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2017年3月12日
幸せになるには

●どうしたら幸せになれるのか

 人の苦しみの元をたどっていくと、すべての苦しみは対人関係から生まれていることがわかります。ということは、対人関係を変えることによって、私達は幸せになれるのです。私達は、どのような対人関係を築けば良いのでしょうか。
 人間は、本来、神に似せて造られた存在です。神は、無条件に私達を愛してくださる、愛の神であり、私達にも、神を愛し人を愛せよと、教えています。つまり、人は、人を愛するように造られているのです。そのために、私達は、人を愛せないとつらさを感じます。ですから、人を愛せるようになる時、私達は幸せになれるのです 。

●人を愛するものとなる

『…心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。
(新約聖書 マルコの福音書 12:30〜31)


 私達はキリストの一部です。キリストほど信頼できる方はいません。ですから、キリストの一部であるあなたは、信頼できる存在なのです。これはまた、キリストはあなたを信頼しているということでもあります。
 このことに気づかないと、自分を愛することはできないでしょう。神様が私達を信頼するから、自分を信頼できるのです。自分が信頼されていると知ることは、私達に本当の勇気を与えます。人は、ほめられることでは、勇気を得ることはできません。それは、頑張らなければほめられないという思いを増し加えるだけです。
 神様はあなたを、ありのままで信頼しています。あなたは、ありのままで神様にとって役に立っており、神様にとって必要な存在なのです。なぜなら、あなたはキリストのからだの部分だからです。こんな私が信頼され、必要とされていると知るとき、私達は勇気を持つことができるようになるのです。

●自分を愛し受け入れるとは

1.自分を信頼する
 聖書が教える愛とは信頼することです。ですから、自分を受け入れるとは、自分を信頼することです。
 多くの人は、自分を信じてはいますが、信頼してはいません。「信じる」とは、信じるために条件をつけることです。しかし、信頼は無条件です。○○ができるから自分を信じられるとか、「○○ならいいのに…」と、自分に条件をつけるのは、信頼とは言いません。自分を無条件に信頼するには、どうすれば良いのでしょうか。

私たちはキリストのからだの部分だからです。
(新約聖書 エペソ人への手紙 5:30)


 私達はキリストの一部です。キリストほど信頼できる方はいません。ですから、キリストの一部であるあなたは、信頼できる存在なのです。これはまた、キリストはあなたを信頼しているということでもあります。
 このことに気づかないと、自分を愛することはできないでしょう。神様が私達を信頼するから、自分を信頼できるのです。自分が信頼されていると知ることは、私達に本当の勇気を与えます。人は、ほめられることでは、勇気を得ることはできません。それは、頑張らなければほめられないという思いを増し加えるだけです。
 神様はあなたを、ありのままで信頼しています。あなたは、ありのままで神様にとって役に立っており、神様にとって必要な存在なのです。なぜなら、あなたはキリストのからだの部分だからです。こんな私が信頼され、必要とされていると知るとき、私達は勇気を持つことができるようになるのです。

2.人と違うことに価値があるのではない

 自分の素晴らしさを知ろうとする時、人と違う個性や能力を探してはいないでしょうか。しかし、人との違いに価値を求めると、自分を受け入れられなくなってしまいます。聖書の中に「パリサイ人と取税人の祈り」が描写されていますが、パリサイ人は取税人と自分を比較し、「ことにこの取税人のようではないことを感謝します」と祈りました。これは、自分の価値を、人との違いの中に見つけようとしている現われです。
 私達の価値は、人と異なるところにあるわけではありません。あなたはあなただから価値があるのです。手は足ではないから価値があるわけではなく、手だから価値があるのです。
(新約聖書 マルコの福音書 14:3〜9)

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
(新約聖書エペソ人への手紙 2:19〜22)


 私達は、キリストという土台の上に建つ神の建物であり、一人一人、それぞれ役割が異なるパーツです。確かに、それぞれのパーツに違いはありますが、違いがあるから素晴らしいのではなく、それぞれが神の建物に必要なものとして造られているから素晴らしいのです。あなたは人と違うから素晴らしいのではなく、あなたはあなただから素晴らしいのです。
 すべての人は、神の建物にとって必要なパーツです。建物にとって必要な部分が抜けてしまうと、建物全体が壊れてしまいます。このことに気づき、自分が神にとって必要な存在だと知ることが、自分を受け入れるということです。
 人と違うところに価値があるのだと勘違いして、人との違いを見つけて喜ぶ生き方は、いつまでたっても自分を受け入れたり、愛したりすることができません。一時は喜んでも、なんらかの面で自分よりもさらに優る人が必ず現れるからです。そうすると、私達は自分を偽って生きなくてはならなくなります。自分を愛し受け入れ、人を愛する者となるためには、人と違うことに価値を見出すような生き方を変えなければなりません。

3.キリストの十字架を見上げる

 私達が、自分で自分を受け入れられないのは、自分に敵意を抱いているからです。聖書は自分を愛するように人を愛せよと教えていますから、自分を愛せないと人を愛することができません。それと同様に、自分に対して怒る人は、人に対しても怒りを覚えます。
 ですから、自分に対する敵意を捨て去らない限り、自分を愛し受け入れることはできないし、人を愛し受け入れることもできません。ここに、幸せになる鍵があります。イエス・キリストは、この敵意を葬り去るために、十字架にかかったのです。

ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15〜16)


 すべての人は、自分は愛されるはずがないという恐れを持っています。この恐れを、イエス・キリストの十字架は締め出すのです。なぜなら、キリストの十字架は、あなたを愛している証しだからです。イエス・キリストは、「私はあなたを友と呼ぶ。友のためにいのちを捨てるよりも大きな愛はない。」と言って、十字架にかかりました。十字架は、本気であなたを愛し、信頼し、大切に思っている証しです。
 自分が本気で愛され、信頼されていることを知る時、恐れと敵意は廃棄され、自分を愛せるようになります。十字架を見上げない限り、敵意はなくなることはなく、人も自分も、愛することができません。
 つらさを感じて悩むということは、結局のところ、神に愛されている自分を理解していないのです。この愛を知れば、自分を条件なしで愛せるようになり、人を愛せるようになります。イエス様の十字架を見上げましょう。それが、自分を愛することにつながります。そして、人を愛することができるようになり、幸せをつかめるようになるのです。

4.人生の主語が私から私達に変わる
 自分が幸せになることを願って自分のために生きても、幸せになることはできません。なぜなら、人はキリストのからだとして、共に幸せになるように造られているからです。自分ひとりで生きようとすると、自分を受け入れることができませんが、共に生きるために造られたことを認めて受け入れると、自分をそのままで受け入れられるようになります。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
(新約聖書 エペソ人への手紙 4:16)


  一人一人が結び合わされて共に成長するということは、私だけが幸せになる道は存在しないということです。自分だけのことを考えると、幸せを感じることができず、ますます「私」に閉じこもることになってしまいます。ですから、本当に幸せになりたいのなら、「私達」を生きましょう。自分を受け入れ、人を受け入れて、人々が皆、継ぎ合わされて生きる道を歩みましょう。周りといっしょに幸せになることを願って生きるなら、人生の主語が、「私」から「私達」に代わります。その時、初めて自由を手にすることができます。「私」を生きようとする限り、周りはいつも敵になり、何かにおびえて生きていかなければなりません。しかし、みんなが一つとなっていっしょに成長するのだと考えると、人を仲間と見ることができ、まことの喜びと自由を感じることができます。
 聖書は、それぞれが結び合わされ、共に建てあげられて成長するように教えています。「私」を生きるのか、「私達」を生きるのかで、幸せをつかめるかどうかが変わるのです。

5.私から私達になるために

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください
(新約聖書 エペソ人への手紙 6:18〜19)


 「私達」を生きる第一歩は、人のために祈ることです。自分のためばかりに祈れば祈るほど、人を愛することができなくなります。自分のためではなく、自分の周りの人のため、互いのために祈ることが、私達を生きるということです。祈りは、「私達」を生きるために必要なものであるとも言えます。
 あなたは、自分のことばかり、祈ってはいないでしょうか。自分のために祈り、神様が答えてくださることを知る子ども時代を過ぎたら、次は互いのために祈りましょう。他の人々のために祈ることを、とりなしの祈りと言います。人々のために祈るようになると、本当の幸せがやってきます。なぜなら、それが人を愛するということだからです。とりなしの祈りは、自分を自由にします。自分のためにだけ祈る人は、本当の幸せを感じられません。互いが互いのために生きる生き方ができるようになれば幸いです。

 聖書は、自分を受け入れ、幸せになる生き方を教えています。自分がキリストの一部であることを喜び、人と共に生き、人のために祈りましょう。聖書が、「互いに愛し合いなさい」と教えているのは、それが自分の幸せにつながるからです。神様はあなたを信頼し、愛して十字架で死なれました。ですから、あなたも自分を信頼し、自分を愛し受け入れていきましょう。