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2016年9月11日
「星野富弘さんの詩から」

   星野富弘さんは、体育教師として、跳び箱で宙返りの模範演技をしていた際、頭から落下し、頸随損傷で首から下の体の自由を失いました。一瞬のうちに絶望の淵に立たされた星野さんは、その入院中、聖書を読んで神を知り、クリスチャンになりました。その後、口で絵と詩を描くようになり、今も詩画を通して多くの方に生きる希望を与えています。彼を変えたものは、いったい何だったのでしょうか。今日は、星野富弘さんの作品を通して、聖書を学んでいきたいと思います。

いのちより大切なもの

「おだまき」
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

   命が大切だということは、誰でも知っています。しかし、その命を自分でなんとか守らなければならないと思えば思うほど苦しくなります。何としてでも命を延ばそうとすると、人の目にどう映るかも気になりますし、様々な苦しみも生まれます。
   しかし、命よりも大切なものがあると知った星野さんは、ただ、生きているのがうれしかったと言うのです。命より大切なもの、それは私達の命を造られた神です。この神を知ると、人はうれしくなり、楽しくなることを、彼自身が体験したのです。
   イエス・キリストは、次のように言われます。

『 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(新約聖書 マタイの福音書 6:25〜34)


   「自分の命を心配することをやめ、あなたの命を守り、大切にしてくれる方を見上げなさい」と、神は言っておられます。「神が私の心配をしてくれる」・・・・・・星野さんは、そのことに気づいてうれしくなったのです。手足が動かなくなり、この先のことが心配で仕方ないのは当然です。しかし、神を知り、神が養ってくださるという信仰に立つことができれば、生きることが楽しくなります。私達も、自分で何もかもしようと考えるから、苦しくなってしまうのです。神が養ってくださるという御言葉を信頼しましょう。

どうしても必要なこと

「たんぽぽ」
いつだったか
きみたちが空をとんで行くのを見たよ
風に吹かれて
ただ一つのものを持って
旅する姿が
うれしくてならなかったよ
人間だってどうしても必要なものは
ただ一つ
私も 余分なものを捨てれば
空がとべるような気がしたよ

   星野さんは、たんぽぽの姿を、神を知った信仰と重ねました。たった一つの大切なものをしっかり持つことで、自分も自由になれる気がしたと言っています。いろいろなものをたくさん持とうとすると、身動きが取れなくなってしまいます。つまり、あなたの自由を奪っているのはあなた自身であると、この詩は訴えているのです。
   安心と安全を得るために人が思いつくことは、いろいろなものを持つことです。ところが、それにしがみついていると、重くて動くことができません。それを捨てることによって、私達は自由になることができるのです。

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』(新約聖書 マタイの福音書 16:26)

   人は、多くのものを得ようとして、あれもこれもと手を伸ばすからつらくなり、いろいろなものを握りしめようとして身動きが取れなくなってしまいます。本当に大切なものをしっかり握れば、私達は自由になることができます。たった一つの大切なもの、まことのいのちをしっかり握って生きるとは、具体的にどのようなことに気をつければよいのでしょうか。

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』(新約聖書 ルカの福音書 10:38〜42)


   マリヤが選んだどうしても必要なこととは、神の言葉です。神を愛し、神を信頼するとは、御言葉を大切にして生きることです。
   姉のマルタは、イエス様に良く思っていただこうと、一生懸命、接待の準備をしていました。多くの人が、この時のマルタのように、気遣いによってイライラする経験をしたことあるのではないでしょうか。イエス様は、御言葉をふさぐ敵は、この世の心づかいだとお教えになりました。ギリシャ語では、「心配して」という言葉と「この世の心づかい」という言葉は、同じ単語が使われています。人に良く思われようとすることが、神の言葉をふさぐのです。
   私達がいろんなものを手に入れようとするのも、人から良く思われたいからです。ところが、それによって物の管理に追われ、思い煩いが生じて、身動きが取れなくなり、かえって自由が失われてしまうのです。
   私達が握るべきただ一つのものは、神の言葉です。なぜなら、神の言葉があなたを自由にし、あなたの力となるからです。

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』(新約聖書 へブル人への手紙 4:12)

   御言葉は、私達の心の中の過ちを指摘し、正しい方向に導く力があります。世界中、数え切れないほどの人たちが、この神の言葉によって人生が変わりました。神の言葉は、あなたの力となり糧となります。この御言葉をしっかり握るなら、私達は自由になれます。

悪口を言わない

「くちなし」
鏡に映る顔を見ながら
思った
もう
悪口を
いうのは
やめよう
私の口から出たことばを
いちばん近くで聞くのは
私の耳なのだから

   神の言葉が私達の力になるということは、私達を殺す言葉もあるということです。それは、否定的な言葉です。
   私達の魂は、言葉によって左右されます。あなたは、自分の語る言葉にどれだけの力があるか、気づいているでしょうか。自分が語っている誰かの悪口や、人をさばく否定的な言葉を聞いているのは、自分自身です。その言葉によって、自分自身が否定的な言葉に支配されてしまいます。信仰の言葉は人を元気にし、否定的な言葉は人を否定的にするという、この単純な真理を人は知りません。そのため、否定的な言葉を自分に聞かせて、自分を貶めていることに気がつかないのです。人は苦しい時、自分は人のせいで苦しんでいると勘違いしているものですが、本当に自分を苦しめているのは、自分の言葉なのです。
   暴言を聞くと確かに落ち込みますが、それ以上に自分の語る否定的な言葉が自分を落ち込ませます。私達は、自分の言葉で自分をダメにしていることに、なかなか気づきません。
   星野さんは、神と出会い、信仰の言葉が自分を生かすことに気づいて、これからは信仰の言葉を語ろうと思ったのです。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。』(新約聖書 ヤコブの手紙 3:2〜6)

   「舌」には、言葉という意味があります。言葉は、あなたをコントロールする力を持っています。しかし、人はそのことに気づかず、自分の言葉で自分を落ち込ませ、苦しめています。信仰を語り、神の言葉を語りましょう。そこで、力を得て生きることができるのです。神の言葉を握って生きるとは、自分の口から出る言葉を制することです。そうすることで、あなたは自分を変えることができます。

見え方が変わる

「かりんの実」
毎日見ていた空が変わった
涙を流し友が祈ってくれたあの頃
恐る恐る開いた   マタイの福音書
あの時から
空が変わった
空が私を
見つめるようになった

   「空が変わった」とは、実際に空の何かが変わったということではなく、空は今までと同じでも、その意味が変わったということです。今まではただの空だったのが、星野さんにとっては、わたしを見つめているように変わったというのです。
   御言葉を大切にし、神を大切にして生きるなら、世界の意味が変わるのです。イエス様を信じることによって、あなたが見る世界は変わったでしょうか。パウロは、それを次のように証ししています。

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:17)

   「がんばれよ」と言われて、落ち込む人もいれば、感動する人もいるように、人が落ち込んだり、感動したりするのは、何を聞かされたかではなく、その人が持っている価値観によって決定されます。
   イエス様のメッセージを聞いて多くの人は感動し、主をほめたたえました。しかし、同じメッセージを聞いたある人々は怒り、イエス・キリストを殺してしまったのです。殺されるほど憎まれるのは、イエス様が間違っていたからでしょうか。そうではありません。怒りを燃やすのは、聞く側の問題であり、聞いている本人の責任です。一人一人の価値観がそれを決定しているのです。
   星野さん自身も、神に出会う前は、この世の価値観で物事を見ていましたから、動けなくなった自分は価値のない者としか思えませんでした。しかし、神を知って、そうではないと気がついたのです。神の言葉を食べて生きるならば、私達の生きている世界がまったく新しくなるのです。苦しいのは人のせいではなく、自分がどう解釈するかという問題だったのです。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)

   私達には、人の価値はその人が何ができるかで判断するものだというこの世の価値観がしみついています。しかし、神の言葉という基準で人を見、神の価値観でこの世界を見るようになると、新しい見方ができるようになります。
   パウロも、以前はこの世の物差しで世を知ろうとしたり、神を知ろうとしたりしていましたが、神の言葉ですべてのものが新しく見えるようになると、そのようなことはやめてしまったと告白しています。御言葉をしっかり食べ、神の基準で生きるようになると、物事の別の側面が見えるようになり、自分は良きものだと気づくのです。それは、神に愛されている自分が見えるようになるからです。あなた自身が変わることによってではなく、自分を見る目が変わり、神と同じ視線を持つことで、新しい自分が見えるようになるのです。
   この世の基準で自分を見ると、どうしても自分はダメな者だという結論に行きついて、落ち込んでしまいます。そんな私達が試練や患難に出会うと、自分が悪かったのだから仕方ない、罰があたったのだなどと、自分を責めてしまいます。しかし、神の言葉に立つと、試練の先に希望が見えるようになります。
   聖書に、患難や試練を喜べと何度も語られているのは、御言葉に立つことで、希望が与えられ、私達を自由にすることができるからです。出来事が変わらなくても、それを見るめがねが変わると、見方が変わって、希望が見えてくるようになります。
   御言葉をしっかり食べて、神を信じ、素晴らしいものを手にして生まれ変わったという原点に立ち返りましょう。