そして、神との結びつきを失ったために、人は愛されたいと言う願望を持つようになり、罪を犯すようにもなりました。
 私達がこの地上で出会う災いは、すべて神との結びつきを失ったことに起源があるのです。そして、神との結びつきを失ったのは、悪魔が欺いたためです。ですから、すべての災いは、神から来るものではなく、悪魔から来るものなのです。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
(新約聖書 ローマ人への手紙 8:20〜25)


 ここで注意すべき点は、「服従させた方」とは、アダムであるということです。ここでは「方」と訳されていて「神」を連想してしまいますが、被造物を服従させていた(支配していた)のはアダム(人)です。原文であるギリシャ語は男性詞として書かれているだけで、そもそもギリシャ語には敬語はありませんから、これは「者」と訳すことが適切です。つまり、すべてのものが滅びる姿に変わったのは、アダムの罪に連動したからであり、人が変わることによって、被造物全体も変わる望みがあるということです。
 いずれにしても、この世界の災いは、死に連動したものであり、神からのものではなく、ましてや、神の怒りによるものではありません。神の願いは、私達をこの死の世界から贖い出すことです。私達に永遠のいのちを与えて救い出すことが、神の望みなのです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24〜25)


 神との結びつきがない者は、永遠のいのちを持っていません。やがて肉体の死を迎えたらそのまま滅びる存在であり、それは永遠なる神様の目からみると、すでに死人です。しかし、その死人が神の声を聞き、応答するなら、すなわち、神様を信じるなら、その人は救われるのです。イエス・キリストは、そのために地上に来たと言っておられます。
 人は、神によってさばかれたわけではなく、悪魔の仕業で神との結びつきを失ったことによって、すでに苦しみの中にいます。その私達を助けるために、神は人となって地上に来られたのです。その神様が、人に罰を与えたり、災いを与えたりすることなどあり得ないことです。

3.自分自身に対して

 すべての人が例外なく自分はダメな者だと思っています。これを劣等感といいますが、これは間違った思いです。人は何をもって自分をダメな者だと言うのでしょうか。ある人は、自分は罪を犯すからと言います。ある人は、人より能力がないからと言います。しかし、神はあなたを高価で尊く、良き者だと言われます。これは詭弁ではありません。ヨハネの福音書は、人が良き者であることの根拠を述べています。


この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
(新約聖書 ヨハネの福音書 1:4)


新改訳聖書を始め、現在は上記のように訳されている場合が多いのですが、これは、現代の訳者が、ギリシャ語の原本に、日本語でいうところの「、」と「。」を補って訳したものです。「、」と「。」のつけ方によっては、意味が少々変わってきます。実際、文献によると、2世紀頃までは、次のように理解されていました。

造られた者の内にはキリストのいのちがあり、そのいのちは人々の光であった。
(新約聖書 ヨハネの福音書 1:5)


 「私達の中に神のいのちが輝いている、それがキリストであり、だから私達も闇に打ち勝つことができる」――「、」と「。」を補うことで、このように理解することができ、これは創世記の理解とも合致します。人が良き者であることの根拠は、私たちの内に神のいのちがあるということ、ここにあるのです。

 私達は、神のいのちを吹き込んで造られた素晴らしい存在です。私達の中には、神のいのちが輝いているのです。そのいのちに希望があります。イエス様が十字架に架かることで、それを示してくださったのです。
 神様は、自分はダメな者だと思い込んでいる私達の誤解・勘違いを解き、あなたは神のいのちが宿っている素晴らしい存在であり、ダメな者などいないことを、真に知ってもらいたいと願っておられます。
 私たちの体は、肉体の死と共に御霊のからだだけにされます。さなぎが蝶になるように、私たちもそのような変貌を遂げます。心配しなくても、このいのちは、闇に打ち勝つのです。光が闇に打ち勝つように。
 人間的標準で神を知ろうとすると、自分はダメな者だから、神が私を良くしてくれるのだと誤解してしまいます。しかし、そうではないのです。神様は、あなたは良き者だから良き者だと気づかせたいと願っておられるのです。神様の福音は、×を○にするものではありません。あなたが○であることに気づかせる福音です。
 イエス・キリストは、罪を泥に譬えて、弟子の足を洗ってくださいました。この時ペテロは、イエス様に近づきたいあまり、全身を洗ってくださいと頼みましたが、イエス様は、汚れがついてしまっているだけで、あなたは良き者だと言われました。死の世界に生きていると泥がついてしまいます。しかし、私達のいのちが、神のいのちで造られた良き者である事実は変わりません。
 神様は、神の愛が見えないために罪を犯してしまう私達を、悪いなどとはまったく思っておらず、ただ助けたいと願っておられるのです。