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2016年5月22日
全ては逆
(新約聖書 マルコの福音書 12:1〜12)
『それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。』(新約聖書 マルコの福音書 12:1〜12)

   このたとえ話は、神と私達との関係を表しています。ぶどう園を造り、農夫に任せて旅に出た人のように、神様はこの世界を造って人間にお任せになり、私達に神様は見えなくなりました。その後、地上に人が増えたので、神様は人々を救うために、しもべとして何度も預言者を遣わしましたが、その度に人々は預言者を拒否しました。そこで、ついに神様は、愛する息子イエス・キリストを遣わされました。神ご自身がこの地上に来られ、福音を語り、人々を救おうとなさったのですが、人々はその救い主すら殺してしまうというのです。その通り、パリサイ人達は、この後、イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいます。
   このたとえ話はたいへんわかりやすく、パリサイ人も自分達を指していることに気づきました。イエス様が、自分は神が遣わした救い主であり、それを拒否する者は神の国に入れないと語っていることに気づいたパリサイ人達は、腹を立て、イエス様を袋叩きにしようとしましたが、人々を恐れてそれをしなかったとあります。

なぜ人々は、神のしもべを拒否するのか

   なぜ人々は、神が遣わした預言者を拒否し続けたのでしょうか。その理由は、「自分とは考えが違う」からです。
   私達は、自分と同じ考えを持つ人と友達になり、否定する人には敵意を感じ、交わりたくないと考えるものです。預言者達とイエス・キリストは、彼らとはまったく異なる考え方を示し、あなたの価値観は本当に正しいのかと、問うておられます。パリサイ人達は、拒否し続けましたが、神様と人間の考えが異なるなら、私達の価値観は間違っていると言わざるを得ません。
   価値観とは、物事の良し悪しや優先順位を決める基準となるものです。私達はそれぞれ異なる価値観を持っているようでいて、実はすべての人に共通している価値観があります。それは、うわべで人の価値を判断するという点です。容貌、学歴、行い、地位、肩書、財産、能力など、これらが人のうわべであり、お互いの判断材料です。人によって、何を重視するかは異なりますが、人の良し悪しをうわべで判断していることに違いはありません。良い行いをするのは立派な人、悪いことをするのは罪人と考えることに、誰も疑問をはさみません。
   いつの時代も、預言者達が拒否されたのは、神の言葉がこのような価値観とは全く違っているからです。その結果、人々は神を拒んで殺してしまったのです。

イエス・キリストはこの地上で何を行なったか

1.罪人を愛する

   イエス様がこの地上で、真っ先に行なったのは、罪人を愛することです。人間は、罪を犯すような人間に価値を見出しません。ところがイエス様は、罪人を愛し、罪人と交わりました。パリサイ人達は、取税人や罪人や遊女と共に食事をするイエス様を見て、『正しい人なら、そんなことをするはずがない』と、イエス様を否定しました。
   人は、その人の行いを見て、良い人間か悪い人間かを判断しますが、神様は、行いではなく思いが問題だと教えます。いくら良い行いをしていても、心の中で怒ったり、「死ね」「バカ」などと思ったりしていれば、行いで罪を犯したのと同じだと言うのです。この世は、心で思うくらいなら罪ではないと教え、皆、自分はそこそこ良い人間だと自認していますが、神は、あなたは本当に善人なのかと問いかけているのです。
   なぜなら、イエス様がこの地上に来られたのは、罪を赦し、罪をいやすためだからです。もし、私達が罪人でなければ、イエス様とは何の関わりも持てません。自分には罪がないと思えば思うほど、神に敵対することになり、拒絶することになるのです。

2.低い者を高くする

   当時、子ども達は、身分が低く役に立たないものとされていました。イエス様は、その子ども達を呼び寄せ、子ども達こそ神の国にふさわしいものであると語り、人の上に立ちたい者は仕える者になりなさいと教えられました。イエス様は、低い者を高くし、高い者を低くされました。

3.価値のない者を価値ある者とする

   イエス様は、エルサレムに入城する際、まだ誰も乗ったことのない子どものロバを連れてくるように言われました。本来、王の帰還には、豪華な馬車や馬が使われてしかるべきです。ところがイエス様は、馬よりも価値がないと見られるロバの中でも、さらに価値がないと思われている子ロバを用いられたのです。それは、この世界で最も価値がないと思われる人こそ神にとって重要であり、主はその人と共に入城すると示しておられるのです。
   この世の中は、人をうわべで判断するため、能力のない人に価値を見出しません。しかし、イエス・キリストの人生は、この世の価値観と全く逆です。王の王であり、救い主であり、造り主であるにも関わらず、人々があこがれる姿ではなく、馬小屋で生まれ、大工の子として育ちました。そして、人々が価値を認めなかった者を価値ある者と言い、人々が価値を認めた者を否定したのです。あなたは、自分は価値がないダメな者だと思っていないでしょうか。そんなあなたを神様は、価値ある者と言われます。逆に、自分こそ価値ある存在だと誇る者を、神はそこに価値はないと言われるのです。

4.貧しい者を富む者とする

   富む人は、心までも豊かだとは限りません。ある時、金持ちの青年が、「私は聖書の教えをすべて守っていますが、神の国に入るために、他に何か足りないことはありますか。」とイエス様に質問しました。そこでイエス様が、「あなたの持ち物すべてを貧しい人に施しなさい。」と答えると、その青年は多くの財産を持っていたため、悲しんで去って行きました。この時ペテロは、「私は神のためにすべてを捨てた。」と喜んでイエス様に報告しています。ペテロは、そもそも物を持っていませんから、捨てるのも簡単です。彼は何も持っていないことで、富む者となったのです。反対に、富む者は、神様を信頼してついていくことができずに、心貧しき者になってしまいました。この時イエス様は、「金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」と言われました。物質的に豊かなことが、心の豊かさを生み出すわけではありません。富に目を奪われ、心が神に向かないからです。

5.見えないものを見えるものとする

   ある時、盲人がイエス様に「私をあわれんでください。」と、大声をあげ続けました。うるさがる弟子達にイエス様は、「彼を私のところに連れてきなさい。」と言い、盲人に「何がしてほしいのか。」と尋ねました。彼は見えるようになることを求め、イエス様はその通り、彼の目を見えるようにしてくださいました。
   多くのものが見える人は、見えることが幸せだと思い、神を必要だとは思いません。しかし、聖書は、人は皆死んだ状態だと教えています。永遠のいのちを持たない人は、この地上でのいのちが終わればおしまいです。つまり、生きているようで、死が確定しているのです。死人がどんなに立派なことをしようとも、何の役にも立ちません。海で遭難した人が必死に板にしがみつくように、私達はこの世界の見えるものにしがみついています。しかし、体力が尽きたらおしまいです。助かる道はただ一つ、誰かが助けに来てくれるしかありません。もし、誰かが助けに来たら、ただ夢中で「助けて!」と叫ぶことでしょう。盲人はただ必死に叫びました。目の見えない彼は、神に認めてもらえるような立派な行いをしようとは初めから考えず、ただ神に助けを求めるしかなかったのです。それで良いのです。私達はこのように、ただ憐れみを求めて、神様にすがればよいのです。
   こうして目が見えなかった人は正しい神の姿が見えて、目が見えるようになりました。ところが、見えていると思っていたパリサイ人たちは、イエス様を殺してしまうのです。パリサイ人は、神の前に立派な行いをすれば救ってもらえると考えていたため、ただ信じれば救われると教えるイエス様に猛烈に反対しました。もし、あなたが「神に愛されるため、救われるために、これだけのことをしよう」と考えているならば、パリサイ人と同じで何も見えていません。

神の価値観は人の価値観とは真逆

   このように人の価値観と逆のことを語ったために、イエス様は人々から拒否されました。しかし、このことは、イエス様がこの地上に生まれる前から、マリヤによって語られていました。

『主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。』(新約聖書 ルカの福音書 1:51〜53)

   これが神の姿です。神様は、初めから人とは真逆なのです。ということは、私達が持っている価値観は、初めから間違っていることになります。これは、非常に重要な点です。なぜなら、クリスチャンになっても、人の価値観で御言葉を理解しようとし続けるなら、決して理解することはできないからです。自分の価値観が間違っていることを認め、神の価値観を求めなければ、御言葉は理解できません。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)

   間違った価値観に支配されていては、真実が見えません。神様は、何度もこのことを教えようとなさいましたが、人々は拒否しました。私達は、自分とは違う神の価値観を拒否するのではなく、自分の間違いを認めなければなりません。イエス様は、ぶどう園の農夫のたとえを通して、「価値観を変えなさい。真実が見えていないことに気づきなさい。」と語っておられるのです。そうして、神の平安を受け取ってほしいと願っておられるのです。
   イエス・キリストを信じれば、必ず天国に行くことができます。しかし、それだけで満足するのではなく、平安を手にするために、自分の価値観に疑いを持ってほしいのです。神が私達に望んでおられることは、価値観を変え、御言葉を正しく受け入れ、平安を得てほしいということです。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16〜17)

   この世の価値観で神を知ろうとすることをやめ、神の価値観で生きるようになると、まったく別の自分が見えてきます。あなたを苦しめるものは偽りであり、真実がわかるようになって、すべてが変わるのです。

間違った価値観を変える

   私達は、この世の間違った価値観に苦しめられていますが、その最大の問題は、自分をダメだと思っていることです。すべての人は、自分はダメな者であり、愛されることはないと思っています。なぜなら、うわべで人を判断するなら、完全な人などいません。人と比べれば、必ず何らかの点でダメな点が見つかります。イエス様ですら、この地上ではダメな者だと言われました。自分はダメだという思いは、どうすれば人に愛されるかという生き方を引き出します。そして、自分は愛される価値がないからと、自分を捨て、別の人間を目指して生きるようになるのです。これが私達の苦しみを生み出しています。
   しかし、聖書は、あなたは神の子であり、神に似せて造られた良きものである、素晴らしい者であると繰り返し教えています。あなたが自分でどう思うかは問題ではなく、神の目にはあなたは高価で尊いことを教えるために、イエス様はロバを用い、子どもを愛し、罪人を愛し、うわべには価値がないものを愛して用いられたのです。
   あなたが人と違うのは、ダメなことではなく、体に様々な器官があるように、それぞれ違う目的で造られているからです。「あなたはあなたのままで生きなさい。誰かになろうとしてはいけない。」と主は語っておられます。自分は愛されないと思うことが、間違った価値観です。神の価値観で見るなら、自分がすばらしいものだと分かります。
   もう一つ、この世の価値観は、試練に対して間違った理解をしています。私達は、何か問題にぶつかると、必ず、罰が当たったとか、普段の行いが悪いからとか、自業自得といった言い方をして、あなたに悪い点があったから神が罰を与えたのであり、苦しむのは当たり前だと思わせようとします。しかし、決してそのようなことはありません。
   神は罪に対して罰など与えないと、イエス様ははっきり言っておられます。イエス様は、罰を与えるために来たのではなく、むしろ私達が受けるべき死を十字架で受けて、私達の借金を払い、私達を助け、いやすために来られたのです。神が私達を罰して試練を与えるなどという考え方は、この世の価値観から来るものであり、間違った考え方です。私達が問題にぶつかるのは、それぞれ原因があって、むしろ神はそれを神の栄光に変えると言っておられます。だから、試練や患難に出会ったら喜び感謝せよと教えられているのです。自分自身の患難やつらさを神の罰などとは考えず、神はこれを栄光に変えることができるのだと考えましょう。これが、私達が持つべき信仰です。これを正しく理解しなければ、いつまでも間違った価値観で間違った結論を出してしまいます。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   神は、すべてを栄光に変え、どんなことでも益とする約束しておられます。それが私達の神です。試練は罰ではありません。まちがった価値観で間違って御言葉を捕えることのないようにしましょう。私達が価値観を変えるなら、すべてが新しくなります。自分はダメな者ではなく愛されている、患難にぶつかったら神が栄光にかえてくださる、罪すらも神との接点にしていやしてくださり、失敗もすべて栄光に変えてくださる、それが神です。
   神は何があってもあなたを愛し、すべてを神の平安に結びつけてくださいます。どうか間違った価値観で、神を拒否することなく、イエス・キリストを信じたのであれば、ますます価値観を変えて、神の御心は何かわきまえ知ることを目指しましょう。私達が信じて来たところと、真実とは、実は違うということに気づきましょう。自分が宝だと思っていたところに、実は宝などなかったと気づくことができれば幸いです。