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2016年6月5日
神は心をご覧になる
(新約聖書 マルコの福音書 12:35〜44)
救い主が与えるものとは

『イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。』(新約聖書 マルコの福音書 12:35〜37)


   律法学者たちは、イエス様を陥れようとして、さまざまな質問をしてきましたが、そのどれにもイエス様はみごとにお答えになりました。そこでイエス様は、「あなたがたは、キリストを『ダビデの子』と呼ぶが、ダビデ自身がキリストを私の主と呼んでいるのは、どういうことか」と、律法学者達に逆に質問をなさいました。
   「『主』は私の『主』に言われた」とは、詩篇からの引用で、日本語だとわかりにくいのですが、前半の『主』は「神聖4文字」すなわち、神ご自身の名が記されています。後半の『主』は、文字通りの主で、神に対して使う肩書きです。つまり、ダビデはキリストを「私の主」と呼んだのです。
   この当時、「キリスト」という言葉は、一般的な「救い主」を表す言葉だと理解されていました。イスラエルの人々は、聖書に約束された救い主を待ち望んでいましたが、それは、イスラエルをローマから救い出し、かつてのダビデの時代の栄華を取り戻してくれる方だと期待してのことでした。当時のイスラエルは、ダビデの時代の繁栄に遠く及ばず、国は崩壊し、民族はバラバラになって滅ぼされ、ユダヤ人しか残っていないうえ、そのユダヤ人もローマの支配下にありました。人々はキリストを「ダビデの子」と呼ぶことで、ダビデの栄光のイメージを重ね合わせていたわけです。
   しかし、ダビデはキリストを「わたしの主」と呼びました。イエス様がこのことを確認したのは、キリストは律法学者が考えるような見える地上の国を復興するためではなく、それ以上の見えない神の国を実現するためにこられるのだということを教えるためです。
   マルコの福音書は、「神の国が到来した」「キリストは神の国を実現するために来た」という話から始まっています。神の国とは、神と私達が共に暮らせる場所です。それは、見える世界ではなく、見えない世界であり、死の影響が一切ない、永遠に生きる場所です。その神の国を、私達の内に実現させるためにキリストは来られたのです。ダビデはそのことを知っていたために、私の主と呼んだのだとイエス様は言っておられるのです。神様が私達に与えたいものは、見えるところの豊かさではありません。神があなたと共に生きているという心の豊かさです。

律法学者とは誰のことか

『イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 12:38〜40)

   律法学者は、イエス様の質問に何も答えることができませんでした。すると、イエス様は律法学者に気をつけるように、と言われました。
   今、私達のまわりに律法学者と呼ばれる人はいません。もし、聖書の言葉を字義通りにしか解釈しないなら、この御言葉は現代の私達とは関係のない教えです。しかし、聖書を神の言葉として食べるとは、そういうことではありません。それでは聖書の言葉を知識として知っただけです。この言葉が今日の私達にとって何を意味するのか、律法学者とは誰を意味するのかがわかる時、私達は聖書を神の言葉として食べる事ができたということになるのです。
   律法学者の特徴の第一は、人から良く思われることが大好きだということです。そのために、立派な服装をして、人々からあいさつされたいと願っているのです。二番目の特徴は、人の上に立ちたい、特別でありたいという願望を持っているということです。三番目の特徴は、お金を得たいと願っているということです。「やもめの家を食いつぶす」とは、亡くなった方のために、長く立派に祈って見せて、未亡人からお金を得ようとしているということです。これらが律法学者の願望です。さらに、これ以前の彼らの行動を読み取ると、人を批判し、人を裁くという特徴があります。
   さて、今日この特徴を兼ね備えている人はいったい誰でしょうか。律法学者とは、誰を指しているのでしょうか。それは、自分自身だと気づく人は幸いです。私達の生き方こそ、律法学者なのです。このように、聖書を他人事としてではなく、自分自身のこととして読むことができれば、神の言葉が生きて働きます。ここで、イエス様は、あなたの中にある肉の思いに注意しなさい、戦いなさいと語っておられるのです。
   肉の思いと戦うためには、その原因を知る必要があります。それは、死の恐怖です。死の恐怖というと、まず肉体の死を思い浮かべるものですが、実は、人にとって最大の恐怖は、肉体の死ではありません。肉体の死よりも、恥をかくことを嫌うのが武士道です。日本に限らず、世界中に、自らの義のために死を選ぶ人々が存在してきました。実は、人にとって最も恐ろしいのは、神の愛が見えないこと、愛されている自分がわからないことです。聖書が教える死とは、神と切り離された状態のことです。自分が神に愛されている素晴らしい者であることが見えないことが、死の恐怖のベースなのです。私達は、自分の中にあるこの潜在的な恐れから逃れようとして、愛されることや、人の上に立つこと、お金にしがみつくことなどを求めているのです。
   死の恐怖に対抗し、恐れを締め出すことができるのは、イエス・キリストの十字架の愛しかありません。イエス・キリストの十字架は、神の愛を失った恐れの中にいる私達に、あなたがどんな罪人であっても愛していると示します。また、三日後に復活したことを通して、肉体の死の恐れも取り除かれます。十字架によって、こんなにも神に愛されていると知ることで、私達は肉の思いと戦うことができるのです。

1コドラントのささげもの

『それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」 』(新約聖書 マルコの福音書 12:41〜44)

   1コドラントとは、今のお金で100円くらいをイメージすればよいでしょう。多くの金持ちが大金を捧げる中、イエス様は、1コドラントを捧げた貧しいやもめこそ、この中でもっともたくさんの捧げ物をしたと言われました。
   聖書は、旧約時代から一貫して、神に献金することを教えています。その目的は、心を神に向けさせるところにあります。私達の日常のつらさの原因は、心が神に向かないために、平安が得られず、死の恐怖に苦しめられていることです。この問題の解決は、神に愛されていることを知ること、すなわち、キリストの十字架に目を向け、神を信頼できるようになることしかありません。
   そこで神は、献金という制度を打ち立てました。イエス様ご自身が、「あなたのお金のあるところに、あなたの心もある。」と言っておられます。お金のあるところに心が移っていくのですから、神にお金をささげれば、神に心を移すことができるようになるというわけです。そのために、収入の十分の一は神のものとしてささげるように、聖書は教えています。それは、ささげることによって、生活の資金が減り、それによって、「神様になんとかしてもらわなければ」「言われた通り献金して従ったんですから、神様、なんとかしてくださいよ」と、心が神に向くようになるからです。
   神様がこのような制度をお作りになったのは、あなたの心が神に向かないからです。私達には、見えるものに心が向いてしまうという弱さがあり、それなのに、見えるものでは決して幸せにはなれないという現実があります。そこで、神を信頼する訓練として、献金があるのです。
   ですからイエス様は、この女性が一番多く捧げたと言われたのです。神様にとって重要なことは、いくら捧げたかではなく、心を神に向けられたかどうか、どれだけ神を信頼できたかということなのです。これが抜け落ちると、いつのまにか献金が律法になって、何の意味もなさなくなってしまいます。

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3)

   何をしたかではなく、そこに愛があるかどうかが大切なのです。イエス様は、このやもめに愛があることをご覧になりました。神への捧げ物で重要なのは、どれだけ神を愛する心を持っているか、どれほど神と関わりを持っているかということです。神様への愛がなければ、何をしても意味がありません。私達は、愛といえば行いを想像しがちですが、聖書が教えている愛は行いではないからです。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)

   聖書が教える愛とは、心の向きのことです。それは、すべて神に対する態度であり、神を信頼することです。なぜなら、神を信頼する心があれば、満たされ、すべてのことに寛容になれ、親切になれ、ねたむこともありません。神を信頼する心がなければ、自分の心を満たすために、人からの見返りを求めなければなりません。親切であっても、そこに見返りを求める心があるならば、それは愛ではありません。神への信頼、感謝から生まれる平安が、人への愛となり、人に対して見返りを求めなくなるのです。どんなに親切であっても、立派な行いをしても、結局自分がほめられるためにやっているなら、意味がありません。

どうやったら神を愛する心が育つのか

『そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」』(新約聖書 ルカの福音書 7:44〜47)

   イエス様が、あるパリサイ人の家で食事をしていたとき、ひとりの女性がイエス様のもとにやってきて、イエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗りました。それを見ていたパリサイ人は、「イエス様は、この女がどんなに罪深い者かわからないのだろうか」と、心の中でさばきました。そこでイエス様は、この女性は多くの罪が赦されたから、このような行いができるのだ、少ししか赦された経験がない者にはできないことだとお教えになりました。人は、罪が赦される経験を通して、神を愛し、信頼することができるようになります。
   あなたは、神に罪を赦していただこうとしているでしょうか。イエス様は、あなたの重荷を持ってくるなら、それを降ろさせて休ませてあげると言われました。それはちょうど、医者に病気を治してもらうことにたとえられます。罪は病気と同じです。病気のまま暮らしていても、何も起こりませんが、医者にいやしを求めることでいやされるように、神様の前に罪を差し出せば赦されます。そうすると、私達には自然と神への感謝が生まれます。この女性は、多くの罪が赦されるという経験をしたから、イエス様を愛してやまなかったのです。罪が赦される経験こそ、重要な鍵となります。
   神様は誰に対してもオープンで、「この恵みの水を飲みなさい。そうすればあなたの罪は赦される。死から贖い出されて神の国に入れる。」と、すべての人に語りかけておられます。ところが、私達はそれを飲まず、拒んでしまうのです。「馬を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない。」という英語のことわざがあります。そこで神様は、水を与えても飲まない私達が水を飲みたくなるように、律法をお与えになりました。それがモーセの十戒です。律法に照らし合わせるなら私達は、永遠の死に至るしかない危険な状態だとわかります。こうして神様は、私達が自分の罪に気づき、自ら進んで水を飲めるように、助け、導いておられるのです。この水を飲めば、神様が重荷を取って休ませてくださいます。これを体験できると、人は感謝にあふれて、変わることができるのです。
   聖書は、ひとりの人が悔い改めるなら、天で喜びがわき起こると教えています。どんな人でも、心を神に向けるなら、その罪は赦されます。ですから、罪を抱え込むのはやめ、神の前に差し出しなさいと主は言われるのです。それがキリスト教の福音の根幹をなす教えです。
   罪が赦される経験が、私達の人生を変えます。神様は、何あっても赦すから、私のもとに来なさいと呼んでおられます。その言葉に応答し、神の前に自分の罪を告白するとき、私達の人生は大きく変わります。神に感謝し、愛するようになります。これが、神が私達に求めておられることです。もし神への感謝がなく、ただ義務的に神と関わって、クリスチャンをしているなら、その人はまだ、多くの罪が赦された経験をしていません。どれだけ神に愛されているか知りたければ、自分で重荷を抱え込むのはやめて、神のもとに差し出して、告白してみましょう。私があなたを休ませてあげるからと、神様は言われます。
   神様が私達に求めておられるのは、神を愛する心です。何か立派なことができることではありません。ただ神に感謝する人になってもらいたい、それはあなたの罪が赦されることでそうなるのです。