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2017年4月2日
前を向いて歩こう

 人生を前向きに生きるとは、「○○だから仕方ない」と言い訳しないことです。人は、何かをしない理由を、環境などの外部の状況のせいにして、「だからできない」という言い方をよくします。しかし、それは自己防御であって、事実とは言えません。事実は、「自分でやらないことを選択した」ということになります。なぜなら、人は自分の人生を自分で選択するように造られているからです。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』
(旧約聖書 創世記 1:26〜28)


 神様は、私達人間を、神に似たものとしてお造りになり、自分で管理し、自分で選択して、この地を治めるようにお命じになりました。つまり、すべて自分自身の選択によって私達は生きているということです。誰かがあなたの代わりに選択したり、あなたの人生を代行してくれるようなことはありません。いくら「○○だから仕方がない、できない」とか、「自分がこうなったのは○○のせいだ」と、言い訳をしても、最終的にその行動を選択したのは自分自身です。できないのではなく、自分で選択したことになるのです。
 悪魔がアダムとエバを誘惑した時も、無理に木の実を食べさせたのではなく、二人が間違った選択をするように誘導しています。また、神様が人を救う時も、強制的に救うことはなさらず、私達が神様に応答することを選択することができるように、呼びかけ続けておられます。それは、人は自分で選択して生きる者として造られているからです。もっと身近な例をあげるなら、「仕事が忙しいから残業のせいで帰れない」のではなく、「自分で残業を選択し、帰宅しないことを選択した」のであり、「勉強が忙しいから、手伝いができない」のではなく、「手伝わないことを選択した」ということになります。この理屈がわからないと、私達は正しい選択をすることができず、いつまでも人や環境のせいにして、前に進まない道を選んでしまうことになるのです。

『さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」』
(新約聖書 ルカの福音書 9:57〜62)


 ここで、イエス様に従いたいと申し出た人々は、皆言い訳をして、今はついていけないと言っています。つまり、イエス様について行くという優先順位が低いため、本当はついて行きたくないと言っているのです。しかし、イエス様の前で、言い訳しても意味がありません。
 聖書は、言い訳をしないで、前を向いて生きることを教えています。あなたは、様々な場面で言い訳をして生きていないでしょうか。言い訳は、あなたの人生を後ろ向きにします。あなたは、自分で選択して生きるように、神様に造られているのです。

●1.後ろを見ない

『彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」』
(旧約聖書 創世記 19:17)


 御使いは、この後に起こる災害から、ロトの家族を助けようとする時、「うしろを振り返ってはいけない」と命じています。うしろを振り返らないとは、聖書の一貫した教えです。
 人生において後ろを振り返るとは、後悔、あるいは、成功体験を思い起こすことです。後ろを振り返ることによって、神様が導く本来の生き方ができなくなってしまうのです。

『ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。』
(旧約聖書 創世記 19:26)


 振り返ったロトの妻が塩の柱になったことには、過去を振り返ることによって、動けなくなってしまうという霊的な意味があります。私達は、後ろを見ないで前を向いて生きなければなりません。それは、言い訳をしたり、人のせいにしたりしないということです。後ろを見たところで、過去に戻ることはできません。私達が向かうのは前なのです。

●2.目的を持つ

 聖書は、ビジョンを持たない民は滅びると教えています。目的を明確に持つことができないと、環境や過去と結びつけて進めない理由を探し、前に進むことができません。目的があれば、前に向かって何をしたら良いかという選択をすることができます。
 しかし、目的を持ちさえすれば何でもいいというわけではありません。この世の中が目標として教えているのは、人からほめられ認められることです。しかし、自分の利益を求めると、それが自分を苦しめて、自分を行き詰らせる結果になります。なぜなら、ほめてもらおうとして相手の価値基準に合せて生きることになり、ほめられることが律法になり、ほめてくれる人に仕え、自分を放棄する生き方になってしまうからです。これもまた、自分を塩の柱にしてしまいます。
 聖書は私達に、何をしても良いけれど、すべてが益になるわけではない、自分の利益を求めるのではなく、相手の利益を求めて生きるように教えています。正しい目的を持たなければ、結局自分を滅ぼしてしまいます。正しい目的を持つには、どうすれば良いのでしょうか。

時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
(新約聖書 エペソ人への手紙1:10〜11)

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(新約聖書 エペソ人への手紙2:14〜16)

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
(新約聖書 エペソ人への手紙4:16)


 私達はキリストの一部として造られました。ですから、私達の目的は、キリストとひとつになることです。私達はそのために召され、生きているのだと聖書は教えています。すべての人がキリストとひとつになる目的があるということは、私達が生きる目的は、キリストと一つになり、人々と一つになることです。そのために、イエス・キリストは十字架にかかられたのです。イエス様が十字架にかかったのは、私達が一つになることを妨げている敵意を打ち壊すためなのです。
 人々がひとつとなり互いの中で成長するように、神様が私達を造りましたから、私達は一人で成長することはありえません。ですから、自分のために生きるとうまくいかず、それは過去を見て生きるのと変わりがない生き方になります。
 つまり、前を向いて生きるとは、他人の利益を求めて、神と人を愛し、一つとなって生きることです。パウロはこのことを、「私は福音のために生きる」と表現しました。自分のためではなく福音のために生きる、それは、神と人を愛することです。その目的に生きるとき、私達は平安を見出します。この目的が明確でないと、いつも自分を見て、言い訳をする人生になってしまいます。

●3.目的に対してできることを探す

 この世は、常日頃から、減点方式で物事を見ることに慣れています。人に対しても、出来事に対しても、これができない、あれがないと、不足を見つけるのが、減点方式です。そうではなく、加点方式にすると、これもできる、あれもできると、感謝が生まれます。
 減点方式で生きてしまうと、できない言い訳を探す生き方になってしまいます。言い訳を見つけて、できないと決めるのではなく、目的を明確にして、何が出来るだろうかと考える癖をつけましょう。
 できることから始めるその第一歩は、祈りです。目的を持てば、祈ることは誰でもできます。祈ることもしないのであれば、後ろ向きに生きるしか選択はありません。私達は、前に向かって生きるように造られていますから、一歩を踏み出すと、次の選択が見えてきます。家族や友達に救われてほしいと願うなら、何から始めれば良いか、まずは祈りからです。
 私達は、イエスを裏切ったユダとペテロから、何を選択して生きるかの大切さを学ぶことができます。ユダは、イエス様を裏切ったことを後悔し、首を吊って自殺する選択をしました。ペテロもイエス様を裏切りましたが、それでも遠く離れてイエス様の後ろからついて行く道を選びました。
 今、何を選択するかが、今と未来を結ぶ架け橋になることを忘れてはなりません。今を過去と結びつけるのではなく、正しい選択をしましょう。それは、前を見る選択です。ユダとペテロの違いは、後ろを見るか、前を見るかという選択の違いです。今自分が不幸である言い訳を見つけて生きるのではなく、前を見て、前に向かう一歩を、選択しましょう。

『「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』
(旧約聖書 イザヤ書 1:18)


 神様はあなたの過去を見ません。人は、あなたが過去に何をしたかをさばきますが、神様にとってあなたの過去は白紙です。それが、罪の赦しの本質です。
 神様の関心は、あなたが前に向かって何をするかということです。私達が、自分自身で過去を振り返り、言い訳をしたり、傷ついたと言って訴えたり、愚痴をこぼしたりするとき、神様は、後ろを振り返らず前を見て、今できることを選択しなさいと導かれます。
 聖書は、後ろを振り返るなと一貫して教えています。後ろを振り返ってしまうと、塩の柱のように動けなくなってしまいます。しかし、神を愛し人を愛する目標を掲げ、前を向いて生きるならば、愛されている自分に気づき、まことの安らぎを手にすることができます。
 本当の意味で前を見て歩きましょう。私達は、前を向き目的を持って生きるように造られました。後ろ向きに生きると、滅んでしまいます。神様は、あなたの過去も罪も一切ご覧になりません。だから、過去を気にすることなく、前を向いて生きましょう。自分がほめられるためでなく、神を愛し人を愛することを目指して生きるなら、その基本は、礼拝に出ることです。言い訳をせず、神を愛することを選ぶなら、礼拝を選択するようになります。それが、私達が正しい目的に向かって進む第一歩になるでしょう。