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2016年8月7日
信じる者になれ
(新約聖書 マルコの福音書 16:9〜20)
   9節の数字の下に[ ]がついていて、欄外に異本と書いてあります。これは、9-20節を欠く「写本」があるという意味です。昔は印刷機がありませんでしたので、聖書は手書きで書き写され、さらにそれを書き写すという形で広まっていきました。書き写されたものを「写本」といいます。今日発見されている写本は、断片のものであったり、まとまった形のものであったりと、時代や書かれたものの材質などによって異なり、新約聖書だけで4000〜5000近くの写本があると言われています。まとまった形で残っている写本の最も古いものは、4世紀頃に書かれたヴァチカン写本とシナイ写本ですが、これらの写本には、この9-20節がありません。ところが、5世紀に書かれたアレクサンドリア写本には、9-20節があります。この[ ]は、そうした差異があるということを示しています。ただし、9-20節の内容としては、他の福音書に書かれている内容と相違ないので問題ないということです。

神は罪人に寄り添う

『さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。』(新約聖書 マルコの福音書 16:9)

   マルコの福音書では、イエス・キリストの復活の様子が簡潔にまとめられています。それによると、イエス様が最初に復活した姿を現されたのは、マグダラのマリヤでした。マリヤは七つの悪霊を追い出されたとあるとおり、非常に罪深い者でありました。イエス様は、そのマリヤに、まず姿を現されたのです。
   このことから、神は罪深い者、弱い者に寄り添ってくださるということが分かります。イエス様は、世の中で罪深いとされ人々から忌み嫌われていた取税人や娼婦と積極的に関わり、福音を伝えられました。罪には大小がありませんが、私たちの目には罪深い者と思われる者と、イエス様は関わられるのです。ならば、罪深いことをしなければ神との関わりがないかと言えばそうではありません。
   パウロは、世の中では非の打ち所がないとされた者でしたが、彼は神の愛に打たれ、罪の本質を悟りました。そして、自らを「死の恐怖の奴隷」であり、罪から逃れられない存在だと自覚するに至りました。自らを「罪人のかしら」だと言うほど、彼は自らの罪深さを認識するようになっていったのです。このように、罪深い者というのは、自らを罪深いと認識する者のことを言います。イエス様は、そういう人と関わってくださるのです。
   かつてイエス様は弟子のペテロの足を洗われたことがありますが、もしご自分が洗わないのであれば、わたしとあなたとは何の関わりもないと仰いました。自らを罪深いと認識する者は、イエス様に足を洗っていただくことを望むものです。しかし、そうでなければ、足を洗っていただくことを求めません。イエス様は医者が病人に寄り添うように、自らを罪深いと認識する者に寄り添ってくださるのです。

罪とは何か

『マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。』(新約聖書 マルコの福音書 16:10〜11)

   イエス様がよみがえられたことを知ったマリヤは、大喜びでそのことを、弟子たちや一緒にいた人たちに伝えに行きました。しかし、その知らせを聞いても、誰も信じようとしませんでした。このことは、私たちに重要なことを示しています。私たちの問題は、信じようとしないことにあるのです。これが、神の最も悲しまれる罪です。罪とは、信じないことです。
   この罪がどれほど深刻なものであるかは、ラザロの復活の話から知ることができます。ラザロが病気になって死んだとき、イエス様はラザロがよみがえることを、弟子たちやマルタ、マリヤに伝えましたが、みな一様に信じませんでした。イエス様は、その彼らの不信仰に対して涙を流されました。「信じないこと」、これが罪です。神が涙を流されるほどの深刻な罪なのです。
   このように、ラザロの復活と同じことがこのときにも起きました。マリヤが必死にイエス様が復活なさったことを話しても、かつてイエス様と一緒にいた人たちは誰も信じようとしなかったのです。

信じられるように働きかける

『その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現された。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。』(新約聖書 マルコの福音書 16:12〜14)

   彼らがマリヤの話を信じようとしないので、イエス様は、彼らのうちの二人に別の姿でご自分を現されました。その二人はマリヤと同じように、イエス様がよみがえられたことを仲間に知らせました。しかし、それでも彼らは信じようとしませんでした。そこでイエス様は、彼らの前に現れて、彼らの不信仰とかたくなな心を責められました。
   このことから、何を読み解くことができるでしょう。それは、イエス様は「不信仰」を責められはするけれども、信じられるまで、何度でも働きかけてくださる方だということです。「おまえは不信仰でダメな者だ」と言って見捨てるのではなく、信じられるまで励ましてくださるのです。神は罪に対し涙を流すほど悲しまれますが、それでも様々な形で人を励まし、信じられるように助けてくださいます。あるときは、神は人を送り、その人の言葉を通して励ましてくださることもあります。勿論、その人にはそのような意識は全くありませんが、神はそうやって私たちを励ましてくださいます。
   しかし、私たちが取るべき姿勢は、人からの励ましを期待することではなく、神に心を向けることで励ましを受け取ることです。そのとき助けになるのが賛美です。賛美をすると心が神に向き、神の存在が心の中で大きくなり、希望が見えてきます。それが神の励ましです。賛美と祈りは、その手段が違うだけで同じものですが、とりわけ賛美には、私たちの感情を慰めてくれる不思議な力があるのです。

見ずして信じる関係

   神はとことん私たちに寄り添って、信じられるように助けてくださいます。しかし、そうした神の愛を思うとき、それならば、どうしてイエス様は弟子たち全員の前にすぐに姿を現さなかったのかという疑問が湧いてきます。イエス様が弟子たちの前に姿を現されたのは、最後の最後でした。復活したことを信じさせたいのなら、手っ取り早く姿を現し弟子たちを励ませばよいのでは、と思いますが、実はここにこそ神の深いメッセージが隠されています。それは、神が望んでおられるのは、「見ずして信じる関係を築きたい」というメッセージです。
   人間関係というのは、ギブアンドテイクの関係で成立しています。何かをすることで見返りを得る、人間関係はこうして築かれます。しかし、その関係は、見えるものに左右されるため、とてももろくてはかないものです。相手が期待する見返りを与えることができなくなれば、途端にその人の周りからは人が去って行きます。それがこの世の中の人間関係です。
   しかし、神は、そのような関係を人と築きたいのではありません。神は、見えるものに一切左右されない、見ずして信じる関係を人と築きたいと願っておられます。見えるところで何があっても信じ合える関係を築きたい、神の願いはそこに集中しています。そうした思いから、イエス様は弟子たちの前にすぐには姿を現さず、励ましを与えることで、信じられるようにと弟子たちを訓練なさったのです。神は、弟子たちを訓練なさったのと同じように、私たちにも「見ずして信じる信仰」を養ってほしいと望んでおられます。
   では、イエス・キリストの復活をすでに信じている私たちクリスチャンは、何を信じたらよいのでしょうか。神を信じるというのは、どういうことなのでしょうか。三つのことをお話しします。

1.永遠のいのちを持っていることを信じる

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:47)

   下線部分を原文に忠実に訳すと、「信じている者は永遠のいのちを持っています」となります。「信じる者は永遠のいのちを持ちます」というと、これから先、天国に行くときに永遠のいのちを頂くようにも解せてしまいますが、そうではありません。これは現在形で書かれており、将来永遠のいのちを持つということが書かれているのではなく、イエス・キリストを信じているならば、今もうすでに永遠のいのちを持っているということが書かれています。

『永遠のいのちは目で見ることはできませんが、イエス・キリストを信じるようになった者は、今すでにそれを持っているのです。いや、正確に言うなら、神から永遠のいのちを頂いたからこそ、私たちはイエス・キリストを信じることができるようになったのです。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:3)

   とかく私たちは、イエス・キリストを信じてはいても、罪を犯せば罰を受けて天国に行けないのではないか、と心配してしまいますが、それは間違いだということです。すでにクリスチャンは永遠のいのちを持っていて、それは決して奪われることがありません。ヨハネの福音書を見ると、イエス様は、何度もそのことを仰っています。つまり、私たちは自分の罪を見て、こんな自分は愛されないのではないか、永遠のいのちを頂けないのではないかとすぐに不安になってしまうので、イエス様は、「そうではない、すでに永遠のいのちを持っている」ということを何度も仰いました。ですから、私たちクリスチャンは、自分が永遠のいのちを持っているということを、見ずして信じていくのです。

2.神が助けてくださるということを信じる

   私たちは患難に遭いますが、必ず助けられます。患難にぶつかったとき、必ず助けられるということを、結果を見る前に信じるのです。問題が解決してから信じるのは、信仰ではありません。
   先週、教会学校のキャンプが行われましたが、天気が悪いという予報が出ていました。しかし、神は必ず助けてくださるということを信じてみんなで祈ったところ、神は祈りに応え、全てのプログラムが無事行えるよう助けてくださいました。毎年キャンプが行われるたびに、祈っては晴れる、という経験を子どもたちは体験してきましたが、今回もまた、「神様は必ず助けてくださる方だ」ということを子どもたちが身を以て体験することができました。
   どのような絶望的な状況に於いても、神は助けて下さる方です。私たちもそのことを信頼していきましょう。

3.あなたのうちにキリストが生きているということを信じる

   弟子たちはキリストの復活を信じようとしませんでしたが、復活は事実でした。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

   キリストは、あなたのうちに生きておられます。つらいときに祈ってみれば、うちに住んでおられる神の慰めを感じ取ることができます。それを深く知るために、神は聖霊のバプテスマという賜物を与え、異言で祈ることで、「キリストが私のうちに生きておられる」ということを感じ取ることができるようにしてくださいました。
   目には見えませんが、キリストがうちに生きておられるということを、私たちは信じなければなりません。

   私たちクリスチャンは、以上の三つのことを信じていくのです。神は見ずして信じる信仰を望んでおられます。イエス様は、トマスがご自分の復活を信じられずにいたとき、次のようなやりとりをなさいました。

『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:24〜29)

   イエス様はトマスに見たから信じたのかと言われました。確かに、トマスは、なかなか信じることができませんでした。しかし、イエス様の助けで信じられるようになったトマスは、このあと大きく変わっていきます。私たちにとって重要なのは、神が私たちに求めているのは、見ずして信じる関係を築いていくことだと知り、信じない者にならないで、信じる者になろうとして生きていくことです。

福音を伝えよ

『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』(新約聖書 マルコの福音書 16:15〜18)

   これは、イエス様が弟子たちに姿を現し、そして天に上げられる前、最後に言われた言葉です。イエス様は、全世界に出て行き造られた者に福音を宣べ伝えなさい、と仰いました。
   イエス様は、私たちが伝えるべき福音の二つの要点を仰いました。
   一つは、信じてバプテスマを受けなさいということです。まだイエス様を信じていない人に対して、信じるよう勧めなさいということです。信じてバプテスマを受けられるということは、すでに永遠のいのちを頂き救われている証拠です。バプテスマを受けることで、自分が救われているということを確認することができます。ですから、そのことをまず伝えなさいとイエス様は仰っています。
   そしてもう一つは、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」ということですが、これは、神は神を信じる者を必ず助けるという意味です。イエス様は、救われた者に対する保証を、比喩を交えて仰いました。
   これら福音の二つの趣旨を人々に伝えていくことが、クリスチャンに課せられた使命です。私たちの周りには、まだこの良き知らせを知らずにいる人たちが大勢います。その人たちに、福音を伝えていくことが、先に救われた者の使命です。

福音は真実である

『主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。』(新約聖書 マルコの福音書 16:19〜20)

   「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」とあるように、いつの時代も神は福音を宣べ伝える者を助け、神の福音が真実であることを現実のものとしてくださいました。それにより、世界中に福音が広まっていったのです。

   見えるところがどのような状況であれ、神はどのようなときにも信じられるよう励ましてくださる方です。その神を信頼して、見ずして信じる信仰を以て歩んでいきましょう。そして、神の福音を伝える者になっていきましょう。