ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年3月19日
苦しみの原因と解決

 人の問題を考えるときの基本は、「私達は何者なのか」ということです。自分の本来の姿を知らなければ、自分の生き方が正しいのか、間違っているのか、どこを直せば良いのかなど、わかるはずがありません。健康な姿を知るがゆえに、病気を知ることができます。本来の車の設計を知っていれば、故障や不具合に気づくことができます。基本があって、初めて私達は自分を知ることができます。この基本があいまいだと、間違った解決をしてしまいます。

●人はキリストの器官として造られた

『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』
(新約聖書 ローマ人への手紙 12:5)


 人は皆、神に似せて造られたものであり、ひとりひとりはキリストの器官として造られています。あなたはあなたであるがゆえに素晴らしいのですから、他のものになってはいけません。
 ところが、この世は、常に人と人を比べ、何かできるようにならなければ、素晴らしいとは言われません。そのため、人は、自分を捨てて、他の人になろうとして頑張るようになりました。ここに、人がつらくなる原点があります。
 神様は、手は手として必要であり、足は足として必要なように、あなたはあなたとして必要だと言われます。つまり、私達の本来の居場所はキリストなのです。これが人間の基本です。
 キリストとつながり、キリストの器官として生きる自分を受け入れることが、人を受け入れ、愛することにつながります。自分を受け入れることができない人は、人を愛することができません。私達が人に腹を立てて憎んだり、愛せなかったりするのは、突き詰めると自分を愛せないからなのです。
 私達が自分を愛せないのは、本来の居場所に留まっていないからです。イエス・キリストという本来の居場所に戻れば、自分が神に受け入れられていることに気づくのです。

●劣等感を克服するには

『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』
(新約聖書 ローマ人への手紙 12:6〜10)


 人は、本来のキリストの居場所を離れ、人の中に居場所を求め、人に愛されるために、自分ではない自分を目指して頑張ります。自分ではないものになろうとすると、そこに偽りが生まれます。自分を偽って生きるのは、愛ではありません。互いに偽らないとは、それぞれが互いの器官であり、それを受け入れ合って生きることです。互いの違いを知ることは、互いに尊敬することです。このような横の関係こそ、神様が造られた私達の関係です。
 ところが、この世は、親子でも学校でも会社でも、誰が偉いかという縦の関係を築こうとします。これは神様が造った私達の姿ではありません。ですから、当然そこには摩擦が生じ、人を苦しめます。
 私達の居場所はキリストであり、一人一人に違いがあり、自分が自分であるがゆえに、そのままで受け入れられています。そしてその違いを、互いに尊敬し合うものとして造られたのです。これがわかると、大きな平安が訪れます。そして、人を愛し、互いに尊敬できるようになり、神を愛し人を愛するという、私達が神様に造られた本来の姿に戻ることができるのです。
 人が自分を隠そうとするようになったのは、蛇に騙されて、神様が食べてはいけないとお命じになった木の実を食べた後のことです。この時、神と異なる思いを持ったことによって、神と一つであった関係が壊れてしまいました。神との関係を失うことは、いのちを失うことを意味します。この時、人類に死が入ったのです。聖書が教える死とは、神との関係を失うことです。

●人の中に居場所を求めてはならない

 多くのクリスチャンは、せっかくイエス・キリストの中に居場所を見出したにも関わらず、相変わらず人の中に居場所を求めています。ここに私達を苦しめる問題が生じます。なぜでしょうか。
 人の中に自分の居場所を確保するとは、人から認められ、受け入れられようとすることです。それは、私をほめてほしい、認めてほしい、愛してほしいと、人生の主語が「私」になることです。しかし、本来私達の人生の主役は、キリストです。私達はキリストの器官として、互いを受け入れ合い、尊敬し合う横の関係で生きるように造られているのです。しかし、ほめられようとすることによって、人との競争が始まりました。この世は、競争に勝った人をほめるものだからです。こうして、人は敵になり、神様が教える人を愛する生き方とは正反対の生き方が始まりました。人はキリストの器官として神を愛し人を愛するように造られています。ですから私たちは、人を愛さない方向に行けば行くほどつらくなるのです。その入り口のドアは「ほめられたい」という願望です。
 人がつらさを感じるその原因は「ほめられたい」という思いに集約されています。アダムの子カインは、弟アベルが神様にほめられたのを見て腹を立て、弟を殺してしまいました。ほめられたいという思いは、最終的に殺人にまで発展するのです。

●この世の心づかいをやめよ

イエス・キリストは、私達を苦しめている、御言葉をふさぐ罪の実体について、次のような説明をなさっています。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』
(新約聖書 マタイの福音書 13:22)


 罪の筆頭は、富の惑わしではなくこの世の心づかいです。この世の心づかいとは、相手からほめられようとする気遣いのことです。
 マルタは、イエス様をお迎えした時、イエス様に喜んでほめてもらおうとして、一生懸命接待のための気遣いをしました。しかし、妹のマリヤはイエス様の言葉に聞き入るばかりで、いっこうに手伝おうとしません。マルタは、イエス様のために何も働かない妹に腹を立て、イエス様にマリヤをしかってくださるように頼みますが、この時イエス様は次のように言われました。

『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』
(新約聖書 ルカの福音書 10:41〜42)


 この「気を遣う」という言葉は、「この世の心づかい」と同じギリシャ語です。イエス様はマルタに、この世の心づかいをやめなさいと言われたのです。
 罪とは、人を殺したり嘘をついたりという道徳的なことだけではありません。人からよく思われようとするこの世の心づかいこそ、私たちを苦しめている罪の入り口です。富の惑わしも、この世の心づかいから発したものです。それは、この世は、ほめられるということを、すべてお金に換算するからです。良いことをしたほうび、働きに対する報酬、謝礼などを、自分の価値として受け取るわけです。つまり、ほめられたいという思いが動機になり、富に仕える生き方が始まったのです。

●ふたりの主人に仕えるとは

人は同時に二つの場所に存在することはできません。イエス様は、クリスチャンに対して、キリストという居場所に戻ったら、人の中に自分の居場所を求めようとする生き方をやめるように語っておられます。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』
(新約聖書 マタイの福音書 6:24)


 人は、ほめられたいと思う相手の言葉に従います。これは縦の関係です。しかし、神様が造った関係は、互いに尊敬し合う横の関係です。縦の関係になると、自分ではなく人のための人生を生きることになり、私達はつらさを感じます。ほめられようとすることは、自分ではない自分になるということです。これが、今の世界の仕組みになっているため、いつの間にか自分ではない人生を送ることになってしまっているのです。
 ある時ペテロが、イエス様に対して忠告をした際、イエス様は次のように言われました。

『しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』
(新約聖書 マタイの福音書 16:23)


 ペテロは、神に仕えると言いながら、人に良く思われようとして生きていることに、まったく気づいていませんでした。イエス様は、このことに対して「下がれサタン」と言われたのです。それは、この思いこそが罪の入り口だからです。
 私達は、クリスチャンになってからも、人から良く思われようとして、人と競争し、嫉妬し、さばくことを繰り返しています。自分が与えられたものではない他のことをして賞賛を得ようとしてつらくなっています。私達が最も気をつけなければいけない罪は、人から良く思われようとすることです。
 ペテロは、自分が人の中に居場所を探そうとしていることに気がついていませんでした。イエス様に注意されてもなお、
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(新約聖書 ルカの福音書 22:33)
と、自分はイエス様を第一に思っていると思っていました。
 ところが、実際にイエス様が捕らえられ、人々から「あなたはキリストの弟子だ」と言われると、ペテロは、イエス様のことを知らないとかたくなに拒否してしまいます。
 この時、ペテロは、自分はイエスに仕えていたのではなく、人から良く思われようとして人に仕えていたことに気づくのです。「二人の主人に仕えてはいけない」「下がれサタン」「種まきのたとえ」…、これらのイエス様の言葉は私の事だ、ほめられよう、人から良く思われようとして生きてきた自分は、なんと罪深いことか……。
 ショックを受けたペテロの「主よ、私を憐れんでください」という魂の叫びは、イエス様に届き、イエス様はじっとペテロを見つめられました。

『主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。』
(新約聖書 マタイの福音書 22:61)


 ペテロはこの後、外に出て激しく泣きました。それは、振り向いたイエスの目が、私はあなたを愛していると語りかけていたからです。イエス様はこんな私を愛し受け入れてくださっていると知って、ペテロは激しく泣いたのです。なぜそれがわかるかというと、この後のペテロの行動がまったく別人のように変わり、イエス様と同じ生き方をするようになったからです。
 ペテロは、神と人の両方に仕えようとする自分の罪に気づき、それでもイエス様は自分を愛している、神は無条件で私を受け入れていると気づき、自分の居場所はここしかないと悟りました。この喜び、感激が、ペテロを、キリストの愛を伝える生き方に変えたのです。ほめられようとする生き方から、人を愛することを喜びとする生き方に変わること、これが私達の苦しみを解放する唯一の解決となるのです。

●キリストという土台にふさわしい建物を建てる

 人の苦しみは、人の中に自分の居場所を確保しようとするところにあります。そのために人からほめられようとすればするほど、つらくなります。しかも、私達はそれが罪であることになかなかと気づきません。
 人があなたをどう思うかは相手の自由です。それを支配しようとすると、自分がつらくなります。私達の仕事は、相手の考えを変えようとすることでも、人から良く思われようとすることでもありません。人を愛することです。この線引きができないと、いつまでたっても、つらさから逃れることはできません。
 この生き方から解放されるためには、イエス・キリストとしっかりつながることが必要です。あなたを愛してやまないイエス様とつながることで、自分を好きになることができ、人を愛することができるようになります。神にも仕え、人の中にも居場所を求めようとする二股の生き方をやめなければ、クリスチャンであっても、つらい生き方は変わりません。自分が人の中に居場所を見つけようとしていないかに気づくために、聖書は次のように教えています。

『あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。 』
(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:3〜4)


 肉に属すとは、人の中に自分の居場所を見つけようとしているということです。それが、ただの人の生き方です。せっかく救われたのに、いまだにイエス様を知らないただの人のように、人の中に自分の居場所を求める生き方をしているのですか、と聖書は問いかけています。そのことに気づくキーワードは、妬みや争いです。わかりやすく言えば、「あの人はいいけど、この人はきらい」という生き方です。
 しかし、キリストを信じて救われた人に対して、そのような生き方をやめて、次のように生きるよう教えています。

『というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』
(新約聖書 コリント人への手紙第一3:11〜17)


 あなたは、キリストという土台の上に、キリストの一部として組み込まれました。その土台の上に、あなたはどのような居場所を建てているでしょうか。金や銀などで建てるとは、人からの評価を自分の居場所として建てることです。そのような物は、肉体の死を迎える時、すべて消え去ります。ただし、たとえ建物が消えても、イエス・キリストという土台は残るから、その点に関する心配はいりません。しかし、神様は、やがて消え失せるような建物ではなく、土台に合った建物を建ててほしいと願っておられるのです。
 イエス・キリストこそ、永遠に残る土台であり、あなたの居場所です。その居場所にとどまるなら、人にほめられようとする生き方をやめ、人を愛せるようになります。あなたがいつまでも人の中に居場所を求めるなら、人を恐れ、人を主人とする生き方をやめられず、つらさから解放されることはありません。

●礼拝を大切にする

 イエス様という居場所に戻ることを第一にするようになると、礼拝を大切にするようになります。それは、私達が互いにキリストの器官であることを学び、互いに尊敬し合い、キリストの体であることを確認できる唯一の場所が礼拝だからです。
 あなたにとって礼拝はどのようなものでしょうか。礼拝は、時間があったら行くものではありません。もし礼拝が第一でないなら、それは、礼拝に勝る喜びを持っているということです。しかし、主を第一とし、キリストとしっかりつながるならば、自分がありのままで受け入れられていることに気づき、自分の存在の素晴らしさに気づきます。こうして、人を愛せるようになり、苦しみから解放される生き方が始まるのです。
 教会はキリストの体であり、その始まりは礼拝です。人からほめられようとして生きると、礼拝は二の次になります。そして、ほめられようとすればするほど、つらさが増し加わります。
 私達が、共に礼拝し、共に祈ることを大切にできるようになると、人を裁かなくなり、すべてのことを感謝できるように変わってきます。人からどう思われるかではなく、人を愛する生き方に変わります。
 私達の苦しみを解決するカギは、神の国と神の義を第一にするところにあるのです。