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2016年8月28日
罪はない

   私達は、日常生活の中で、罪に対して罰があるのは当然だと考えています。ところが、この思い込みが、イエス・キリストの十字架の意味を理解できなくさせています。神は、罪に対して罰を与えない方だからです。
   旧約聖書は、さばきと同時に贖いを教えていることを忘れてはなりません。旧約聖書は、自らの罪を言い表し、動物のいけにえを捧げることで罪が赦されると教えています。神様は、当時の人々の生活に合わせ、罰という概念を使って罪を理解させ、人々が神に立ち返り、罪が赦されるように導き、神の愛を知らせようとなさったのです。
   新約時代になり、人々の生活に余裕が出始めると、神様は律法の目的を明らかになさいました。それは、罰するためではなく、私達を恵みに導くためのものだということです。神様の目的は、初めから、あなたを赦し、神の愛を伝えるところにあったのです。こうして、新約聖書から罰という言葉は消えていきます。 イエス・キリストは、次のように語っておられます。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

   このように、罪に対して神の罰があるというのは、私達の勝手な思い込み、あるいは勘違いとも言えるものであり、決してそのようなことはないのです。

なぜ神は罰しないのか

1.人は死んでいるから

   生まれながらに神とのつながりを失っている私達人間は、神の目から見て死んだ状態です。永遠なる神との結びつきがない状態は、幹から折られた枝のようです。折れた枝が必ず枯れるように、私達も体が朽ちる時、同時に死んでしまいます。私達は必ず死ぬので、神は私達を死んだものとご覧になっているのです。

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:1)
『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし…』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:5)


   死人に罰を与えても意味がありません。イエス・キリストがこの地に来られたのは、罰を与えて裁くためではなく、折れた枝を再びつなぎ合わせて救うためです。世の人々は、自分が死んでいることに気づいていないため、罰を受けるのではないかと恐れているのですが、そのようなことはないのです。
   また、すでに死んでいるということは、罰がないだけでなく、どんな立派な行いをしても救われないということです。救いは生きている人のものです。折れた枝が救われる道は、ただ一つ、拾い上げられ、接ぎ木されるしかないのです。
   この世の教えは、なんらかの行いによって救われるように教えますが、キリスト教は、そもそもいのちを持っていない者がどんな行いをしても救われることはなく、ただ神につながることによって救われるのだと教えます。神につながるには、ただ神様に「助けてください」と言うだけです。すると、神様があなたを拾い上げてくださり、つながることができるのです。

『まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』(新約聖書 マルコの福音書 3:28〜29)

   神様は、私達がどんな罪を犯そうとも赦してくださいます。そのために、聖霊なる神は、私達に手を差し伸べ続けてくださっています。神様は、人間は意思を持って生きるように造られましたから、その意思を破壊して強制的に救うようなことはなさいません。ただ私達の心に働きかけ、神に立ち返るように呼びかけ続けておられます。この聖霊様の働きを無視するならば、神に接ぎ合わされることはなく、永遠の死にいたります。

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17〜18)

   私達がさばかれるのは、唯一、救いの御手を拒む時です。これが聖霊をけがすということです。イエス・キリストを信じる者は永遠のいのちを持ちますが、信じなければ死んだ状態のままです。死人はさばかれることはありませんから、私達はさばかれたり、罰を与えられたりすることを恐れる必要はありません。しかし、神を拒否するなら、死んだ状態のまま救われることなく、永遠の死が確定します。

2.罪は病気だから

   病気とは、病原菌によって本来の姿ではない状態のことです。私達は、自分から望んで罪を犯しているわけではありません。死という病原菌が入り込み、その恐ろしさから逃れようとして、見えるものにしがみつくために、争いや怒りや妬みが生じて罪が発生するのです。神様は、罪を裁くのではなく、死という病原菌を取り除き、あなたをいやしたいと願っておられます。裁かれることを恐れて罪と戦うのではなく、いやしていただけばよいのです。
   罪の本当の恐ろしさは、自分自身を苦しめるところにあります。憎しみ、怒り、妬み・・・といった罪は、私達を苦しめます。多くの人は、この苦しみから解放されたいと願う時、悪い行いをやめようと考えますが、罪の本質は行いではなく、思いにあります。つまり、神の言葉を信じようとしない不信仰が、憎しみ、怒り、妬みといった罪を生み出すのであり、罪の本質は不信仰です。これを何とかしない限り、私達は見えるものにしがみつくことをやめられず、苦しみはなくなりません。
   罪は、神に似せて造られ、神と一つ思いでつながれていた人間が、悪魔の嘘を信じたところから始まりました。悪魔は、神と異なる思いを、あたかも神の思いであるかのように語って人を欺き、その言葉を信じた瞬間、神と異なる思いが人に入り込み、神との関係が崩壊したのです。これが死です。死が入り込んだために、人は神とのつながりを失い、永遠のいのちを失ってしまいました。そして、見えるものに安心安全を求める生き方になってしまったのです。これが私達の罪となって私達を苦しめています。つまり、私達の罪は、悪魔が持ち込んだ死が原因です。外部から入り込んだものが、本来の姿を失わせた状態であるために、罪は病気だと聖書は教えているのです。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   この聖句の後半の日本語訳は誤訳であり、詳しいギリシャ語辞書の最新版では、次のような訳が妥当とされています。
『すべての人に死が広がった。その結果、すべての人が罪を犯すようになった。』
   つまり、死が入ったことで、私達は罪を犯すようになったということです。

『それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:21)
『ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:17)

   罪が私達を支配するようになったのは、死が入ったことが原因です。私達の中に本来なかった死が入り込み、住み着いてしまったことによって、私達は罪を犯すものとなってしまいました。死という病原菌に犯された結果、本来の姿を失い、罪という病気を発症したということです。愛する人が病気になった時、私達は病気になった人をさばくでしょうか。なんとかいやしてあげたいと願うのではないでしょうか。
   イエス・キリストは次のように言われました。

『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』(新約聖書 ルカの福音書 5:31〜32)

   神であるイエス・キリストがこの世に来た目的は、罪人を神に立ち返らせ、助けるためです。それは、病人と医者の関係だとイエス様は言われました。神は罪を病気として見ているのです。自分は病気だとわかれば、熱心に医者に通って病気を治そうとするように、罪は病気だと気づけば、必ずいやしてくださる神のもとに行くでしょう。罪をいやすことができるのは、十字架しかありません。十字架は、神があなたを愛しているという薬です。
   神とのつながりを失った人間は、愛されていることがわからなくなり、自分の価値がわからなくなりました。そこで、自分の力で努力し、頑張ることで、ほめてもらおうとしています。弟子達も、イエス様に対して、そのような関係を築こうとしましたが、神と人との関係は、そうではありません。
   人は皆、自分の行いを見て、愛されるはずがないと思い込んでいます。神様が、人に律法を与えた目的は、自分の力では行いを変えられないことに気づかせ、自分の中にある罪という病気に気づいて神に助けを求めるように導くためです。医者である神に助けを求めるなら、必ずいやされます。罪はさばかれるものではなく、いやされるものだという正しい認識を持ちましょう。

3.「罪を赦す」とは「投げ捨てる」こと

   「赦し」の原語である「アピーエイミ」の基本的な意味は、「投げ捨てる」で、罪の赦しのほかに、病がいやされる時にも使います。つまり、罪を赦すとは「罪を投げ捨てる」という意味であり、病をいやすとは「病を投げ捨てる」という意味です。この原語からも、「赦し」とは、罰を帳消しにするという意味ではなく、罪に対して罰はないと知ることができます。

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9〜10)

   神が罪を赦すとは、罰を帳消しにするとか、さばきを無効にするなどではなく、すべての悪から私達を清めることなのです。つまり、あなたに罪を犯させる死の恐怖から、解き放つことです。死の恐怖が完全にいやされるのです。そのために、イエス・キリストは十字架にかかりました。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 5:15〜16)


   神様は、あなたの罪をいやしたいと願っておられることを、どうが忘れることなく、いやしの恵みを受けとりましょう。また、人の罪を見て腹が立つ時には、罪は病気であることを思い出し、その人がいやされるように祈りましょう。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)

   神様は、罪を裁くのではなく、いやしたいと願っておられます。ですから、あなたがつらい、苦しいと感じるときには、いつでも「神様、助けてください」と、神の前に歩み出ればよいだけです。神様に、私の罪を赦してくださいと祈るとき、神の愛が見えるようになり、いやされていきます。罪に対する間違った理解を拭い去れると、イエス様の十字架がはっきりとわかるようになります。