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2016年12月4日
間違った価値観

   有名な作曲家であるメンデルゾーンの祖父は、お世辞にもハンサムとは言えず、その上、彼の背中には醜いこぶがありました。その彼が魂を揺さぶられるような女性に出会い、意を決して告白することにした時、彼は彼女にこう言いました。「結婚は神が天で決めておられると信じますか?」この女性はクリスチャンであったので、「はい」と答えました。そして、「あなたはどうなのですか?」と聞き返すので、「もちろんです。天では、男の子が生まれると、大人になった時、どの女の子と結婚するか神様がお決めになるのです。私が生まれた時もそうでした。でも、私と結婚する女の子は、背中にこぶを持っていると神様がおっしゃったのです。 それを聞いて、私は必死でお願いしました。『女の子がそんな姿になるのは、あまりにも可哀そうです。どうか、私の背中にこぶをおつけください。その女の子を美しい姿にして下さい』と。」彼女は、その話に感動し、彼と交際するようになり、やがて二人は結婚へと導かれました。
   もちろんこの話は彼の創作でしょう。しかし、大切なことは、彼が神の愛を知っていたということです。イエス・キリストは、私達を美しくするため、私達を助けるために、私達を苦しめているこぶを背負ってくださったのです。そのこぶとは、いったい何でしょうか。

あなたを苦しめているものはあなたの価値観である

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)

   聖書は、行いで自分を変えるのではなく、あなたの価値観を変えることによって自分を変えるように教えています。つまり、私達を苦しめているこぶとは、自分自身が持っている誤った価値観なのです。私達は、「お金がないから」「学歴がないから」「○○でないから」など、何かが不足しているせいで、人は苦しむのだと考えがちですが、そうではありません。私達が普段使っている価値観が、私達から美しさを奪っているのです。このことに気づき、心の一新によって自分の価値観を変えるなら、神の愛が見えてくるようになります。
   よく世界にはさまざまな価値観があり、人はそれぞれ異なった価値観を持っていると言われます。しかし、正確には、人類は一つの共通した価値観を持っています。それは、人の価値をうわべで判断するという価値観です。どの時代、どの地域の人であっても、それぞれの着眼点が異なるだけで、容貌、肩書、所有物などによって人の価値を判断し、人と比べて自分はどれほど愛されるものかを判断して生きています。このようなうわべで人を判断する価値観のことを、肉の価値観と呼びます。
   この価値観は、自分が人からどのように見られているかを気にします。また、自分と他の人を比べるため、嫉妬などによって自分を苦しめる原因ともなります。良いうわべ・良い行いを目指して生きることは、自分の過去や罪を人に知られないように隠そうとする行為につながります。こうして、うわべに価値があるという価値観は、自分がどう思われるかということが中心になり、人を愛するのではなく、自分が愛されるために生きるようにさせ、私達から美しさを奪い、私達を苦しめているのです。

救われるには行いが必要?

   うわべで人を判断する肉の価値観は、人が救われるには立派な行いをしなければならないという考えを生みました。古今東西、すべての宗教は、○○をすれば、天国に行ける、救われると、行いを教えています。良い行いをすれば、神様からほめられて天国に行けるのだという概念の中で、宗教が造られているからです。
   イエス・キリストは、この考え方を完全に否定しておられます。ところが、クリスチャンであっても、この地上の間違った価値観に支配されているために、なかなかイエス様の考え方を理解できません。行いで自分の評価を勝ち取ろうという、この世の価値観によって、神様もそうだろうと思い込み、律法に従わなければ愛されない、一生懸命奉仕をしなければ愛されないと思い込んでいる人が多いのです。こうして、肉の価値観が、私達から本来の自分を奪い、美しさを奪ってしまっているのです。この価値観を壊さない限り、神の愛は見えてきません。イエス・キリストはこの価値観を壊すためにこの地上に来られ、その価値観を背負って十字架にかかられたのです。

『すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。』(新約聖書 マタイの福音書 19:16〜22)

   イエス様のもとに来た青年は、良い行いをし、徳を積むことで救われるのだという前提を持っており、自分にはまだ何か足りないところはあるだろうかと考えました。イエス様が、モーセの律法を守るように言うと、彼は、それなら守っているから大丈夫だと思いました。しかし、ここに彼の間違いがありました。
   モーセの律法が本当に教えていることは愛であり、聖書が教える愛とは神を信頼することです。神を信頼することで心が満たされ、人に見返りを求めなくなるからです。しかし、彼の行いは人に認められるためのものであり、愛ではなかったのです。イエス様は、彼にこの間違いに気づいてほしいと願い、全財産を売り払ってついてくるように命じました。絶対に実行できないことを突きつけ、実行できなければ神様にあわれみを求めるしかないことに気づいてほしかったからです。実は、これこそが救われる唯一の道です。神様の命令は、実行させることが目的なのではなく、実行できない自分の罪深さと、完全な行いなどできないことに気づいて、神様に助けを求めさせるためのものなのです。
   あなたはどうでしょうか。友達に親切にしたとしても、誰かに尽くしたとしても、どこかに、良く思われたいという気持ちがないでしょうか。あるいは、返礼や感謝などの見返りがないと、腹が立ったりしないでしょうか。それは、相手のためではなく、自分のためにやっているからです。これは、聖書が求める愛ではありません。誰も良い行いを通して神様との関係を築くことなどできないのです。確かにこの世の中では、行いができなければ愛されません。いい子にしていなければ怒られ、成績が良ければほめられ、仕事ができなければバカにされます。そのため、神様もそうだと思い込んで、神に愛されるために戒律を実行しなくてはいけないと勘違いしている人が大勢います。しかし、神様が教えておられることは、できないことに気づき、ただ神様に助けを求めて祈るなら、その時、私達は変えられていくということです。
   神様は、私達にこのことに気づいてほしいと願って、私達に絶対に実行できないことを突きつけます。この青年も、ただ神様に「助けてください。憐れんでください。」と祈れば良かったのですが、彼はただ悲しく去って行ってしまいました。
   あなたは、行いができない自分はダメな人間だ、悪いことをするから罪深い人間だと、誤った考え方をしていないでしょうか。ダメな自分を見て、自分は神に愛されるようにはなれないと、ただ悲しんではいないでしょうか。それは間違いです。私達を苦しめている価値観は、行いができなければ愛されないという思いです。

金持ちは御国に入れないとは

   弟子達は、この青年とイエス様のやり取りを聞いて、では、いったい誰が救われるのだろうかと疑問に思いました。弟子達の中にも、行いが良ければ救われるという思い込みがあったのです。そこでイエス様は次のように話されました。

『それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」』(新約聖書 マタイの福音書 19:23〜24)

   この時代、「金持ち」とは、「行いが立派な人」という意味で使われていました。金持ちは、行いが立派だから神に愛されて金持ちなのであり、反対に、貧しいのは行いができていないから神に愛されていないためだ、貧しい人は最も天国から離れた人だというのがユダヤの常識でした。
   ところがイエス様は、「金持ちは絶対に救われない」つまり「行いで天国に行くことなどない」と言われたのです。この言葉は、弟子達にとっても衝撃でした。弟子達は救われていましたが、これまでの常識のまま、行いを頑張って誰が一番偉いかを競い合っていたからです。

『弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」』(新約聖書 マタイの福音書 19:25〜26)

   この言葉から、弟子達が間違った価値観に縛られていたことがわかります。ここでイエス様は、大変重要なことを言われました。「人は行いによって、神に近づいたり、神に救われたりすることはできないけれど、神にはできる。神が人を救うのだ。」人は、自分で自分を救うことはできない、行いやうわべに関係なく、私が愛し、私が救うのだと、イエス様は教えておられるのです。こうしてイエス様は、弟子が持っている価値観を壊し、こぶを取り除こうとなさいました。

神があなたを愛する理由

   うわべに価値があり、それによって愛されると思い込んでいる人間に対して、神様はうわべに関係なく愛すると言っておられます。その理由は何なのでしょうか。

1.神の目には皆同じ罪人だから 神様が人を見る視点は、人とは全く異なります。

   人にとって、人との関わりは心の糧です。ですから、他の人の関心を引くことはとても重要です。誰かのために良いことをして心地よい関わりを求めるのは、自分の心を満たすためです。人は皆、自分のために生きているのです。
   関わり方には、肯定的な関わり方と否定的な関わり方の2種類があります。肯定的な関わり方とは、人からほめられるような関わり方で、心にとって心地よい食事です。しかし、この食事が得られない時、人は、相手にとって不快なことをしてでも反応を得ようします。責められたり、ののしられたりすることが、まずくても心の食事になるからです。
   私達が求めているこの心の食事のことを、愛と言います。愛とは、関わりのことです。肯定的な関わりと否定的な関わりのどちらを心の食事にするかは、育った環境によって異なります。しかし、共通しているのは、すべての人が、人との関わりを求めてそれを食事にしているということです。
   実は、肯定的な関わりにしても、否定的な関わりにしても、人の愛を心の食事にすることは、神様からご覧になると罪です。なぜなら、罪とは、神を求めないことだからです。神様との関わりを心の食事にしない限り、神の目には同じことなのです。
   この世界では、良い人と悪い人には天と地の差があるように思われています。しかし、神様の目からすると同じです。ノーベル賞を取っても、金メダルを取っても、人々から非難されたり、バカにされるような行動をしていても、人との関わりを心の食事にする限り、神様の前には、皆同じ罪人なのです。神様は人を行いで愛さないとはそういうことです。

『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』(新約聖書 マタイの福音書 5:21〜22)

   私達は、人殺しをするような罪人は、自分とはまったく違うものだと思っています。この世の中では、人を殺さなければ殺人者ではありません。しかし、イエス・キリストは、人に腹を立てたり、人に対して「ばか者」と言ったりすることも、殺人と同じように最高刑に値すると言われます。自分はあの人達とは違うと誇っても、神の前には皆同じ刑を受けるべき罪人に見えるのです。人は、行いでは救われません。
   聖書で「兄弟」という言葉がたびたび使われますが、これは、イエス・キリストを信じる人という意味ではなく、「罪人」という意味なのです。私達は皆、罪人だから兄弟姉妹なのです。人は、どんなに努力しても、どんなに頑張っても、ただ神にあわれみを乞う存在なのです。

2.私達は神の作品だから

『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:10)

   あなたは神が造った神の作品です。神様は、ご自分が造った作品を愛しています。つまり、私達の側ではなく、神の側に私達を愛する理由があります。私達が何かするから愛してくれるわけではなく、神は初めからあなたを愛しておられます。だから行いには関係がないのです。私達はそもそも良い行いができるように造られているのですが、今それが機能していない状態にあるのは、間違った価値観のためなのです。

3.私達は神の一部だから

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 2:10)

   キリストのからだの器官であるということは、神様の一部であるということです。だから、神様は、行いに関係なく、あなたを愛するのです。ただし、神の器官であっても、神様とつながっていない私達は、うまく機能していない状態です。人が神様とつながれないのは、行いで愛されようとするために、自分はダメだと勝手に思いこみ、神様の愛を受け取ろうとしないからです。
   たとえば、テレビは、コンセントにつながなければ、本来の機能を果たしません。それは、立派な行いをしなければ、神というコンセントにつないではいけないという誤った価値観によるものです。私達は、本来の機能を果たさないテレビを何かの役に立てようとして生きているようなものです。しかし、テレビを磨いたり、いろいろなものを着せたりしたところで意味はない、コンセントにつながないことが問題だと、神様は言っておられます。
   神様は、うわべを良くしなければ神に近づくことはできないと思い込んでいる私達に対して、では、神が示す律法を実行してごらんなさいと命じます。そこで、実行できないことに気づかせ、「私があなたの重荷をおろしてあげるから、私のところに来なさい」と言われるのです。これが神の愛です。コンセントにつなぐとは、神様にあわれみを乞うことです。
   誤った価値観によって、神様につながろうとせず、行いというクッションを間に置き、行いを通して神を見ようとすることが、あなたの美しさを奪っているのです。そうではなく、ただ神様につながれば、私達は本来の自分を取り戻すことができるのです。
   神様は、遠くにいて、何か立派なことをして近づく方ではありません。誰の手の届くところにもおられます。イエス様は、地上に来て、このことを教えてくださいました。行いによって自分を救おうとしても誰も救われないから、ただ私を信じなさいと言って、イエス様の手を握りしめれば救われるように、手を差し伸べてくださったのです。

   1912年に沈没事故を起こしたタイタニック号は、最先端の技術と、最高の船長によって、絶対に沈まない船と言われていました。その過信のため、救命道具を規定の半数しか積んでいなかったのです。タイタニック号が、氷山にぶつかって沈み始めた時、乗客の一人であったある牧師が、クリスチャンの人々に向かって叫びました。「あなたは救われており、天国に行きます。だから、この中にイエス・キリストを信じていない人がいたら、その人達に救命道具を譲るように。女性と子どもを優先するように。イエス・キリストを信じてください。そうすれば助かります。」その牧師は、海に投げ出され、木の板にしがみつきながらも、最後まで隣で漂流する人に語り続けました。「イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます。」その言葉を聞いて救われた人が幸いにも救助され、この話が伝えられました。
   私達は普段、行いや富や肩書を自分の安心の基準にしていますが、死が訪れた時、そのようなものは何の役にも立ちません。イエス様は、沈みゆく船から私達を助けようと、私につかまりなさいと、呼びかけておられます。それは、あなたの行いとは関係なく、神様があなたを愛しておられるからです。私達を苦しめているのは、行いが良くなければ愛されないという思い込みです。行いには関係なく、神様の側にあなたを愛する理由がある、それが見えるようになった時、あなたの心に平安が訪れることでしょう。