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2016年9月18日
献堂記念礼拝より「神の恵み」

   幸運な人を見ると、うらやましく思うものです。しかし、聖書は、あなたも幸運になれると教えています。
   聖書にパウロという人物が登場します。ある意味で、彼ほど幸運な人間はいません。パウロは、キリスト教迫害の急先鋒でした。彼はキリスト教に対する憎しみに燃え、多くのクリスチャンを捕らえては投獄し、使徒達を死刑にすることにも賛同していました。そんな彼が、ある日突然、キリスト教を伝える宣教者となり、愛を教える者となり、人々をキリストに導くリーダーとなったのです。
   パウロは、この驚くべき幸運の秘訣を次のように述べています。

『私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。』(新約聖書 コリント人への手紙 15:9〜10)

   パウロが、この幸運を手に入れることができたのは、神の恵みによるというのです。このことは、私達にとっても励ましです。なぜなら、これは、あなたも神の恵みによって幸運な人間になることができる、というメッセージだからです。
   神の恵みは、あなたを幸運な人に変えます。過去にどんなことをした人でも、その人自身を変えてしまいます。神の恵みとは、いったいどのようなものなのでしょうか。

1.あなたの罪を無条件で赦す

罪が赦されるという恵みにまさる恵みはありません。神様は、あなたがどんなことを告白しても責めずにすべて赦してくださいます。だから、あなたの罪を神の前に言い表しなさいと、神は語っておられます。
   以前、NHKのドキュメント番組で、第二次世界大戦後、日本人とアメリカ人、それぞれ相手の国に渡って宣教した二人の牧師が紹介されていました。彼らは終戦後、戦争によって傷ついた人々の心から憎しみが取り除かれ、彼らがいやされることを願って、互いの国に渡ったのです。アメリカ人牧師は、元日本軍の捕虜であり、日本を憎んでもおかしくない扱いを受けた経験がありました。また、日本人牧師は、元真珠湾攻撃隊長でした。
   この二人を変えたのは、イエス・キリストが、十字架上で語った言葉です。

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(新約聖書 ルカの福音書 23:34)

   イエス様は、今まさに自分を十字架に釘で打ち付けて殺そうとしている人々のために、「自分で何をしているのか、わからないでやっていることだから、彼らを赦してほしい。」と、祈りました。
   神様の目からすると、私達が罪を犯すのは、無知のゆえなのです。ですから、神様は、あなたが犯した罪を責めることなく赦すと言っておられるのです。この十字架のイエス・キリストの言葉によって、二人の宣教者は、和解こそが憎しみの連鎖を断ち、戦争を本当の意味で終結することができると考え、互いの国に渡ったのです。
   イエス・キリストの恵みは、罪を赦す恵みです。私達は、罪人である自覚もなく、わからないで罪を犯してしまっていますが、それは、知らぬ間に罪という病気にかかっているからだと聖書は教えています。罪のそもそもの原因は、神に愛されている自分が見えないという不安です。人は、神がわからず、愛されていることがわからず、自分が何者か、何のために生まれてきたのかわかりません。その不安が心に重くのしかかり、必死に見えるものに自分の価値を映し出して、平安を手にしようとして生きています。自分さえ良ければと罪を犯してしまうのは、その不安のせいなのです。
   神様は、あなたは神に愛されていることを知らせ、あなたの罪という病をいやしたいと願っておられます。イエス様は、私達に、罪が赦されている恵みを教えるために、次のようなたとえ話をなさいました。

『ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(新約聖書 ルカの福音書 15:11〜24)


   この父親は、神様を表しています。神様は、あなたがつらいのは、自分でわからずにやっていることだから、あなたを責めようなどとは思わず、かえって、早く神に立ち返ってくるようにと願っておられます。自分の罪を赦してほしいと神に願うなら、神は走り寄り、ただ抱きしめてくださるのです。これが罪の赦しです。神様は、今、あなたにこの体験をさせてくださいます。この恵みこそ、最大の恵みです。

2.人生のビジョンをくださる

   あなたの人生は、どこを目的地にしているのでしょうか。人生のその先には何があるのでしょうか。目的地もなく、ただやみくもに車を走らせ続けなければならないとしたら、とてもつらく、いつか身動きが取れなくなってしまうでしょう。ところが、人は、人生の目的地がわからず生きています。小さな目的地を持つことはできても、神を信じない限り、人生の目的地は見えないのです。
   私達は、この世界は進化してできたのだと教えられました。何らかの爆発があって、様々な成分がぶつかりあって細胞ができ、それがやがて進化して人間になったというのが、進化論の大筋です。つまり、生命の始まりは偶然で、私達は物質であり、偶然と突然変異の積み重ねによってできたものだということです。しかし、その前提では、私達の命や人生には、特に目的はなく、せいぜい与えられた命を生きるくらいのことだということになってしまいます。その結果、目標のためには、命くらい犠牲にしても構わないという共産主義的な考えが生まれてきたのです。
   しかし、現代の世界においては、人の命は地球より重いという民主主義的な考え方のほうが主流です。この考え方の根底にあるのは、人は神に造られたという考え方です。この考えが主流になった背景には、科学の進化によって、進化論の前提が徐々に壊れているという事実があります。一例としては、今日の物理学では、地球は何もないところから始まったことがもはや常識です。多くの人の長年の検証の結果、ビッグバンは何もないところから始まったと説明するしかないというところに行きついたのですが、これは、聖書が創世記の初めから言っていることと同じです。
   人は、神によって造られ、計画があると知ることで、ビジョンを持つことができるようになるのです。明治維新のころ、何人もの宣教師が日本にやってきて、多くの青年がキリスト教に触れ、クリスチャンになりました。宣教師の中には、北海道の開拓で有名なクラーク先生もおり、内村鑑三、新渡戸稲造などは、クラーク先生の直接の教え子です。こうして、クリスチャンになった青年達が、ビジョンを持って明治の社会を文化的にリードし、今日の社会の基礎を築いたのです。
   彼らは、神と出会うことによって、自分は何のために生きているのかという問いに対する答えを見つけました。自分が生まれたのには意味があり、計画があり、私は目的があって造られたことを知ったのです。神の恵みに触れるなら、このような希望が見えてくるようになるのです。

3.私達の価値観を変えてくれる。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)

   パウロは、自分の価値観が変わったので、今後は人間的な標準で人を見ることはしないと述べています。
   そもそも価値観とは、物事の優先順位を決めたり、価値を決めたりする基準のことです。同じ量の水でも、小さな器に入っているのと大きな器に入っているのとでは、量が変わって見えるように、価値観が変わると、同じ出来事が○になったり×になったり、別の意味になってしまうということが、私達の生活の中ではよくあります。
   あひるの中で育てられた白鳥の子どもが、本当の自分を知らずに生きる「みにくいあひるの子」という童話があります。あひるの価値観で見ると、白鳥の子は、何一つできません。あひるのおかあさんも、白鳥の子が混ざってしまったことに気づかず、なぜこの子だけが、ほかの子と同じようにできないのかと思っています。仲間にいじめられた白鳥の子は、つらさのあまり、家を出てしまいますが、行った先々でもいじめられ、自分はダメなものでしかないんだと思い詰め、ついに死のうと決意します。その時、湖に、初めて見る美しい大きな白い鳥の群れを見つけ、思わず見とれて近づいていこうとすると、なんと湖の水面に映る自分の姿とそっくりです。みにくいあひるの子は、自分はあひるではなく白鳥だったと気づく物語です。
   白鳥の子どもは、異なる価値観で育てられていたために、本当の自分の姿を知りませんでした。私達も同様です。この世界の価値観で育てられたため、自分はダメな存在だと思ってしまっています。この世の価値観では、その人に何ができるか、何を持っているかということで、人の価値を判断します。聖書はこれを、うわべで判断すると言っています。この世は、うわべを見て価値があるかないかを判断し、価値あるものを愛そうとします。いじめや差別は、ここから生まれます。
   また、こうした価値観の中で育った私達は、人の価値をはかるために、常に人と比べて生きています。人が頑張る一番の理由は、人と比べて、自分はダメだと思うからです。自分はダメだと思っているから人の目を気にし、自分をダメだと思っているから嫉妬や怒りが生まれるのです。すべて、自分を愛していないこと、受け入れられないことの現れです。この世の価値観で育ち、この世の価値観で生きていると、みにくいあひるの子と同じで絶望しか見えてきません。
   しかし、神の価値観は異なります。私達が神の恵みに気づき、神に愛されていることを知れば知るほど、私達の価値観は変わります。この価値観が変えられた時のことを、先ほどの御言葉の続きで、パウロは次のように言いました。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:17)

   パウロは、イエス・キリストを信じただけで、今までと同じ世界が、全く新しく見えるようになりました。状況は変わらないにも関わらず、価値観が変わると、人生が新しく変わります。価値観によって、人生は明るくも暗くもなるのです。ですから神様はあなたの価値観を変えてあげようと言っておられるのです。
   私達が、自分はダメな人間だと思う時、それはあなたの価値観が間違っています。あなたをつらくさせているのは、あなたの価値観です。神様は、その価値観を変え、あなたの人生を変えようとしておられるのです。神様によって価値観が変えられると、人生は意味あるものだと気づき、素晴らしい人生を手にすることができるようになります。どうか、神の恵みを受け取り、あなたは愛されていることを知ってください。これが、神様が私達に望んでおられることです。

『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 へブル人への手紙 4:16)

   神の恵みを受け取りましょう。恵みを受け取り、罪が赦された私達は永遠のいのちが与えられ、神と共に生きるようになります。私達は、神に造られた時から生きる目的が与えられています。人生の目的がわかると希望が持てるようになり、さらに、この地上での命が終わっても、安心して神の国に行くことができるようになります。
   この恵みを受け取る方法は、ただ「イエス様、あなたを信じます。私を助けてください。導いてください。」と祈ればよいだけです。神の恵みさえ受ければ、誰でも幸運な人になれます。まったく新しい人生を生きることができ、希望を持って生きることができるようになるのです。神の恵みを見つめ、神と共に生き、永遠のいのちを手に入れましょう。キリストを信じれば、新しい人生を生きることができ、あなたの人生は変わります。