ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年4月23日
神様とはどんなお方?

●神はいるのか

 「神がいるなら、何故戦争が起きるのか。何故貧困があるのか。」という質問は、神はいないと考える人々から、昔からよく聞かれることです。しかし、神様が戦争をしなさいと命じたわけではありませんし、神様が貧富を作ったわけでもありません。
 私達は皆意思を持っています。意思とは、自分で選択することです。その選択を間違えて失敗したとしたら、それは誰のせいでしょうか。人は、何かうまくいかないことが起こると、神のせいにしたくなります。しかし、それは神が教えたことによる結果なのでしょうか。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
(新約聖書 マタイの福音書 5:43〜48)


 この世では、敵とは憎むべき相手だと教えられます。しかし、イエス・キリストは、敵を愛しなさいとお教えになりました。戦争をしなさいとは教えず、殺すなとお教えになりました。神は私達に、最も重要なこととして、神を愛し、人を愛しなさいと教えておられます。もし、人が神の言いつけを守ったなら、戦争など起きません。
 戦争を選択したのは人です。神は戦争を止めておられます。しかし、人は神のロボットではなく、自由な意思を与えられた存在です。ですから、神様は人の選択を尊重なさるのです。
 神がいるならなぜ助けてくれないのか、という人もいるかもしれませんが、まず、神様のせいではなく、人の選択の結果だと認めなければなりません。誰かのせいにする限り、あなたの将来は何も変わりません。自分の人生は、自分で選ばなければならないからです。
 神様はあなたを助けてくださいます。それは、何を選択すればいいか教えてくださるということです。けれど、あなたの選択には手を出されません。何を選ぶかは、自分で決めなければならないのです。自分の選択の結果を誰のせいにすることもできない、この原則を忘れてはいけません。

●なぜ「神はいる」と言えるのか

 「神はいない」と言う人もいれば、「私は神に救われた」と言う人も大勢います。そして、「救われた」と言う人々の多くが、その生き方までも変わってしまったのです。もし、神がいないのなら、その人々が変わったことをどのように説明できるでしょうか。
 瀬戸内海に浮かぶ長島というところに、ハンセン病の療養施設があります。そこには、長い間、偏見と差別に苦しめられ、強制的に隔離された元ハンセン病患者の方が大勢いらっしゃいます。私が通っていた神学部では、毎年、その長島で奉仕キャンプを行っていたのですが、キャンプに参加した友人達は皆、初めて出会うその施設の方々にショックを受けたと言っていました。それは、彼らが、心から神学生達を歓迎し、まず「神様、感謝します」と感謝の祈りを捧げ、続いて学生達のために心を込めて祈ってくださる、その姿を目の当たりにしたからです。彼らの祈りには、自分のための祈りがまったくありませんでした。なぜこんな祈りができるのか、神様に出会って変えられたことが本当にわかったと、友人達は証ししていました。
 世界中には、このような方々が大勢いらっしゃいます。本当に神の愛を知ったら、本当に神様と出会ったら、どんな悲惨な状況の中にいても、救われた喜びがそれを上回ってしまうのです。苦しみの中で救われた人ほど、感謝があふれ、その喜びを世界中に伝えたいと願ってしまうものなのです。
 このような人々がいるということは、神がいることを表しているとしか言いようがありません。もし神がいないのであれば、なぜ神によって救われ、変えられた人々がこんなにも大勢いるのか、なぜ彼らはこんなに感謝して生きるように変わったのか、答えようがありません。

それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(新約聖書 ローマ人への手紙 1:19〜20)

 神がいるのかいないのかを、論理的に証明するのは難しいことです。しかし、神がいなければ説明がつかないことがこの世にはたくさんあります。この状況証拠だけでも、もし裁判をしたら勝つことができると言われています。
 たとえば、無人島で壊れた自動車やテレビを発見したら、誰もが、ここにはかつて人が住んでいたと考えることでしょう。それと同様に、この世界に人間がいるということ、生き物がいるということは、人を造った神が存在するということになるのです。なぜなら、人には命を作り出すことができないからです。19世紀中頃に発表された「進化論」という学説によって、この理論は覆されたかのように見えましたが、20世紀の初めに宇宙は今も膨張し続けていることが発見され、宇宙には始まりがあったこと(ビッグバン)が証明されました。その結果、宇宙は永遠であり始まりがないという前提で成り立つ進化論は、行き詰ってしまったのです。結局、聖書が教える通り、被造物があるならこれを造った方がいる、つまり、神がいることは明らかあるという理論に戻ってきたわけです。聖書は、人が何を論じても弁解の余地はなく、神が目に見えないから信じなかったという主張は受け入れられないと教えています。

●神とはどんな方か

1. あなたを高価で尊いと言う

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(旧約聖書 イザヤ書 43:4)

「神様の目にあなたは高価で尊い」とは、単なる気休めや励ましではなく、根拠のある事実です。聖書は、私達は神のいのちによって造られたと教えています。ですから、高価で尊いのです。私達は、神に必要とされ、神のからだの器官として造られました。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)

 あなたは自分の体を、これは必要ないと言って切り、誰かにあげたりするでしょうか。小指をぶつけたと言ってはかばい、切り傷ができたら保護して守るものです。神様も同様に、ご自分のからだの一部として私達を必要とし、大切に思っておられるのです。
 時々、「私なんか必要じゃない」「自分のような者は、神のために何かするのにふさわしくない」などと言って自己卑下する人がいますが、自分でどう思うとも、神様があなたを必要として造った事実は変わりません。
 イエス様がお選びになった弟子は、ほとんど学歴がなく、やくざのような荒くれ者もいましたし、パウロのような迫害者もいます。そのような人、一人一人に、「私はあなたが必要だ」と、神様が言われるのです。イエス様がエルサレム入城の際に、小さな子ロバに乗ったのも、同じ理由です。
 人の目から見てどのような者かは関係ありません。神様にとって必要だから、神様があなたを造ったのです。だから「高価で尊い」と言われているのです。

2. あなたを決して見捨てない

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:8〜9)

 人は、人を見捨てることがありますが、神様は、何があっても、あなたを愛し、あなたを守ります。この信仰を持つことができれば、どれほど勇気づけられることでしょう。
 かつて私は、インドネシアからの帰国予定便が欠航になってしまったことがあります。それはちょうど土曜日のことであり、私は、日曜礼拝に間に合うために、航空会社に掛け合いました。ところが、「大変気の毒だが、日曜に帰国する便にはキャンセル待ちが大勢いるから、不可能である。乗客は全員月曜日の便に代えてもらっている。」という返事でした。それでもとにかくキャンセル待ちの最後に入れてもらい、あとは祈って待つばかりです。すると、しばらくしてホテルに電話が入り、土曜日の最終便のビジネスクラスに空きができたというのです。すぐさま空港に向かい、日曜の早朝に帰国、9時の礼拝の直前に、無事に教会に到着し、メッセージをすることができました。
 その前も、その後も、どんな困難にぶつかっても、神様は、いつもぎりぎりで助けてくださり、決して行き詰ることはありませんでした。会堂建築は、その連続であったと言っても過言ではありません。私は何度もこの御言葉は真実だと体験していますし、多くの人々が、この御言葉は真実だと証ししています。神様は、絶対にあなたを見捨てることはありません。

3. あなたの罪を赦す
 私達を苦しめている最大の要因は罪です。罪とは、神の律法に逆らうことであり、神の律法は、「愛せよ」という一言に集約されます。ですから、罪とは究極的には、愛せないことを指し、私達の苦しみは、人を愛せないところから生まれています。
 すべての人と仲良く、平和に、愛し合って暮らせれば理想的だと思っても、実際には、どうしても人を裁いてしまい、文句が生まれます。そのために、不満を抱いて苦しむのです。神様は、この罪を赦し、愛することができるように、私達を変えてくださるのです。
 罪が赦される経験をした人と、してない人とでは、大きな違いがあります。私達は、罪が赦される経験によって、愛せるように変わるのです。イエス様は、「多くの罪が赦された者は、多く愛するようになる」と言っておられます。自分の罪が赦され、苦しみが取り除かれると、神のために生きたいという思いが生まれ、本気で愛する者に変わるのです。罪が赦された経験がなければ、本気で神を愛せないし、慕えません。
 私達の中には、罪がたくさんあります。この罪が自分の心を責めてつらくなり、ストレスが生まれます。その結果、さらに悪い思いが生まれたり、悪い行いに走ったり、快楽に走ったりすることで、さらにストレスが生まれ、こうして罪がはびこるのです。
 神はその罪を赦し、きよめ、私達を変えてくださいます。神の愛を知り、罪が赦されたことを知って、その感謝が人を変えるのです。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

ぜひ本気で自分の罪の赦しを求めてください。神様はその罪を赦し、すべて取り除いてくださいますから、恐れずに罪を認め、差し出しましょう。罪が赦され、取り除かれた感謝は、理屈でなく、魂でわかるようになります。