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2017年1月22日
罪は病気T

『わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえ達は白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえ達も外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。』(新約聖書 マタイ 23:27〜28)

   何かと悪いイメージのあるパリサイ人ですが、彼らは、聖書に書かれた行いを目指し、罪と戦って、一生懸命厳格に真面目に生きていた、いわば優等生です。私達クリスチャンも罪におぼれてはいけないことを知っており、罪と戦って生きています。では、いったい彼らは、何が間違っていたのでしょうか。
   イエス様は、パリサイ人に対して、外側は立派に見せているが、内側は罪深いと言われました。つまり、彼らは罪と戦った結果、嫉妬・怒り・欲などの良くない感情を内側に隠し、表向きだけ良い人間に見せて生きるようになったのです。パリサイ人がこのような生き方になってしった原因は、彼らの罪の理解にあります。

人はなぜ罪を犯すのか

   人はなぜ罪を犯すのか、この理解を間違えると、私達もパリサイ人と同じ方向に向かってしまう可能性があります。
   パリサイ人は、ギリシャ哲学を土台に、人の体の中にある欲が罪の原因だと考えました。つまり、私達はアダムの子孫だから、アダムが罪を犯したのと同じように罪を犯す性質があるのだと考えたのです。この「罪の原因はあなたにある。あなたが悪い。」という考え方は今も生きていて、私達は罪を見ると、その罪を指摘して裁き、責任を取らせて、罰を受けさせます。その結果、人は自分の罪を隠し、うわべを良く見せようとするようになりました。その結果、人の内側には、いつまでも罪が放置されたままなのです。
   あなたは、間違ったことをしている人を責めるのは当然だと思っていないでしょうか。これは、罪を犯すのは本人が悪いからだという前提の考え方です。この前提に立つために、私達は誰かが罪を犯したと言っては裁き、親は罪を犯した子供を責めます。しかし、聖書は、決してそのようには教えていないのです。
   世の中では、罪というと悪い行いを指します。しかし、聖書は、行いに至らなくても、心の中で悪い思いを抱いたら罪だと教えます。聖書が教えている罪の定義は、神と異なる思いのことです。ですから、「罪を犯す」とは、何か悪い行いをすることではなく、神と異なる思いを持つことです。悪い行いも確かに罪ですが、それは神に逆らった思いを抱いた結果です。
   人類で最初に神と異なる思いを持ったのはアダムとエバです。しかし、この思いを最初に二人に持ってきたのは、悪魔に使われた蛇です。つまり、神と異なる思いは、人間の中から生まれたものではなく、外側から入ってきたものです。
   そもそも人は、神に似せて造られていますから、神と同じ思いしか持てません。彼らの中に罪を発生させる装置はないのです。ですから、罪を犯したのは、彼らの性質によるものではなく、悪魔に欺かれた結果です。
   一般的に、アダムとエバの罪は、神が禁じた実を食べたという行いが焦点になりやすいのですが、罪とは神と異なる思いを持つことです。もし、食べたという行いが罪の本質なら、食べたエバに罪の原因があることになりますが、そもそも神と異なる思いを持ち込んできたのは悪魔(蛇)です。
   つまり、人は悪魔に欺かれたために罪を犯したのであり、人の内側から罪は生まれません。この前提は、神様の御思いを正しく理解するためには、非常に重要な点です。罪が、外から持ち込まれたものなのか、彼らの内にもともとその性質があったのかによって、福音の理解がまったく変わってしまいます。
   いずれにしても、アダムとエバが神と異なる思いを持ったために、神との関係は崩壊しました。神様がアダムとエバに善悪を知る木の実を取って食べてはならないと命じていたのは、神と異なる思いを持ってはならないことを象徴しています。人間の中にもともと悪という概念はありませんでしたから、善悪を知るとは、神と異なる判断を持つことになります。これは、神と異なる思いを持つと、関係が崩壊して、死んでしまうことを教えているのです。

死は敵である

   アダムとエバは悪魔に偽りの情報を吹き込まれたことによって、神と異なる思いを持つようになったわけですが、現在の私達が神と異なる思いを抱いてしまう原因は、神に愛されている自分が見えないところにあります。神との関わりが断たれたこの世界で、神の一部として造られた人間は、神が見えない不安によって、自分は不完全だという思いを持つようになりました。この自分を否定する思いが、神と異なる思いであり、罪です。
   神の声が聞こえず、神の姿が見えない状態、すなわち、神とのコミュニケーションが断たれている状態を死と呼びます。聖書が教える死とは、肉体の死のことではなく、神との関わりが断たれている状態のことです。この状態のまま肉体が滅ぶと、永遠の死が確定するのです。
   神との関わりがない死の世界で、私達は、自分の価値が見いだせず、自分はダメな者としか思えません。そこで私達は、自分をマルだと言ってくれるものを求め続け、どうすれば人から良く思われるかを目指して生きるようになりました。
   神との関係が壊れた直後、アダムとエバは、自分の姿しか見えなくなり、イチジクの葉で腰の覆いを作りました。これは、自分を良く見せようとした表れです。人間は、神が見えなくなり、神に愛されていることがわからなくなった結果、人から愛されることを中心に生きるようになりました。愛されたいと願って、自分と人を比べ、嫉妬や怒りが生じてつらさを感じ、その結果、悪い思いを抱いたり、争いを起こしたり、快楽に走ったりします。様々な罪の原点は、すべて自分はダメだという神と異なる思いです。この思いはすべて死によって生じたものなのです。つまり、私達が罪を犯すのは、私達の中に罪を犯す装置があるためではなく、外から入り込んだ死が原因です。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   神との関係を失ったために、私達は罪を犯すようになりました。ですから聖書は、罪の原因は人にはないと言っているのですが、悪いことをしたら罰があるのは当然だというこの世の常識の中で生きてきた私達は、アダムとエバの犯した罪に対して神は怒り、死という罰を与えたのだと理解してしまうのです。しかし、エバが自分から罪を犯したとすると、その原因を作ったのは神だということになります。そんなことはありえません。

『最後の敵である死も滅ぼされます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:26)

   死が敵であるということは、神から出たものではないということです。もし、死が神の罰ならば、人は神のご意志に従うのみです。
   死とは、一つであった神と人との関係に、別の思いが入ったことによってその関係が壊れてしまったということです。聖書は、死を罪から来る報酬と言っていますが、報酬とは、誰かの意志によってもたらされるものではなく、あることに反応して自動的に与えられるものです。
   死とは何か、注解書ではなく、聖書の記述のみをたどっていくなら、以上のような説明になります。多くの注解書が、罪を犯したら、死をもって罰せられるという意味に解釈しようとしてきましたが、そのような理解は、文法的にも、神ご自身の理解からも不可能です。死は、神から見ると、人に罪を犯させて苦しめている敵です。ですから、イエス様は十字架にかかって、死の力を持つ悪魔を滅ぼしてくださったのです。

罪は死によってもたらされた病気である

   私達の中に罪を犯す原因はなく、死が入り込んだことで罪を犯すようになったということは、罪は死がもたらした病気ということです。
   罪も風邪も、神様との結びつきを失ったことが原因です。神との結びつきを失い、永遠でなくなったため、人の体は永遠に生きることができず、ウィルスの影響も受けるし、やがて朽ち果てることになりました。また、この地は人のために造られたので、被造物すべてが滅びる存在となりました。今、科学の世界でも、宇宙には寿命があることが明らかになり、これは、地震などの天変地異とも関連しています。つまり、私達が犯す過ち、戦争などの争い、病気や地震などの災害、すべて神との関わりが断たれたことが原因です。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   この御言葉は、注意すべき箇所の一つです。それは、「それというのも」と訳されている「エピフォー」というギリシャ語が、近年の研究によって、「その結果」と訳すべきであると発見されたからです。
   「一人の人」とはアダムのことです。アダムが神と異なる思いを抱いたことによって、神との関係が壊れ、全人類に死が広がりました。これを、現在の訳通りに、「それというのも、全人類が罪を犯したから」と説明されても、文章として意味が通じません。そのため、この箇所は非常に難解で、長年、全人類はアダムの中にいて罪を犯したと解釈され、原罪の根拠とされてきました。
   しかし、「その結果、全ての人が罪を犯すようになった」と理解すると、ローマ書全体の意味が非常に整合性のとれたわかりやすいものとなります。

『ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。…それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:14〜21)

   死が罪を犯さなかった人々を支配したとは、アダムの違反によってすべての人が罪を犯すようになったということです。アダムの違反によって死が入り、その結果、私達は罪を犯すものとなりました。
   今、私達は、罪を犯したら罰があるのが当然だと考えていますが、この基準で聖書を読んでも、そもそもの前提が、神様の考え方と異なっています。この世のやり方で解釈してはいけません。純粋に聖書を読むならば、死は罪の罰ではなく、罪の原因であると、説明されているのです。罪と死については、さらに次のように説明が続きます。

『ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:17)

『肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:6)

   罪は、自分の中から出たものではなく、外から入って住み着いたものです。これは、病気と同じです。死という病原菌が体に入ったことによって、罪という病気を発症しました。私達が肉の思いを抱く原因は、外から入り込んだ死という病原菌です。
   ですから、病気の治療をするのと同じように、罪と戦えばよいのです。どうにもならないつらい思いは、すべて神との関わりを失ったことが根本原因です。つまり死こそ、私達を苦しめる病原菌です。手に負えない病気にぶつかったら、医者を探して病気の治療をするのと同様に、ただ神様に助けを乞えばよいのです。

キリストは罪をいやす医者として来られた

『そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 5:31〜32)

   「悔い改め」とは、神に立ち返るという意味であり、「救う」という原語は、「いやす」とも訳されます。イエス様がご自分を医者だと言ったのは、比喩ではなく、実際に罪人をいやすために来られたからです。

『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』』(新約聖書 ルカの福音書 18:10〜13)

   パリサイ人は、自分の立派な行いを神に報告するために祈りました。罪は自分の責任だと思うと、私達もこういう生き方になります。どれだけ立派になったか、どんなに罪を犯さなくなったか、神の前に良い報告だけをし、本当の罪は隠してしまいます。ところがもう一人の取税人は、対照的に、神様に何も報告することができず、ただあわれんでくださいと祈りました。
   神の目から見て正しいのは、取税人です。イエス様は、この取税人を義と認められたのです。
   私達は死の世界に閉じ込められ、神と異なる思いに苦しみ、自分ではしたくないことをしてしまうのは、自分の力ではどうにもできません。このつらさから抜け出すには、ただ神様に助けを乞えば良い、これが福音です。
   罪の責任は自分の中にあるという前提に立つと、パリサイ人のように、自分で罪の責任を取らなくてはいけなくなりますから、罪を犯さなくなった自分を神様に認めていただこうとする生き方になります。それは、自分の罪から目をそらし、自分の罪を隠す生き方です。しかし、罪が病気だと認められれば、神様との関わり方がまったく違ったものになります。ただ「罪のせいでつらいのです。助けてください。私は罪に対して何もできません。」と、神様に助けを求める生き方です。この生き方を、神様は私達に望んでおられるのです。
   また、罪は病気であるとわかれば、人を裁くつらさからも解放されます。聖書は「裁いてはいけない」と教えていますから、あからさまに裁くことは我慢しても、心の中は裁きと不満でいっぱいという経験が、誰にもあることでしょう。しかし、罪は病気だと気づけば、相手の罪は死の恐怖の中で苦しみもがいている現れだと理解できるようになり、裁きようがないことに気づくのです。神に愛されている自分が見えないつらさ、神と異なる思いによる苦しみ、これが理解できるようになると、人に対しても、この苦しみから救ってくださる神の愛が見えるようになり、自分はダメだと思う苦しみから解放されますようにと願うことができます。罪は病気だと知ることで、互いにいたわりの心が生まれるのです。
   イエス様は、その愛を伝えるために十字架にかかったのです。十字架の愛で愛されていることがわかることで、人はいやされるのです。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   イエス様は、私達の罪を背負って十字架にかかりました。罪とは、私達の間違った思いです。罪を背負って十字架で滅ぼし、私達をつらさから解放し、私達が罪を離れて、義のために生きられるようにしてくださいました。イエス様が罪を背負うことを、聖書は「いやし」と呼んでいます。罪という病気は、神に愛されていることが見えなくなって生じたものですから、十字架の愛で愛されていることがわかるといやされるのです。
   イエス様が十字架で伝えたかったことは、あなたは愛される者であり、私の目にあなたは高価で尊い、あなたは良き者だ、ただこの世界で死に閉じ込められたために、罪を犯してしまっている病人だと気づいてほしいということです。

すべては神の栄光が現れるため

   私達はどうしても罪というと、あなたが悪いからこうなったと思いがちです。だから、何か患難に出会うと、神の罰ではないか、あるいは、神の与えた試練だなどと思ってしまうのです。この地上で生きるすべての人が、多かれ少なかれこのような思い込みの中で生きています。
   弟子達も、目が見えない人に対して、誰が罪を犯したためにこの人は盲目になったのかなどとイエス様に尋ねています。患難は罪の罰だと理解していたからです。これは、罰を受けないため、救われるためには、良い行いが必要だという理解の裏返しです。

   この弟子の質問に対してイエス様は、彼が見えないのは誰かが犯した罪のせいではなく、神のみわざが現れるためだとお答えになりました。聖書が教える神のみわざとは、悪魔を滅ぼすことです。つまり、最後の敵である死を滅ぼすことです。
   私達が苦しみに会うのは、神が与えた罰でも試練でもありません。むしろ、神は、死がもたらした様々なわざわいから私達を贖い出そうとしておられます。神様は、病をいやし、罪を赦し、試練を解決しようとしてくださっているのです。
   このように、罪が外からもたらされたものか、人間の内から発生したものかによって、福音の理解が大きく変わるのです。悪いことをしたら罰を受けるというのは、神様の考え方ではありません。罪の苦しみはすべて、死の世界に閉じ込められたことによるものであり、すべて神の栄光のみわざが現されるために用いられます。神の罰ではなく、いやされるためのものだという見方ができれば幸いです。

『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 5:14〜16)

   神様は罪に対して、私達が病気の時に症状を言い表して薬を処方してもらうように、自分の罪を言い表して癒されればよいと教えておられます。罪の解決は愛されていることがわかるようになることしかありません。罪を犯している人に対して私達ができることは、早く神の愛が見えるように励ましてあげることです。お前が悪いと責められれば、その人は心を閉ざして、外側を良くし、内側が何の解決もされないままになってしまいます。心と体が別々の動きをするのはつらいことです。
   イエス・キリストはその生涯の中で、ただの一度も罪人を裁いておられません。取税人を受け入れ、遊女をゆるし、ご自分を十字架につけた人に対してさえ、「彼らは何をしているのかわからないでいるのだから、赦してほしい」と祈っておられます。
   イエス様は、「私が来たのは、裁くためではなく救うため」と語り、「たとえ私の言うことを聞かない人がいたとしても、私は裁かない」とはっきり言っておられます。
   つらくなったら、自分が悪いのだからと頑張らずに、「助けてください」とあわれみを求めて、すぐに祈りましょう。神様は助けてくださいます。神様は、あなたはただ死に支配されたために罪を犯すようになっただけで、悪い者ではなく良き者だ、私はあなたをいやすために来たと言っておられます。こうしてイエス様の十字架による愛を受け取り、いやされていくなら、他の人の罪に対しても、神の愛が見えなくて苦しんでいるのだと理解できるようになり、裁かないで生きていくことができるようになります。