ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年1月29日
礼拝メッセージ

キリストが私達に届けようとした福音とは何か

   イエス様は、人間が考える常識とはまったく逆のことをたびたびなさいました。その目的は、私達が持っている価値観を壊して、神様の福音を受け入れられるようにするためです。神様の福音は素晴らしすぎて、私達がこの世で培った価値観では、とても理解することができません。そこで、イエス様は、まず私達の価値観を変え、福音を受け入れる備えをさせたのです。
   たとえば、次のような福音を、あなたはそのまま受け入れられるでしょうか。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

『まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。』(新約聖書 マルコの福音書 3:28)

『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 2:17)

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)

   イエス・キリストは、はっきりと「私は、罪を犯した人を裁かないで赦す」と言っておられます。しかし、私達の価値観では、罪を犯したら罰を受けるのが当然です。罰を与え、反省させることで、人は良くなると考えているからです。学校でも社会でも、誰かが罪を犯したら、「ダメな人だ」と裁き、罰を与えます。家庭でも、悪い子どもを良くするには、罰を与えなければならないと考えます。
   しかし神様は、罪を裁かないと言われます。それは、罪は病気だと考えておられるからです。病人を裁いたり、罰を与えたりしても、病気が良くなることはありません。病気には治療が必要です。
   病気とは、健康を損なった状態のことです。つまり、私達は本来罪を犯すものではないのです。ところが、多くの人が、人間はもともと悪いのだと勘違いしています。聖書学者達は、長い間、すべての人間は原罪を持っているから罰を受けなければならないのだと説明してきました。しかし、これは、イエス様が言われたことと正反対です。イエス様は、「私はどんな罪でも赦すし、決して裁かない」と言われました。パリサイ人は、このことにつまずきました。彼らは、律法に違反する者は裁かれるべきだと考えていましたから、「罪を裁かないなんてありえない、でたらめだ」と思い、イエス・キリストの言葉を受け入れることができませんでした。

パウロ

   パリサイ人の中でも、パウロは特に強硬に、律法を遵守すべきだと考えていました。律法を守らないことは神を冒涜することだと考えたパウロは、多くのクリスチャンを死刑にしました。そのパウロが、イエス・キリストに出会い、無条件で罪を赦される体験をしたのです。このことによって、パウロの価値観は完全に覆されました。パウロは、このように告白しています。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)

   パウロは、これまで福音が見えなかったのは、人間的な価値観で神を知ろうとしてきたからだと気づき、今後は人間的な価値観でキリストを知ろうとするのはやめると宣言しました。
   人間的な価値観は、何ができるかで人の価値を測ろうとします。だから、悪いことを行なったら罰を与えるべきだと考え、悪いことをしてしまう自分はダメな人間だと思うのです。
   しかし、イエス・キリストは、あなたが罪を犯すのは、あなたが悪いからではなく、罪という病気のせいだと教えています。その病気は、神の愛が見えない不安から生じており、神様は、病を癒し、本来の良い自分を取り戻してほしいと願っておられます。これは、人間的な価値観ではまったく理解できないものです。

ペテロ

   イエス様の一番弟子のペテロは、イエス様にほめてもらおうと、一生懸命良い行いに励み、悪いことをする人々を裁いてきました。ところがペテロは、イエス様が捕らえられた際、イエス様を裏切るというとんでもない罪を犯します。これまで人々をさばいてきたペテロは、これはどんな罰を受けても赦されるはずがないと思ったことでしょう。ところが、イエス様は、十字架にかけられる前、振り返ってペテロを優しく見つめました。この時ペテロは、自分の罪は赦され、イエス様に受け入れられていることを、言葉を越えて体験しました。ペテロの目は開かれ、彼の価値観は180度変わりました。彼は次のように証ししています。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   ペテロは、自分の罪が裁かれず、愛されていると知って癒された体験によって、罪は病気であり、イエス様が十字架にかかられたのは、私達の罪を背負い、私達をいやすためだったと知りました。

放蕩息子のたとえ

   イエス様は、罪は病気であり、罰をもって対応するものではないことを教えるために、放蕩息子のたとえを話されました。
   その青年は父の財産の半分を受け取ると、快楽と遊興とに使い果たし、またたく間に無一文になってしまいました。しかもその時、その地方に飢饉が起こり、彼は食べ物にも困って、豚のえさを食べたいと願うまでになりました。
   私達はこのような人を見ると、自業自得だ、どうしようもない罪人だと言って裁くものです。実は、放蕩息子本人もそう思いました。聖書には次のように書いてあります。

『しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』』(新約聖書 ルカの福音書 15:17〜19)

   これが私達の発想です。罪を自覚すると「罰を受けて当然だ」と思うのです。自分が悪いのだから仕方がない、罰を受けたら良くなると考えます。ところが、彼の父親は、まったく思いもよらない方法で彼を受け入れました。

『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』(新約聖書 ルカの福音書 15:20〜24)

   彼の父親は、彼のために祝宴を開き、最高のものを着せてやりました。放蕩息子は、わけもわからず、ただ自分は無条件でこれほど愛されていること知りました。
   この時、父親は「息子は死んでいたのが生き返った」と言っています。死とは、神の愛が見えない状態であり、その結果、彼は悪いこともしてしまいました。しかし、愛されていると知った時、死から生き返ったのです。これが、罪から癒されるということです。
   イエス様は、この話を通して、罪とは神の愛が見えない病気であり、罪に対する治療薬は、神に愛されている自分を知るしかないことを教えています。この世は、罪を犯す人を責め、間違った治療をして、互いを苦しめています。しかし、イエス様は、あなたが悪いから罪を犯すのではない、神の愛を受け取って癒されなさいと繰り返し語っておられます。

罪が病気だと受け入れられることによって起こる変化

   罪は病気だから裁かないと語られているにもかかわらず、人間的な価値観が、この福音を受け入れることを拒否します。価値観が変わり、罪が病気だとわかり、神の福音を受け入れると、私達には次のような変化が生じます。

1.神の罰はないことがわかる

   世の中では、つらいことがあると、バチが当たったとか、神の罰を受けたなどと言われますが、神様は、病気に対して罰を与えず、むしろ、いやすために「愛している」と語り続けておられます。イエス様の弟子達も、患難は罪の罰だと思っていましたが、イエス様は「神のわざが現れるため」と教えておられます。

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:1〜3)

   患難やアクシデントは、神から出ているものではありません。病も、天変地異も、人間関係の思い煩いや、人の悪事も、すべて神との結びつきを失った結果です。人は、神との関係を失ったことによって、永遠に生きられなくなり、病気になるようになりました。また、この世界は人が支配するように造られましたから、人が神との関わりを失ったことによって、世界も神との結びつきを失い、様々な天変地異が起こるようになりました。また、神との結びつきを失った人間は、自分を中心に、自分が愛されるために生きるようになり、その結果、様々な悪い思いを抱き、悪い行いをするようになりました。
   このように、すべての苦しみは、神の愛が見えないことに起因しているため、神の愛がわかるようになると、すべていやされるのです。これが神のわざです。
   罪は病気だとわかると、因果応報的な考え方がなくなり、患難にぶつかっても、今から神の栄光が現れるのだな、つらくなったら神の助けを受ければいいんだなという発想になります。悪いことをしている人に対しては、早く神の救いにあずかれるように願うように変わります。

2.自分も人も裁かなくなる

   人や自分を裁いてしまうのは、悪いことをしたり、期待に応えられなかったりする時です。しかし、それは本人が悪いせいではなく、罪という病気のせいだとわかると、裁くのではなく、本来の姿を取り戻せるように、病気を治そうという発想になります。
   イエス様は、ご自分を十字架につけて殺そうとしている人達に対して、このように言われました。

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 23:34)

   罪は病気だとわかれば、人を責めても意味がないことに気づき、自分に悪を働く人に対しても、この人の罪がいやされるように願うばかりになります。
   人を裁いたり、憎んだり、腹を立てたりしている時は、罪が病気だとわかっていない時です。罪を犯す人とは交わりたくないと思って、排除したり、相手の罪に報いてやろうと戦ったりしてしまいます。
   しかし、罪が病気だと分かれば、人に対してあわれみを持てるようになり、神の愛を知って健康を取り戻してほしいと願うように変わります。これが伝道の思いです。目の前で苦しんでいる人を見かけたら、駆け寄って助けたり、救急車を呼んだりするものです。私達の周りにいる、罪が病気だと知らずに苦しみ、間違った治療をしている人達を、本当にいやす根本治療ができるのは、イエス様だけです。

3.本気で罪と戦うようになる

   私達は病気になったら、治そうと思って医者に行き、症状を伝え、適切な薬や治療を求め、病気と戦います。
   同様に、罪が病気だとわかると、癒しを求めて神のもとに行き、罪を言い表して、癒しを受け取ろうとするようになります。しかし、罪が病気だとわからなければ、人から責められることを恐れて、自分の罪を隠そうとして、ますます状態を悪くしてしまいます。罪と本気で戦えないのです。

『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 5:13〜16)

   罪のサインはつらさです。つらい時は、とにかく医者である神のもとに行き、罪を言い表し、いやしてもらえば良いのです。聖書が教える悔い改めとは、神のもとに行って罪を言い表すことです。
   罪が病気だとわかると、私達は熱心に罪と戦うようになります。「罪を犯してつらい」と祈ると、イエス様の十字架の愛を感じ、理屈ではなく愛されていることがわかるようになり、癒されていくのです。

4.罪への抵抗力をつけようとする

   病気には、予防が大切です。罪の予防は、日々祈り、御言葉に触れることです。そうすると、いつも神様に愛されていることがわかってきて、罪をはねのけられるようになります。祈らず、御言葉にふれない生活は、抵抗力をなくし、すぐ人を裁き、怒りがこみ上げ、嫉妬が生まれ、苦しくなります。
   この苦しみから抜け出せなくなって初めて、ギブアップして神に助けを求める人が多いのですが、何も自分を追いつめてから助けを求めることはありません。普段から抵抗力をつけて、何かあったらすぐ医者であるイエス様のもとに行き、休ませてもらえば良いのです。

5.価値観が変わり、希望が見えてくる

   罪は病気であり、自分はダメではないとわかると、すべてが肯定的に見えるようになります。すると、自分を責めなくてもよいと気づく時、真の希望が見えるようになり、自分は何のために生きるのか、どうしたらよいかが見えてくるのです。罪が病気だとわからないと、自分はダメな人間だと自分を責め、また周りを責め、将来に希望が見えません。
   罪は病気です。イエス様は誰も裁かないし、赦すと言っておられます。聖書の中で、イエス様は、罪はあなたが悪いせいではないと語り続けています。しかし、このことを受け入れるためには、これまでの価値観を完全にひっくり返さなければなりません。そのためにイエス様は戦ったのです。パウロは、価値観がひっくり返り、人間的価値観を捨てました。そして、すべてが新しくなり、希望が見えるようになりました。自分が持っている人間的価値観に気づき、罪の病をいやしていただけるように祈りましょう。