ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年4月9日
小事に忠実な者は大事にも忠実

●信仰の基礎

 聖書は、過去を振り返らず、心を前に向けて生きるように教えています。「○○だから仕方ない」と言い訳をするのではなく、前に向かって生きましょう。その第一歩は、祈りです。祈ることから始めて、前に向かって生きる基礎を築きましょう。
 何事も基礎が大切だということは、皆知っています。どのような分野でも、その道のプロから見ると、基礎ができている人か、できていない人か、すぐにわかると言います。うまく行っているように見えても、基礎ができていないと、最終的にはあまりうまくなりません。基礎があってこそ、成長し、発展するのです。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
(新約聖書 ルカの福音書 16:10〜11)


「不正の富」とは、永遠に残らない富、つまり、この世の富のことです。私達が、今預かっているこの世の富に対して忠実であるとは、どのようなことでしょうか。イエス様の時代の聖書は、旧約聖書です。旧約聖書は、富に対して次のように教えています。

人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。それは、十分の一と奉紊物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。
――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
(旧約聖書 マラキ書 3:8〜10)


 聖書は、10分の1は神のものだから、神に返すように教えています。つまり、富に対する基本とは、神のものは神に返す習慣のことです。
 ある人達は、そんなに献金したら生活ができないと言い訳をします。しかし、聖書は、本当にそうなるかどうか試してみなさいとまで教えています。小事に忠実な生き方をするために、献金という習慣を身につけるところからスタートしなさいと、イエス様は教えているのです。

●基本1 〜なぜ捧げることが大切なのか〜

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
(新約聖書 マタイの福音書 6:20〜21)


 なぜ、10分の1を神様に返すことが、小事に忠実な生き方の基本になるのでしょうか。それは、私達の心は、自分の宝に向くものだからです。つまり、富を神様に返すことによって、神様に心が向くようになるのです。心を神に向けること、これこそが最も大切なことなのです。
 イエス様は、次のように語っています。

 人は、どうしても、富にも神にも仕えたい、両方を愛したいと願ってしまうものです。しかし、そうすると心がどっちつかずになり、かえってそれが苦しみの原因となります。心を神に向けるというスタートを切るための訓練として、富を捧げるわけです。初めは誰もが捧げることに対して不安になりますから、捧げた分だけ、神様を信頼するようになります。これが、重要なのです。
 もし、献金に対して心を閉ざしてしまうと、神様が助けてくれるという信仰を持つことができません。普段から礼拝を守り、神のものを神に返す習慣があると、いざ問題にぶつかった時、すぐに神様が助けてくださるという信仰がわいてきます。これが、10分の1を神様に返すことによって作られる基礎です。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
(新約聖書 マタイの福音書 6:24)


●心を神に向ける

 私達を苦しめる問題の根本は、ほめられたいという願望です。人から良く思われることで、人の中に自分の居場所を確保して安心したいと願っているのです。イエス様は、これを「世の心遣い」と呼びました。
 さらに、人から認められ、愛されようとする生き方は、そのまま富に仕える生き方です。なぜなら、人からの評価がお金に直結します。この世は、「○○をしてくれたら、お小遣いをあげよう。賃金を支払おう」というシステムで成り立っています。人は、人からの評価と富の両方が手に入ると心地よさを覚えます。そのため、人の中に自分の居場所を設け、富に仕えて生きるようになりました。
 しかし、このような生き方こそ、自分を苦しめるものなのです。なぜなら、人から良く思われるためには、相手の期待に応えることが必要です。それは、自分を放棄することになります。また、人から認められようとすると、周りとの競争が始まり、敵が生まれます。人と自分を比べ、妬みや争いが生じるようになります。こうして、人からどう思われるか、人の目を恐れるようになり、それに対して言い訳をして生きるようになり、私達は疲れ果ててしまうのです。ベストセラーになった「嫌われる勇気」という本の中で、私達を苦しめているのは劣等感だと、心理学者のアドラーは語っていますが、劣等感とは自分を人に気に入ってもらおうと比較することで生じるものです。
 聖書は私達に、人から愛されようとするのではなく、かえって愛する者となるように教えています。愛されようとすることは、苦痛とストレスを生みます。そこから逃れようとして快楽をむさぼったり、さらなる欲望を引き起こしたりすることで、苦しみは増し続けます。このような苦しみから解放されるためには、自分の居場所はイエス・キリストだと気づかなければなりません。
 あなたをあなたのままで愛し、ありのままで受け入れていくださる方は、私達を造られたイエス・キリストだけです。イエス様こそ、聖書が教えている私達の本来の居場所であり、そこに戻ることで、私達はまったき平安を得ることができるのです。それなのに、イエス・キリストを知った後も、二つの居場所を求めていると、苦しくなるのです。あなたの居場所はイエス・キリストです。イエス様は、あなたが変わることを求めているのではありません。あなたはあなたのままでいいと言われます。イエス・キリストと出会うその時、あなたは、ありのままで愛されていることを知るのです。
 イエス様に愛されていることを知りたければ、自分の罪を言い表してみるように、神様は教えておられます。どんなに自分で自分をダメだと思うことでも、人からダメだと言われることでも、何を告白しても、イエス様はあなたを愛してやまないことを知ることができるのです。
 この愛を知るために、心を神に向ける必要があるのです。人に心を向ける限り、私達は苦しみ続けてしまいます。そこで、私達の心は富といっしょに動いてしまうという弱さを用いて富を神様に返すことで、心を神に向ける基礎を築くことができるのです。実際に実行してみると、素晴らしい効果があることに気づくでしょう。

●基本2 〜神を愛し、人を愛する〜

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(新約聖書 マタイの福音書 22:36〜40)


 信仰生活の基礎の二番目は、神を愛し、隣人を愛することです。

●神を愛するとは

 目に見えない神様を愛するスタートは、まず礼拝を守る姿勢です。礼拝は、余裕のある時に行くものではありません。神様を愛するために、何よりも礼拝を優先しようと戦う姿勢も必要です。これが基礎となり、最終的なゴールであるどんな時にも神のことばを信頼できる平安を手にすることができるようになります。神を信頼する訓練を受けることが、神を愛することにつながります。
 神様を愛するとは、神様を信頼することです。神様を信頼するとは、つぶやかないことです。不信仰こそが、イエス様が涙するほどの罪であることを忘れないでください。どんな患難に出会っても、神様を見上げて信頼し、つぶやかないように戦いましょう。その基本が、日々の生活の中で礼拝を守ることであり、また献金を捧げることなのです。

●隣人を愛するとは

 1. 怒らない
 怒りは、どうすることもできない感情ではありません。夫婦げんかの最中でも、重要な電話がかかってきたら、一瞬で態度を変えることができるように、怒りを制御することは可能です。怒りは、自分の思いを伝えるための単なる道具です。しかし、それは、人間関係を壊すものですから、自分の思いを伝えるために、怒りという道具を使ってはいけません。隣人を愛するとは、第一に怒りと戦うことです。

 2. 裁かない
 誰にも気づかれず、心の中で裁いたとしても、自分の調子を崩してしまいます。裁いてはならないことは、聖書の基本です。

 3. 加点方式で見る
 こうあるべきだというイメージを持って、あれもできない、これもできないという減点方式で人を見るのではなく、できることを見つけていく加点方式を取りましょう。

 神を愛することのゴールも、人を愛することのゴールも、相手を信頼することです。相手に対して疑いを持つと、つらい関係になってしまいます。条件をつけずに人を愛し、互いに信頼できるようになる関係を築くには、自分がイエス様から無条件に愛されていることを知る必要があります。イエス様は、何物にも代えがたいものとして、無条件であなたを愛しておられます。この愛を知ると、人を愛することができるようになります。
 隣人を愛する基礎は、神様に愛されていることを知ることです。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(新約聖書 ローマ人への手紙 5:6〜8)


 イエス・キリストがあなたを愛し、あなたのために十字架にかかったことを知り、自分は神に愛されているという基礎ができると、患難に遭っても、希望が見えてくるようになります。どんなときも、どんなことも、神様が助けてくれることがわかり、希望が見えてくるようになるのです。このようにして、私達は希望に向かって進むことができるようになるのです。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜5)


 後ろを振り返る必要はありません。基礎を築く生き方を選び、希望を見出す生き方に進みましょう。信仰を使って前に進むには、基礎が必要です。祈り、聖書を読み、礼拝・献金という基本を守って、心を神に向ける習慣を築きましょう。すると、神様を信頼することが習慣になっていきます。
 私達が目指すゴールは、どんな患難に遭っても神のことばを信じる姿勢です。必ず奇跡が起こります。つらいことがあっても、必ず神様は助けてくださいます。どんなことがあっても、神に居場所を求め、あきらめないで神様を信頼し続けましょう。