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2016年10月16日
罪の中の罪

   私達は、罪と聞くと、不道徳な悪い行動を連想するものです。しかし、正確には、それらは罪が引き起こす症状であり、罪の本体ではありません。ところが人は、その本体を知らないために、これらの症状こそが罪だと思い、症状を良くしようと努めます。つまり、良い行いをしようと努め、それができるようになると、自分は罪の勝利した、善人になったという錯覚に陥るのです。しかし、いくら良い行いができるようになったとしても、罪がなくなったわけではなく、罪の本体はそのまま温存されているのです。このような人々を代表するのが、聖書に登場するパリサイ人です。彼らの行いは立派でしたが、罪とは何かを理解していなかったので、彼らの中には罪が温存されたままでした。しかも、このことをイエス様に指摘されても、彼らは理解できませんでした。

罪とは何か

『罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。 』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:9)

   罪とはイエス様を信じないことだと、イエス様は言われました。イエス・キリストの言葉を信じないということは、神と異なる思いを持つということです。ですから、罪とは神と異なる思いのことであり、それを信じることが罪を犯す行為であると定義できます。パウロはこの思いを「肉の思い」と呼びました。

『というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:7)

   「肉の思い」すなわち「神と異なる思い」が、私達を律法に違反させ、悪い行いを引き起こします。聖書が教える罪の本質は「思い」であって、行いではありません。
   このことがわからないと、「罪と戦う」ということの意味が分からなくなってしまいます。多くの人が、「罪と戦う」とは「悪い行いをしなくなるように」という意味だと誤解しているのは、そのためです。もちろん、悪い行いをしてはいけません。しかし、肝心なことは、「神と異なる思い」という罪の本質と戦うことです。

神の思いとは

『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:14)

   神の最大の戒めは、「神を愛し、人を愛せよ」です。ところが、私達は、「愛したい」という思いよりも「愛されたい」という思いを、より強く持っています。さらに、私達が持っている「生きたい」という思いも、神の思いに反しています。というのは、神は「私があなたの命を保証するから、あなたはただゆだねればよい」と言っておられるのに、人はその言葉を聞かず、何を着ようか何を食べようかと思い煩い、自分で自分の命を延ばそうとして思い煩っているからです。これらの神と異なる思いが、私達を支配しているのです。
   では、人は、いつどのようにして、これらの思いを持つようになったのでしょうか。
   人は、もともと神と一つの思いを抱くように造られました。愛し、仕え、ゆだねることを望んで生きていたのです。ところが悪魔が蛇を使ってアダムとエバを欺き、神と異なる思いを信じ込ませ、この時から、二人は神と一つ思いの関係を維持できなくなりました。これが、聖書の教える死です。神との結びつきを失い、人類に死が入りこんだその時、彼らの目が開かれたと聖書は教えています。それは、神と異なる思いで見るようになったということです。この時、二人が最初に気がついたことは、自分達は裸だということです。それまでまったく気にならなかった自分の姿を意識するようになり、二人はイチジクの葉で腰の覆いを作りました。自分の姿を良く見せることで、愛されたいという願望が生まれた瞬間です。そして、神様に罪を指摘されたアダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。少しでも自分が良く思われようとする生き方を目指すようになった様子がわかります。
   このように、人に死が入り込み、神と一つであった関わりを失うことによって、神の愛がわからなくなり、愛されようとする生き方が生まれ、また、永遠のいのちを失うことによって、生きたいという願望が生じました。このように、死によって、神と異なる思いが誕生したのです。
   イエス様は、この思いを次のように具体的に説明しておられます。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   御言葉は神ご自身を指します。この世の心づかいと富の惑わしとが、神ご自身と私達との関係をふさぐ神と異なる思いだとイエス様は語っておられます。この世の心づかいとは、どうすれば人から良く思われるか、どうすれば愛されるか、という思いであり、富の惑わしとは、生きたいという願いから、生きるためにはお金が必要だということで生まれた、富を求める思いのことです。
   イエス様は、この二つこそ罪の根だと教えておられますが、通常、私達はこれが罪だという意識はありません。むしろ、この世の心づかいなどは、良いものだと思っている人が多いでしょう。しかし、人から良く思われようとすると、私達はどうしても人と比べることになり、そこから嫉妬などの感情が生まれます。殺人や盗みの動機をたどっていくと、すべて、愛されたいという願望か富を求める思いに行き着くことがわかります。

神の思いに最も反する思いとは

   このように、「世の心づかい」と「富の惑わし」が、御心に反する思いであり、罪の根源です。そして、さらにこの思いの底にあるのは、「自分はダメだ」という自己否定です。これこそが、神と異なる思いの究極であり、罪の中の罪と言えます。なぜなら、どのような人に対しても、神は「ダメな者」という思いを持たないからです。それは、人が、神のいのちによって、神に似せて造られた存在だからです。神様は私達をご自分の一部として造られ、「非常に良い」と言っておられます。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常によかった。』(旧約聖書 創世記 1:31)

   神の中に、「ダメなもの」は存在しませんから、私達の中にもありません。ですから、人をダメだとすることは間違いであり、神はこれを受け入れることができません。
   私達が人をダメな者と判断する根拠は、うわべです。イエス様は、人をうわべで見てはいけないと言われました。うわべはやがて破棄される一時的なものであり、あなた自身とはまったく関係ないものだと、神様はお考えになります。私達が持っているものの中で、永遠に残るのは神のいのちだけです。自分はダメな者だという自己否定の思いは、神の思いとは真逆のものなのです。
   そして、この自己否定の思いが神と異なる思いの原点なのです。自分はダメだと思うからこそ、愛されたい、どうすれば愛されるのかと求めます。アダムとエバがイチジクの葉で覆いを作ったのも、隠したいと思うほどに自分をダメだと思っているからであり、人が富を欲するのも、お金がなければ安心できないほど自分はダメな存在だと思っているからです。ところが人は、自分をダメだと思うことを罪だとは思わず、慰めたり、あるいは、かえってお前はダメなやつだと決めつけたりして、雪だるま式に罪を大きくしているのです。こうして、自分はダメだと思えば思うほど、愛されたいと願い、この世の心づかいと富を求めようとしますから、結果として、イエス様が言われた通り、御言葉がふさがれ、神との関係をますます見えなくさせていくのです。
   自分はダメな者だという思いこそ、罪の最初の核です。このことを理解しない限り、私達は罪と戦うことができません。いくら表面上の罪と戦っても、自分の中に罪は生き続けて、苦しみ続けることになります。
   人は本来良きものなので、自分の中にある「自分はダメだ」という思いに違和感を覚え、排除したいと願うのは当然のことです。アダムとエバも、罪を指摘された時、自分は悪くないと言って、自分の正しさを証ししようとしました。問題は、私達が、自分の正しさを証明する手段を間違え、人の目を基準に証明しようとしているところにあります。人の目を通して自分の正しさを証ししようとすると、相手が自分に期待している通りのことをしなければなりません。そうすると、相手の期待が、「ねばならない」という律法になってしまいます。すると今度は、この律法を基準に互いを裁き合うようになり、結局、怒ったり落ち込んだり、新しくイライラする原因を作ってしまいます。人の基準で自分はダメな者だという思いを排除しようとすると、ますます自分をダメな者だと追い込んでしまうのです。けれど、この世の基準で人を見ることをやめ、神の方法で、神の基準によって物事を見るようになれば、出来事が何一つ変わらなくても、すべてが新しく良きものと見えるように変わります。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16〜17)

神の思いに反する思いを取り除く方法

   私達が人の基準で見る限り、ダメな者という判断はなくなりません。ですから、自分の中から、御心に反する思いを取り除くには、今自分が持っている価値観の基準を変えなければなりません。神様は次のような方法を提示しておられます。

1.自分の罪を言い表す

   自分のことをダメだと思っている根拠を、神様の前に告白しましょう。神様はあなたを良きものと見ているため、私達がいくら自分の罪を言い立てても、すべて裁くことなく赦してくださいます。神様は、その姿を見ることも声を聴くこともできませんが、私達の内におられる聖霊様が、言いようもない平安を与えてくださるのです。罪を正直に告白して憐れみを求める時、自分はダメだという思いから解放されます。これが、聖書が私達に教えている手段です。
   この世では、自分の罪を人々に知らせたりしたら、なんてダメな者かと攻撃されます。しかし、神の前にそれをすると、あなたは良きものであり、あなたを愛しているという応答が返ってくるのです。

『ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。」』(新約聖書 ルカの福音書 19:8〜9)

   ザアカイはイエス様に出会い、これまで自分が人々から税金をだまし取ってきたことを告白しました。通常こんなことを言ったら、「やっぱり、あいつは悪人だった」と言われそうです。ところがイエス様は、これを聞いて「この家に救いが来た」と宣言なさいました。救いと訳されている言葉は、いやしとも訳されます。イエス様はザアカイに「あなたは愛されている」という証印を押し、ザアカイはいやされ、彼に平安が訪れました。神様に罪を告白する時、神様は私達に、ダメな者ではなく、良き者の自分を見せてくださるのです。
   いくら人の目に気に入るように自分を変えても、心が解放されることはありません。私達が自分をダメだと思うようになったのは、神様との関係が壊れたことが原因ですから、神様との関係を取り戻すことで、私達は良き者に戻されたことがわかるようになります。すると、神様は「救いが来た」と言って、喜んで祝福してくださるのです。神様によって罪がいやされ、自分はダメだという思いをいやしてくださるので、私達の心は言いようのない平安に包まれます。

2.祈り求める

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』(新約聖書 マタイの福音書 7:7〜11)

   どんなものでも神に求めるように、神様は私達に教えておられます。それは、私達に、あなたは良きものだと教えるためです。求めれば、必ず神様が助けてくださり、愛されていることを知るからです。神様は私達をご自分の子として愛し、あなたは良きものだと心から信じておられます。ですから、何があっても助けてくださいます。自分が良きものであるかどうか確かめたければ、求めてみましょう。神様は、試練と共に脱出の道があると約束しておられます。何度問題にぶつかっても、神様に求めるなら、神様は必ず解決してくださいます。そして、あなたは神様に愛されている自分を確認し、自分が良きものであることを知ることができます。こうして、自分は愛されないダメなものだという思いを排除することができるのです。

   私達は、親や社会から、お前はダメだという思いを刷り込まれてきましたが、それは間違いです。あなたは良きものであり、愛されるために造られました。罪とは、神と異なる思いであり、最も神が受け入れられない思いは、自分を否定する思いです。自分をダメだと思う根拠を言い表し、どんなことでも神様に祈り求めることを通して、愛されていることを確認しましょう。そうすることで、自分のセルフイメージが変えられて、私達はいやされていくのです。