ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2016年7月10日
ペテロの裏切り
(新約聖書 マルコの福音書 14:43〜72)
旧約の預言が成就するため

『そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。
そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。』(新約聖書 マルコの福音書 14:43〜49)


   ユダは、周到な準備をして、イエス様を律法学者達に引き渡しました。このようにイエス・キリストを売ることができたのは、ユダは初めから仲間ではなかった、つまり、救われていたわけではなかったからです。
   ご自分を捕えに来た者達に対して、イエス様は、これは旧約聖書の預言が実現するためだと言われました。イエス様は、神の計画に基づいて、この地上に来られました。旧約聖書には、いくつもの救い主に関する預言があります。

『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(旧約聖書 創世記 3:15)

『彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』(旧約聖書 イザヤ書 53:2〜5)


   アダムとエバが罪を犯した直後、神様は、「彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」という表現によって、救い主が悪魔を滅ぼすことと、十字架にかかることを預言しておられます。そして、のちの時代には、さらに詳しい預言が語られていきます。イザヤ書によると、救い主は、称賛されるような姿ではなく、むしろ、人々からさげすまれる存在として、この世に来られると語られました。救い主が負ってくださる私達の病とは、罪のことです。罪は、死によってもたらされた病気であり、救い主によっていやされるものなのです。
   これらの預言通り、イエス様が十字架にかかる意味を、当時の人々は誰も理解していませんでした。しかし、キリストの打ち傷によって罪は赦され、私達は解放されます。イエス様の十字架は、一見ただ残酷な出来事に思えるかもしれません。しかし、それは私達への愛のあかしです。神に愛されていることがわからず、安心を求めてこの世のものにしがみついて苦しむ私達に、イエス様は十字架にかかり、私はこれほどまでにあなたを愛していると訴えかけ、癒してくれる愛のあかしなのです。
   イエス様は、ユダが裏切ったその時、これらの旧約聖書の預言が実現するためだと言われたのです。

神とあなたの距離

『すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。』(新約聖書 マルコの福音書 14:50〜52)


   イエス様がとらえられると、すべての弟子がイエス様を見捨てて逃げてしまいました。はだかで逃げ出した青年とは、この福音書を書いたマルコ自身ではないかと言われています。
   この逃げ出した弟子達の姿こそ、私達自身の姿です。あなたは、迫害されたり、都合が悪くなったりすると、怖くなって逃げ出してしまわないでしょうか。弟子の弱さは、自分自身の中にある弱さであることに気づけば幸いです。
   さて、この時、ひとりだけ戻ってきて、イエス様についていった弟子がいました。それがペテロです。

『彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。』(新約聖書 マルコの福音書 14:53〜54)

   ペテロは、戻っては来たものの、一定の距離を保って、イエス様についていきました。ぺテロは、これまでもイエス様に愛されようとして、一生懸命イエス様に近づこうとしていたように見えますが、実は、心の中ではいつも一定の距離を保っていました。神を愛すると言いながら、常に一定の距離を保とうとしているペテロを見抜いておられたイエス様は、ある時、「おまえは神のことを思わないで、人のことを思っている」と指摘なさいました。
   あなたの信仰はどうでしょうか。ペテロと同様、何かあった時いつでも逃げられるように、神様と一定の距離を保ってはいないでしょうか。聖書は、教会はキリストの体であると教えます。もし、あなたが教会と一定の距離を保とうとするなら、信仰は成長しません。
   私達が、教会との関わりにおいても、人との関わりにおいても、距離を置こうとしてしまうのは、近づいたら拒否されるかもしれないという不安があるからです。神に愛されていることが見えなくなった私達は、自分は愛されていないという不安を持ち、受け入れてもらえないのではないかという恐れにさいなまれているのです。しかし、そうした思いで神に近づこうとしても、結局近づくことはできないのです。

結論をすでに決めていた

『さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。 14:57すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる。』と言うのを聞きました。」 しかし、この点でも証言は一致しなかった。 』(新約聖書 マルコの福音書 14:55〜59)

   この裁判は、初めに結論ありきで進んでいます。イエス様を殺すという結論に向かって、理由をつけるための裁判です。このやり方もまた、今の私達の生き方のパターンになっています。私達は人の話を聞いているように見せながら、実は自分の中にすでに結論を持っており、どんな話を聞いても、その結論に合うようにしか理解しないというかたくなさを持っています。
   私達は、どんな話を聞いても、自分のセルフイメージに合う情報しか選択しないように生きています。そして、すべての人は、例外なく、神の愛が見えなくなったせいで、自分は愛されないダメな者だというセルフイメージを持っています。その結果、たとえ良い情報を得ても、「まさか」「そんなはずはない」と思い込み、自分はダメだと理解できると「やっぱりね」と納得し、自らをさばくことを無意識に繰り返しています。また、初めに結論ありきという生き方は、子育てや人間関係にも影響を与えます。「この子は○○な子だ」という結論を持っていたり、「この人は○○だ」という先入観を持つことで、それに合う情報ばかりを集めて、納得してしまうのです。
   しかし、神様が私達一人一人を、神の子として高価で尊いと思っていらっしゃいます。イエス・キリストが十字架にかかられたのは、あなたが自分に抱いている間違った価値観を覆すためです。あなたのために十字架にかかり、あなたのためならいのちを惜しまないことを証明して、それほどあなたは素晴らしい存在だと、いのちをかけて訴えておられるのです。このことに気づくなら、自分ばかりでなく、他の人に対しても神に愛されている素晴らしい存在だと理解できるようになります。すると、自分に対しても、まわりの人に対しても、「良いもの」という情報で接するようになるのです。これが、家庭教育の基本であり、人間関係の基本です。
   自分は、ダメなものではなく素晴らしい存在だということがわかれば、その情報を集めて自分に食べさせるようになります。ところが、残念なことに、あなたが良きものだという情報は、聖書にしかありません。この世があなたに提供する情報は、偽物の情報ばかりです。神が見えなくなった世界では、行いでしか人を評価しませんから、この世はあなたに平安を与えることはできません。しかし、聖書の言葉は、あなたは素晴らしいという前提に基づいて語りかけます。御言葉を食べることによって、セルフイメージを変えることができ、自分が大切だと分かれば人も大切にできるようになります。

『そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」 14:62そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。』(新約聖書 マルコの福音書 14:60〜65)

   イエス様が、何もお答えにならなかったのは、答えたところで、彼らが結論を変える気はなく、話は平行線となって何も収穫はないとわかっていたからです。人間関係においても、初めに結論ありきで話し合っても、互いに平行線となり裁き合うだけです。そこを壊さなければ、成長しません。この時、イエス様は、あえて何も話さないほうをお選びになりました。しかし、「あなたはキリストか」と問われると、「私こそ、救い主であり、神である。」とお答えになったのです。この答えによって、大祭司はついにイエス様を死刑にすることができ、人々はイエス様を冒涜し始めました。イエス様が語った真実を、誰も信じようとしませんでした。

ペテロが自分の弱さを語る理由

『ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。』(新約聖書 マルコの福音書 14:66〜72)

   ペテロは、イエス様が言われた通り、3度、イエスなど知らないと非常に強く否定しました。この時、他の弟子はすべて逃げ去ってしまい、この状況はペテロしか知りません。ペテロが告白しなければ誰も知らなかった話が、福音書に記され、今日広く知れ渡っているのはなぜでしょうか。
   通常私達は自分の失敗や恥は人に知られたくないと思うものです。「たとえ死ななければならないとしても私はあなたについていく」と大見得を切ったペテロがこのことを隠すことなく、赤裸々に語り、全世界の人が知ることになったのは、この出来事が彼の人生を大きく変える重要な意味を持っていたからです。ペテロは、この出来事を通して、自分の弱さを知ることがいかに幸いであるかを知ったのです。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9)

   自分が弱いと知った時こそ、神の恵みは働くのです。自分の強さを知った時ではありません。その時までペテロは、神と自分の関係は、王様としもべの関係だと思っていました。
   私達は、小さい頃から親に応えることでほめられ、学校でも会社でも成果を出すことで評価を得る成果主義の中で生きています。そのため、神との関係も同じように築くものだと思ってしまうものです。しかし、神と人との関係は医者と病人の関係であり、イエス様ご自身は、いのちを投げ捨て、共に生きる友の関係だと言われました。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)

   ただ重荷を持っていけば休ませてもらえる……これが神と私達の関係です。私達が患難にぶつかった時、聖書の知識も神学も何の役にも立ちません。必要なものはただ一つ、「神様助けて下さい」という言葉だけです。それが神様と私達の真の関係です。
   あなたの口からその言葉が出た時こそ、神の恵みを知る素晴らしい時となります。神様があなたの重荷を負い、あなたを休ませてくれる体験をした人は、真の強さを得ます。自分の力でなんとかしようとしたり、頑張ることで認められようとしたりすることをやめ、そんなものは神との関係には何の役にも立たないことを知るなら、人は本当の強さを知るのです。
   ペテロは、この時、本当の神との関係に気づき、自分の弱さこそ誇るべきものだと気づいたのです。主を裏切るというひどい出来事を通して、神がどれほど自分を愛しておられるかを知ることになったのです。

『しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。』(新約聖書 ルカの福音書 22:60〜62)

   イエス様が振り向いて自分を見つめているとわかったのは、ペテロがイエス様を見ていたからです。ペテロは、イエス様を知らないと言えば言うほど、罪責感とみじめさにどうすることもできなくなり、助けを求めて無意識に主を見上げていたのです。
   この時、わざわざ振り返ってペテロを見つめたイエス様の目は、何を語っていたのでしょうか。それは、愛です。「私はこんなにも罪深い者であるのに、それでも主は私を愛している」、そのことを知ったペテロは、激しく泣いたのです。この時ペテロの人生は、180度変わりました。
   自分の成果によって神に愛されようとする人は、自分の罪を隠したがります。しかし、本当にどうすることもできないほど罪深いことに気づいたら、神にあわれみを求めて叫ぶしかありません。この時初めて、「私はあなたを愛している」という十字架の愛に気づくのです。それがあなたの人生を変えるのです。
   それを体験するには、患難試練に出会い、自分の弱さ、罪深さに気づいた時がチャンスです。自分にはもうどうすることもできない、神に「助けてください」と叫ぶしかないその時、主がペテロを見つめられたように、神があなたを愛と赦しをもって見つめておられることに気づきます。この時、十字架の愛がわかるようになり、そうすると、あなたのセルフイメージが変えられ、神の中に安心安全を求める生き方に変えられるのです。
   キリスト教の根幹をなすものは、素晴らしい教えではありません。生きた神に愛されているという体験です。それこそが、あなたを変えるものです。すべての方が、このような経験をすることができれば幸いです。