ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年3月5日
居場所探し

あなたの居場所

 「人とは何者なのか」…このことを知らなければ、問題を正しく解決することはできません。この問いに対して、聖書は、「人はキリストの器官である」と教えています。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)

 すべての器官は、体につながり、体と共に働きます。体から離れては、器官としての働きはできません。また、体につながっている器官は、どこからどこまでが自分なのかなどと、考えることもありません。自分の姿を意識することがないため、自分を見て恥ずかしいと思うこともありません。  アダムとエバも、神様と一つ思いであったときは、

『人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった』(旧約聖書 創世記 2:25)

   とあります。このとき人が意識するのは、自分の中にキリストが生きておられるということであり、自分とキリストとは一つ思いで結ばれているということだけです。パウロは、次のように述べています。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

私たちの「居場所」は、キリストです。キリストとつながっている姿こそ、人の本来の姿なのです。

神と離れた人間

 では、もしキリストの器官である私達が、その体であるキリストから離れてしまったらどうなるでしょうか。「手」が体から切り離され、手だけの姿になったとしたら、体を見ることができなくなり、否が応でも自分の姿を知ることになります。
 
 アダムとエバに起こった出来事がまさにそうでした。「この実を食べたら死ぬから食べてはいけない」と、神様から言われていた実を食べてしまった二人は、神様と一つ思いでなくなり、神から分離しました。
 分離することを、聖書は「死」と呼びます。こうして、人に「死」が入り込み、神との結びつきを失い、アダムとエバは自分の姿を知ることになりました。
 
『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った』(旧約聖書 創世記 3:7)

 二人が知った自分の姿は、神に結びついていた時の姿とは、まるで違うものだったので、二人には価値が失われているように見えました。そのため、自分を隠したいと思って、いちじくの葉をつづり合わせ、自分達の腰の覆いを作ったのです。

『そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(旧約聖書 創世記 3:7)

  この御言葉は、二人が神様との結びつきを失ってしまったことを示しています。聖書は、悪魔に欺かれたことで人が罪を犯すようになり、その罪に伴って「死」が入り、それが全ての人に広がったと教えています。

『蛇が悪巧みによってエバを欺いたように』(新約聖書 コリント人ヘの手紙第二 11:3)

『このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。』(新約聖書 ローマ人ヘの手紙 5:12 新共同訳)

   こうして私達は、キリストとの結びつきがない姿で生まれ、キリストという本来の「居場所」を失った中で生きていくことになりました。そのために、心は言いようもない不安や恐れを感じて生きています。私達が日頃抱いている不安や恐れは、実はここから来ているのです。
 この不安や恐れを解消しようとして、人は、人との関わりの中に自分の居場所を見つけようとするようになりました。神が見えない「死の世界」では、人との関わりの中に器官としての自分の役割を見出すしかなかったのです。このことは、裏返すと、人は、孤立することを最も恐れ、何かに所属していることが生きがいになったということを意味しています。
 人は、キリストの器官としての「居場所」を失ったことで、自分の新たな「居場所」を人の中に求めるようになりました。しかし、そのことがまた、人生のさまざまな問題を生み出しているのです。

人の中に居場所を探す生き方
ほめられようとする
 私達は、ほめられると、自分は役に立っていると感じることができます。それが、自分の特別な「居場所」となります。人は、すべての人との関わりで、ほめられることを求めています。ところが、イエス様はこれを「この世の心づかい」と言って、御言葉をふさぐ罪の始まりであることを教えられました。


『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです』新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   私達にとってほめられるとは、人よりも特別なものになるということです。ですから、ほめられたいと思うと、人との「競争」が始まります。また、ほめられたいと思うことで、他者がほめられると悔しいという思いを持つようになります。実際、カインは、アベルが神様にほめられたことで、悔しさを感じています。

『だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた』旧約聖書 創世記 4:5)

ほめられることに自分の居場所を求めると、相手を蹴落としてでもほめられようとするようになります。アダムは、自分の罪を神様に問われた時、エバのせいにして、自分だけは認められようとしました。

『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』旧約聖書 創世記 3:12)

つまり、ほめられることを求めた瞬間、周りの人は競争相手となり「敵」になってしまうのです。これは、「愛せよ」という最高の神の律法に逆らった生き方です。ですから、イエス様は、「この世の心づかい」を罪の筆頭にあげられたわけです。
 
注目を集めようとする
 人からほめられようとして頑張っても、この競争に勝つことができるのは、一握りの人だけです。多くの人は頑張っても、なかなかほめられるような結果を残すことはできません。そうすると、人は、自分の「居場所」を確保する次の手段として、何でもいいから人の注目を集めようとするようになります。
 わざと親が怒るようなことをしたり、周りから非難されるようなことをしたりすることで、叱られたり非難されたりして、人との関わりを持ち、それを自分の「居場所」にするのです。わざと周りからバカにされることをすることで、人との関わりを持つこともできますし、周りの同情を買うことを話したり、人が持っていない物を見せびらかしたりすることも、そのことで人との関わりを持って、そこを自分の「居場所」にするためです。

権力闘争をする
 いくら人からの注目を求めても、私達の心は決して満足に行きつくことはなく、さらに高みを求め、人の上に立とうとして権力闘争をするようになります。人の上に立つことで、相手よりも役に立っていると感じることができるため、それが自分にとって心地よい「居場所」となるからです。
 イエス様の弟子達も、誰が偉いかを競い合いました。

『さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。』(新約聖書 ルカの福音書 9:46」)

 権力闘争は、一般に相手をさばくことで行われます。弟子達が、イエス様の足に香油を塗った女性を大いにさばいたのは、彼女が権力闘争に割り込んでこないようにするためでした。

『「…この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた』(新約聖書 マルコの福音書 14:5)

   権力闘争は、人をさばき、けんかをして争うだけではなく、「無言の反抗」に表われることもあります。例えば、親が子どもに対して勉強しなさいと言っているのに勉強をしないとか、先生がいくら遅刻を注意しても遅刻を繰り返すなどの行為のことです。
 そうやって、自分の「居場所」を確保しようとして、権力闘争が繰り返され、「居場所」探しは、ますます人を憎む道へと進んでいくのです。そして、それに伴って、様々な「欲」がはらむようになり、人をますます「肉の行い」へと向かわせます。「欲」は、父なる神から出たのではなく、「死」に支配された「この世」から出てくるのです。

『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:16)

『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:14〜15」)
本来の居場所に戻った生き方をする 
 私達はイエス・キリストに出会い、本来の居場所であるキリストに継ぎ合わされました。にもかかわらず、相変わらず、人との関わりの中に自分の「居場所」を探し続けてはいないでしょうか。私達の中から、争いや妬みがなくならないのは、人との関わりの中に居場所を求めているからです。この解決は、キリストに立ち返ることです。本来の体であるイエス・キリストに戻ったら、肉に属する生き方、つまり、人との関わりの中に居場所を求める生き方をやめて、キリストの体として生きるように教えられているのです。

『私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:3)

 私達はイエス・キリストに出会い、本来の居場所であるキリストに継ぎ合わされました。にもかかわらず、相変わらず、人との関わりの中に自分の「居場所」を探し続けてはいないでしょうか。私達の中から、争いや妬みがなくならないのは、人との関わりの中に居場所を求めているからです。この解決は、キリストに立ち返ることです。本来の体であるイエス・キリストに戻ったら、肉に属する生き方、つまり、人との関わりの中に居場所を求める生き方をやめて、キリストの体として生きるように教えられているのです。

イエス様は汚れた手を洗う

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9」

 あなたは、もし自分の手が汚れたら、自分で手を洗わないでしょうか。同様に、あなたが、本来のキリストの手という場所に戻ったら、あなたの汚れはイエス様がご自分の手として洗ってくださいます。だから、自分に罪という汚れがついていることに気づいたら、イエス様に告白すれば良いのです。キリストにつながれたら、汚れは全部イエス様が洗ってくださいます。罪を言い表すことができるということが、自分が居場所を確保できたという証しです。こうして、罪が取り除かれる体験をすると、言葉では言い表せない平安が訪れ、神様に愛されていることがわかるようになります。これが神様との交わりの基本です。

イエス様はあなたを弁護してくださる

『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1」

 体の器官は、互いが互いを必要とし合い、何かあったら助け合います。これが弁護するということです。あなたはキリストという居場所に戻っているのですから、イエス様はあなたに何かあっても、必ずあなたを助けてくださるのです。
 ですから、同じ体の器官である人間同士もまた、このような関係を築くと平安を得られます。人の上に立つのではなく、互いに助け合い、応援する関係です。これが弁護するということです。
 イエス様と私達はすでにこの関係を持っていることに気づきましょう。

もとの居場所に戻っていることに気づく

『愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:2」

 今、この地上では見えませんが、私達は、キリストと似た姿になることがわかっているのです。今はごく一部しか見えないけれど、キリストの器官として造られたその姿が、はっきり見えるときが来るからと、今は見えなくても心配せずに信じればよいことが、念を押して教えられています。
 アダムとエバは、神と一つであった時、自分の姿を意識することはありませんでした。パウロも、神としっかり結びついた時、私の中に生きているのはキリストだとはっきり悟ることができました。イエス・キリストを信じた者は、本来の居場所に戻っていることに気づき、しっかりと信じることが、私達が抱えている問題の根本的な解決になるのです。
 人の中に居場所を見つけようとすると、妬み、争いが起こり、怒りがこみ上げ、敵意を抱くことになってしまいます。しかし、もし自分の居場所はキリストの中に戻っていると気づくなら、人を愛せるようになります。人々をありのままに受け入れることができるようになります。
 私達はキリストの器官として造られたものです。ですから、その姿を取り戻さない限り、問題は解決しません。もし、キリストの体に戻ったにもかかわらず、人々の中に居場所を見出そうとするなら、再び問題にぶつかってしまいます。自分がキリストに継ぎ合わされて、居場所が元の状態に戻っていることに気づけば気づくほど、私達が抱えている問題が解決していくのです。