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2016年5月29日
神の国はいつ来る?
(新約聖書 マルコの福音書 12:13〜34)
神のものは神に返す

『さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。』(新約聖書 マルコの福音書 12:13〜17)

   パリサイ人達は、イエス様を陥れるために、「カイザルに税金を納めることは神の律法にかなっているか」と質問しました。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されており、ローマに税金を納めなくてはなりませんでした。しかし、神の民としてはいかがなものかという質問です。
   もしここで、イエス様が、ローマに税金を納めることは正しいと言えば、ユダヤ人から反感を買います。本来イスラエルは独立した国家なのだから、ローマに税金を納めるなんて神の道に反していると、人々は思っていたからです。しかし、ユダヤの地域には、ローマ人も大勢いましたから、ローマに税金を納めなくても良いと言えば、ローマ人の反感を買うことは必須です。つまりこの質問は、どちらに答えても、イエス様を窮地に陥れることができる罠だったのです。
   これに対してイエス様は、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と答えられました。人々は、なんと理にかなった答えかと、驚嘆したのです。
   神様は、クリスチャンはこの世界のルールに従って、納めるべきもの納めるように教えておられます。神に従えば、世の中のルールなど関係ないなどという極端な信仰に陥ってはなりません。
   そして、神のものは神に返すということで、聖書は、収入の10分の1を神に捧げるように教えています。このことには、霊的に重要な意味が含まれています。

   私達が神からいただいたものの一つが信仰です。信仰を神に返すとは、神からいただいた信仰を使って、神を信頼することです。信仰とは、神がおられることやイエスが救い主であることを信じて永遠のいのちを得るだけのものではなく、聖書の言葉を信じ、神を信頼することで平安を得ることができるものです。
   信仰を神に返すとは、神を信頼することを目指すことです。これが、私達が神にささげるいけにえです。私達の捧げ物の中で、神が最も喜ばれるものは、神を信頼する信仰なのです。ただ信じるだけでなく、聖書に書いてある約束を信じて神に祈ること、それが、私達が出来る神のものは神に返すということです。

人は死後いつ復活するのか

『また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
   イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。』(新約聖書 マルコの福音書 12:18〜27)


   サドカイ人達は、復活はないと主張していました。彼らは、復活などバカバカしいことだと示すために、わざと答えられないような質問を投げかけて来たのです。
   聖書の中でモーセは、結婚している男性が子を残さずに死んだ場合、その弟が兄嫁を妻とし、彼女の面倒を見るように教えています。そこでサドカイ人は、7人の兄弟がいて、7人ともが子を残さずに死に、全員が一人の女性を妻として迎えていた場合、もし復活などしたら、いったいその女性は誰の妻として生きればいいのか、復活なんて考え方は馬鹿げていると言ってきたわけです。
   そこでイエス様は、天国では夫婦生活などないことを教え、さらに聖書は復活についてどのように語っているか教えるために、彼らが引き合いに出したモーセの書の言葉を引用なさいました。神がモーセに対して、「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と言ったのは、過去形ではなく現在形であり、アブラハム、イサク、ヤコブは、今生きているという意味があるとお教えになりました。
   人は死んで魂だけの状態になるのではなく、すぐに復活して神と共に生きるようになるのだと、イエス様は一貫して教えておられます。マルコの福音書9章には、復活したモーセとエリヤが現れています。イエス様は、よみがえりを信じることができなかった弟子達に、二人がすでに復活している姿をお見せになったのです。また、十字架上で、隣にいた死刑囚に「あなたは今日私と共にパラダイスにいます。」と語っておられます。私達は世の中が終わる時に復活するのではなく、死んだらすぐ復活するのです。イエス様は、アブラハムもイサクもヤコブもよみがえっているのだとお教えになり、十字架にかかって三日目によみがえられました。
   いつよみがえるのかを正しく理解することが重要なのには、理由があります。この世は、「死んだら魂だけで生きられる」とか「輪廻転生」とか言って、別の形で生き返ると考えたりもします。このことが、実は、キリスト教の福音の大きな妨げになっているのです。死んだ後、魂だけで生きられると考えると、べつに今信じなくても、死んだあとになんとかできるだろうと、淡い希望を抱いてしまいます。死んだら魂だけになるという霊魂不滅説の考え方は、当時から世界中にあった思想です。しかし、聖書はそのような考えを否定します。
   イエス・キリストは、死んだらすぐに復活して生きる前提で話をしておられ、魂だけの状態でいることはないのだと理解できます。つまり、私達は生きている間にイエス様を信じない限り、復活の希望はないのです。

神の国

『律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。』(新約聖書 マルコの福音書 12:28〜31)

   聖書は、神は唯一であると同時に、父なる神、御子なるキリスト、御霊なる神の3人の神がおられると教えています。人間の頭ではなかなか理解が難しい概念ですが、3人の神様は、思いを共有し、一つの意志を持ち、互いが絶対的な信頼関係で結ばれて、同時にそれぞれの役割を果たして協力し、一つのことをなさいます。
   人間は、この三位一体の神と同じ関わりが出来るものとして造られました。つまり、神と思いを共有し、互いに信頼し合い、神との関わりがなければ生きられないように造られているのです。ところが、悪魔によって神と異なる思いが吹き込まれ、思いを共有できなくなってしまいました。こうして神との結びつきを失った状態が死であると聖書は教えます。
   神との関わりを失って死んだ状態の私達が救われて、神との関わりを回復しましたが、それだけでは、神と一つの思いにはなれません。救われた者が神と一つ思いになれるように、神様は、それを邪魔する思いを取り除いてくださいます。これが、罪を取りのぞくということです。こうして私達は御心が何かを知ることができるようになっていきます。
   戒めの第一は、「唯一の神すなわち三位一体の神を心から愛しなさい」ということです。そして、第二の戒めは、「隣人を心から愛しなさい。」です。実は、この二つの教えの実体は同じです。聖書は、目に見える兄弟を愛せない者は目に見えない神を愛せないと語ります。人間は、神に似せて造られ、神の体の器官つまり神の一部であると教えられていますから、神を愛するとは、人を愛することになるのです。神のことは愛するが、人を愛せないということはありえません。
   この話を聞いた律法学者は、次のように答えました。

『そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。』(新約聖書 マルコの福音書 12:32〜34)

   「神の国」は、神と共に暮らす場所のことで、天国・パラダイスとも訳されます。イエス様はこの律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。遠くないとはどういうことでしょうか。どうしたら神の国に入れるのでしょうか。
   多くの人は、天国とは、死んだ後に行く世界のことだと考えていますが、実は、イエス様はそうは教えていません。イエス様の福音は、神の国の到来を伝えることから始まりました。

私達は今神の国に生きている

『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』(新約聖書 マルコの福音書 1:15)

   これが、イエス様の宣教の第一声です。実は、この中で、「近くなった」と訳されている言葉は、正確には「来た」と訳すべきです。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、実際にイエス様が話していたのは、当時のユダヤ人が日常的に使っていたアラム語です。この時イエス様が使ったアラム語は、「来た」と訳すべきです。つまり、イエス様は、「神が約束していた、神と共に生きる永遠のいのちの国は、私と共に来た」と宣言しておられるのです。では、どのようにしたら、その神の国に入れるのかというと、「悔い改めて福音を信じなさい」とあります。悔い改めるとは、どういうことでしょうか。日本語の「悔い改める」という言葉には、「反省・後悔」という意味が含まれますが、聖書で使われている「悔い改め」という言葉には、にはそのような意味はありません。

『ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:13,14)


   この取税人が祈った「神様、私を憐れんでください。助けてください。」という祈りこそが、悔い改めです。イエス様は、この取税人が救われる、つまり、この人のところに神の国は来る、と宣言なさいました。
   神に助けを請うだけで誰でも救われ、義とされます。その人の上に神の国は到来します。このことは、別の言い方をすると、「信仰が与えられる」と言い換えることができます。私達の中に信仰が与えられ、その働きによって、神の福音が信じられるようになるのです。そして、これを告白することによって、自分が救われたという確信を持つことができるようになります。
   ここで重要なことは、神に憐れみを請うだけで神の国はその人に来る、とイエス・キリストは教えているということです。神の国は、これから存在するのではありません。「神の国はあなたがたのただ中にある」とイエス様は言われました。信仰を頂いた私達の中に、すでに神の国は来ているのです。

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 17:20,21)

   神の国がすでに来ているということは、死んでいた私達の魂はすでに復活して、神と共に暮らしているということです。ただし、体はまだ神の国に行っていません。私達は、この体が朽ちる時、朽ちない体に着替えさせられて、体も神の国に行き、神の国を見ることができるようになります。だから、私達は、死ぬことがないのです。私達は今、神の国にあって生きる者とされました。私達の中に神の国が存在し、私達は神と共に生きています。
   「私は死んでいたのが生きる者になった。」・・・これが本当にわかると、私達はどんな困難の中にあっても、感謝できるようになります。
   イエス様は、「死人が神の声を聞く時が来る。神の声を聞いたら生きる者になる。」と言われました。私達は、キリストの十字架と共に死んで、死のバプテスマにあずかり、よみがえったのです。こうして私達は生きる者とされました。すでに魂は生きる者となっているので、この体が死んだら、すぐに新しい体になって復活するのです。復活はこれから実現するのではありません。私達はすでに復活しているのです。
   このことがわからないと、今は苦しくでもこれから幸せになるのだから忍耐だ、というような間違った信仰を持つことになってしまいます。そうではなく、私達は今神の国のただ中にあり、幸せのただ中にいるのです。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16)

   聖霊の神があなたの中に住んでいるとは、私達の中に神の国は存在しているということです。私達の目には見えませんが、信仰で見ることができます。信仰で、神の国で生きている自分を知ることができるのです。

『あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:56〜58)


   アブラハムは、神の国を目指し、永遠の契約の中でのカナンの地を夢見ていました。彼は実際にイエス様を見たことはありませんが、信仰でそれを見て、大いに喜んでいたのです。私達は信仰で神が共におられることを知ることができます。目で見ることはありませんが、信仰でイエス様が共におられることを知り、魂が生かされていることを知ることができます。
   これが「神のものは神に返しなさい。」すなわち、「あなたの信仰を使って神が共におられることに気づくように」ということです。イエス様は、放蕩息子のたとえの中で、神を信じて神のもとに帰る弟と、最初から神と共に生きる兄について語っておられます。兄は、神が共にいる恵みに気づかず、弟と比べ、自分は愛されていない不幸な人間だと悲しみました。この時、神様が彼に言ったのは、「私はいつもあなたと一緒にいるではないか」という言葉です。「おまえは神の国にいる。私のものはすべておまえのもの。なぜそれに気づかないのか。なぜおまえはすべてのものをもっているのに、つぶやくのか。」・・・同じことを、神は私達に語っておられます。なぜあなたは神の恵みに気づかないのか・・・神の恵みに気づくことが、私達に与えられた課題です。そのために信仰が与えられています。信仰を通して、私達は、死人から神と共に生きる者に変えられました。悔い改めて神に立ち返り、神の国の中にいる喜びに気づくならば、幸いです。