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2017年2月19日
横の関係

縦の関係と横の関係

   私たち人間は、神様の一部として造られました。聖書はこのことを、ひとりひとりが神の体の器官として造られたと言っています。ところが、悪魔の仕業によって、人間は神様から離れた存在となってしまいました。手や足は、体とつながっているからこそ、自由に活動ができます。もし、体から切り離されたら、自分は何のために存在するのかわからなくなり、何をしてもむなしく、大きな不安に陥ります。そして、再び体につなぎ合わされない限り、やがて死んでしまいます。
 同様に、神と切り離された人間は、神に愛されていることがわからなくなり、非常に不安な状態に陥りました。心理学では「すべての人は劣等感を持っている」と分析しますが、それは、神から離れたことによって、私達の中に自分はダメな存在だという劣等感が生まれたということです。その結果、人は、ほめられたい、自分の価値を認めてほしいという欲求を持つようになったのです。
 すべての人がこの願望を満たそうとして人間関係を築こうとするため、摩擦が生じ、それがトラブルのもととなります。アダムの息子カインは弟のほうがほめられたと思って、嫉妬して殺してしまいました。今も昔も、人間関係のトラブルは、ほめられたい、人の上に立ちたいという願望によるものなのです。
 ほめられることによって築く人間関係を、専門用語で「縦の関係」と呼びます。ほめられ、人よりも偉いと認められ、人の上に立とうとする人間関係のことです。イエス・キリストの弟子達も、イエス様にほめられ認められて縦の関係を築こうとしました。誰が一番偉いか、誰が出世するのか、自分はどの辺に位置するのか、人との関係を上下関係で測ろうとしていたのです。
 現代の親子関係の問題も、夫婦関係の問題も、もとをただせば、どちらが上かという争いです。お互いに相手の上に立ちたい、認められたいという願望を持っているために争いが生じているのです。
 しかし、聖書が本来教えているのは、縦の関係ではなく、横の関係を築くことです。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)

 体の器官は、すべて横の関係です。互いが互いを必要として助け合う関係であり、どの器官が優れている等の上下はありません。私達人間は、互いに横の関係を築くように造られているのです。それは、私達を造られた三位一体の神に上下関係がないからです。
 父・御子・御霊なる三位一体の神は、互いに等しく協力し合う神であり、互いの中で存在し合い、常にその思いと行動は一つです。そのため、私達の側からはお一人の神に見えないというのが、三位一体の神なのです。この三位の神様がご自分の輪を広げるために、神に似せて造られたのが人間です。つまり、私達は、神様が横の関係であるように、互いに相手を尊重し必要とする、横の関係を築く者として造られているのです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(新約聖書 マタイの福音書 19:19)

『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 20:26)


   つまり、誰が偉いか競うようなことをやめ、自分が大切であるように人を大切に思う横の関係を築きなさいと、聖書は教えています。人は人の上に立とうとするようには造られていません。互いを必要とし合う本来の姿に戻らなければ、人間関係のトラブルはなくならず、自分を苦しめるだけです。

『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:12〜15)

『それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:14)

  イエス様は私達をしもべではなく友と呼び、友として互いに愛し合い、信頼し合う関係を築きたいと願っておられます。そして、私達人間同士も、そうあるように願っておられるのです。
 イエス様は、友としての関係を教えるために、弟子の足を洗うということをなさいました。もし、縦の関係を教えるためなら、弟子が先生の足を洗うべきです。イエス様が弟子の足を洗われたのは、三位一体の神様の関係をそのまま私達に適用して、あなたは私の一部であると示されたということです。そして、私たち人間同士も互いに横の関係を築くように教えておられるのです。

聖書が教える横の関係の築き方

   私達は縦の関係を築こうとして、怒りを使って、力を誇示し、相手の上に立とうとします。また、それが使えない相手に対しては、服従してほめられようと頑張ります。いずれにしても、私達は、縦の関係の中に、自分が生きている価値を見出そうとしています。しかし、それは聖書が教えている人間関係の築き方ではありませんから、常にトラブルがつきもので、悩み苦しみを生み出しています。
 私達が目指す関係について、聖書は次のように教えています。
 
1. 互いに嘘をつかない

『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:25)

   私達は一つの体として、見栄を張ったり、嘘をついたりせず、困った時に助け合う関係として造られています。ですから、互いに嘘を語るのをやめて真実を語りなさい、と聖書は教えています。この「嘘をつかない」ということは、自分を強く見せようとしたり、立派に見せようとしたりしないことでもあります。
 あなたは決して強くありません。人との関わりを必要とし、つらい時にはつらいと感じる人間です。そのことを隠し、自分の立派さをアピールして良い自分だけを見せ続けようとするのは、縦の関係を築くためです。
 人は一般に、家の中と外、その所属するグループによって、自分を使い分けます。たいていの人は、夫婦同士の態度、親子同士の態度と、会社や学校での態度、友人同士の態度、他人に対する態度は変えるものです。しかし、それは、嘘をついていることと同じだと聖書は言うのです。それは、このギャップがあなたを苦しめるものだからです。また、私達は、人から良く思われたいという承認欲求を持っているので、できないことをできると言ってしまうことがあります。嫌われることを恐れて、できるかのように頑張り、無理をしてしまうのです。
 真実に生きるとは、できることとできないことの境界線をはっきりさせることでもあります。手は足の役割はできません。努力してしばらく代わりを務めることはできるかもしれませんが、長続きせず、それでもなお無理をすると、自分自身を追いこんでしまいます。私達は、嫌われたくないという思いから、できないことをできると自分に言い聞かせて嘘をつき、自分自身を苦しめているのです。このような生き方をやめなければなりません。
 互いに真実を語るとは、このように、私達の生き方にまで言及します。どの場面でも同じ自分であり続けることが、横の関係を築くことにつながります。
 
2. ほめない。叱らない。
 これは心理学上の表現になりますが、ほめることも叱ることも、実は、縦の関係を作る言葉です。ほめることは、自分の下に相手を置くことです。たとえば、ほめることによって、親は子どもをコントロールすることができます。しかし、子どもがほめられるために頑張るようになると、親が望む人生を生きるようになり、自分の人生を生きないことになります。また、ほめられるために頑張ることは、ほめられない自分はダメだという意識を持つことにつながり、ほめられればほめられるほど、潜在意識の中では、自分はダメだという思いを強くするようになるのです。その対照的なやり方が叱ることです。叱ることで自分に従わせて、縦の関係を築こうとするのです。ですから、ほめることも叱ることも縦の関係を作る手段なのです。
 聖書は、ほめたり叱ったりする関係を築くのではなく、自分を愛するように隣人を愛せよと教えています。それは互いに感謝し合う関係です。
 
3. 感謝し合う関係を築く

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:15〜17)

キリストの体として、神と一つであることを知り、平和に生きるとは、感謝の心を持って生きることです。私達はキリストの体として互いに対等であり、互いを必要とする関係です。神がそのように造られたのですから、互いに感謝の心を持つことができるのです。イエス様は、弟子の足を洗うことという行為を通して、このことを教えられました。親だからとか、子だからとかではなく、人を大切にするということです。
 キリストの体に継ぎ合わされ、キリストの体の一部として生きるということは、何事も感謝することを目指す生き方です。そのために、まず神様に感謝することから始めましょう。その上で、互いに感謝し合い、「ありがとう」と言う横の関係を築くことができるのです。人は、ほめられたり、叱られたりすることでは、頑張らなければ愛されないと思うようになります。しかし、感謝されると、自分は必要とされている、私の居場所はここだと感じて、安心するものなのです。
 ところが、いざこれを実践しようとすると、ほめることはできても、なかなか「ありがとう」と言うことは難しいと感じるでしょう。この関係を築くためには、まず私達の価値観を変えなければなりません。
 この世界の価値観は、人の価値は行いにあるという価値観です。この価値観は、人の価値を引き算によって査定します。つまり、夫はこうあるべきだ、子どもはこうあるべきだなどの理想を持ち、その理想に対して、できない分を引き算して、どれほどダメかという結論を引き出すため、なかなか感謝することができません。引き算によって人の価値をはかると、あれもできない、これもやってくれない、これは迷惑と、相手に腹が立ってきます。
 しかし、聖書は、人はうわべに価値があるのではなく、存在そのものに価値があると教えています。まずこのことに気づかなければなりません。私達はキリストの体として一人一人異なるように造られており、一人一人できることが違うことが違います。このことが理解できるようになると、相手を足し算で見るようになり、感謝しかなくなります。
 人は、存在そのものに素晴らしい価値があるものとして造られています。そのことに気がつかないのは、私達が縦の関係を築こうとして、理想と比べて足りない分を引き算し、ダメな存在だとするからです。互いに必要とし合うすばらしい存在だと知れば、自然に感謝するようになります。

神と横の関係を築く

こういう気持ちで接しない限り、心の問題が解決することはありません。心理学やカウンセリングは、問題の原因を指摘することはできても、本当の意味で解決することができないという限界があります。それは、神様と横の関係を作ることができなければ無理なのです。神様と横の関係を築かない限り、人と横の関係を築くことはできません。
 神様と横の関係を築くには、パリサイ人の祈りと取税人の祈りの話からわかるように、自分を誇ってほめてもらうのではなく、あわれみを求めることです。イエス様は、自分の正しい行いを神様に報告するパリサイ人ではなく、自分の行いが正しくないことを知ってあわれみを求める取税人こそが正しいと言われました。ほめてもらおうとすることでは、横の関係を築くことはできません。つらい時はつらい、助けがほしい時には助けてほしいと、正直に語らなければならないのです。

『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:15〜16)

   イエス・キリストは、私達と友の関係、すなわち、横の関係を築くと言われました。その第一歩は、神様に嘘をつくことなく、自分の犯した過ちを隠さずに言い表すことです。この時、神様は、それらをすべて受け止め、癒してくださいます。こうして私達は、自分が無条件に愛され受け入れられていることに気づく時、人とも横の関係を築くことができるようになるのです。
 イエス様は、「私はあなたの内に住み、共に生きる」と言い、外に住むとは言われませんでした。まず神様と横の関係を築きましょう。それは、罪を正直に言える関係、神の愛を受け取り、恵みをそのまま受け取る関係、つらい時にはつらいと言える関係、神の慰めをそのまま受け止めることができる関係です。そうすることで、私達は、自分がありのままで受け入れられていることに気づくことができます。神様は、あなたに何ができるかではなく、あなたの命がそこにあるからあなたを愛し、あなたの存在を喜んでおられます。こうして、「神様の目に自分は高価で尊い」ということばが真実だと気づいたら、続いて、家族や友達と横の関係を築くステップに踏み出しましょう。お互いに対等であることを知り、横の関係を築いて、キリストの体を建てあげていくことが、聖書が教えている正しい生き方です。この生き方のカギになるのは、まず神様の前に正直になり、自分の不安や気持ちを正直に告白し、神様が自分をそのままで受け入れてくださることに気づくことです。