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2016年4月24日
盲人の物乞い
(新約聖書 マルコの福音書 10:46〜52)
『彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。 』(新約聖書 マルコの福音書 10:46〜52)


私達は皆盲人である

   皆さんは、目が見えなくて物乞いをするしかない人を見たらどう思うでしょうか。気の毒だと思うでしょうか。しかし、実は、この目の見えない物乞いは、私達自身の姿を表しているのです。
   私達は見えているようで、実は何も見えていないと、聖書は言っています。なぜなら、私達は自分自身が何者なのかも、わかっていないからです。鏡を見て、今ある自分を認識することはできても、自分がどこから来て、今どこにいて、どこへ行くのか、そんな基本すらわかっていません。これが分からなければ、自分を分かっているとは言えないのです。
   この世は、合理主義というものの考え方をします。それは、自分の目で見て確認できる事柄がすべてであり、それ以外は信じないという考え方です。だから、なかなか神を信じることもできません。人類の誕生について、少し前までは、進化論が定説のように言われていました。しかし、その後、宇宙科学の分野の研究が進み、宇宙はビッグバンによって始まり、今も大きく成長し続けているということが明らかになってきました。このことをさかのぼって考えると、宇宙は限りなく小さくなり、初めは無だったことになります。これによって、進化論では人類の誕生が説明できなくなり、再び様々な説が議論されるようになりました。しかし、今のところ結論は出ていません。人とは何者で、どのように生まれ、何のために存在しているのか、私たちが住む宇宙や地球はどこに存在しているのか、今、私達が認識できる感覚で議論しても、まったくわからないのです。
   それなのに私達は、自分が何者なのか知っているという前提で生きています。このことを聖書は、目がありながら見ていない、耳がありながら聞いていない、つまり私達は、何も見えていない盲人と同じだと言っているのです。自分の感覚と経験で自分を捕えようとしてもできません。私達は自分の五感による経験の中に閉じ込められていて、五感の外が見えないために、自分を造った方が見えず、結局自分自身が見えていません。このように、何も見えていないことを、聖書は死の世界と言っています。
   さらに、この盲人は物乞いでした。物乞いとは、自分ではどうすることもできず、人に助けを請うて生きる存在です。私達は皆、自分ではどうすることもできない死という問題を抱え、神に助けを請うしかない存在です。どんなに頑張っても、人間には死を解決することはできません。
   つまり、この盲人は、あなたの姿を現しています。この話の主役は、あなた自身なのです。
   神は求める者に対して、必ず答え、助けてくださいます。ですから、自分が、目の見えない物乞いだと気づくことは幸いです。イエス様は、山上の垂訓の中でも、「貧しい者は幸いである」と語っておられます。この世で、貧しい者、差別されている人達等、自分の弱さによって助けを請わなければならない人は、神に助けを求め、答えを得ることができるから幸いなのです。反対に、自分は大丈夫、できると、満足している人は、自分のこともわからないまま何も知らず、求めることもないのですから、それは災いなのだと聖書は教えます。

盲人と神の関わり

   盲人バルテマイは、イエス・キリストの福音を聞きました。そして、主が近くにおられると聞いて、叫び始めました。ここに神と私達との関係が描かれています。神との関係を築くとは、私達が神に助けを求めることから始まります。神は私達の心に良心を備え、呼びかけておられます。あなたはこれからどうなるのか、幸せなのか、死んだらどうなるのか・・・。常日頃、私達は、こんな結論が出ないような恐ろしい考えからは目をそらし、今を楽しんで生きることに目を向けて生きようとします。しかし、心の中では神に叫び続けているのです。このことを認めて、あなたの意志で神の呼びかけにきちんと答えるなら、神は私達を憐れんで救い出してくださいます。私達は皆、自分が何者か分からず、助けを必要とする存在です。この盲人のように、イエス様に助けを請う時、神との関係が始まります。
   しかし、神に助けを求めても、すぐに返事が聞けるわけではありません。盲人のまわりの人々は、彼を黙らせようとしました。私達も、まわりから、神を信じても意味はない、そんなことは弱い人間のすることだと言われたことはないでしょうか。あるいは、神を求めても、何の変化も起こらず、むしろ困難な状況に陥ることもあります。このような時、まわりの声に耳を傾けたり、状況が変わらないことにがっかりしたりして、神を求めることをやめるなら、神との関わりはそこで終わってしまいます。神がすぐに答えてくださらないのは、私達の信仰を試しておられるからです。神が私達に求めているものはただ一つ、心から神を信頼する信仰です。すぐに変化が起こらないことによって、叫び続け、ますます神を求めるようになることが大切なのです。その結果、神を信頼する信仰が育ちます。めげないで、求め続けてほしいと、神は言っておられるのです。
   神様は、必ず祈りに答えてくださいます。イエス・キリストは、盲人を呼び寄せられました。あなたがあきらめずに神に叫び続けるなら、神は必ず答えて、あなたの心に平安を与えてくださいます。神様は必ず答えてくださいますから、絶対にあきらめてはいけません。

   さて、イエス様に呼ばれた盲人は、すぐに立ち上がってイエス様のところに行きました。彼は自分の足で立ち上がり、自分の力でイエス様のもとに行ったのです。誰かが手を差し伸べて連れて行ったわけではありません。これは、神様は、できるところまではその人自身にさせることを表しています。ラザロを復活させた時も、イエス様のなさったことは祈っただけです。岩をどけ、包帯を取る作業は、人に任せておられます。つまり、神に祈ったら私達は何もしなくてもいいわけではありません。むしろ、神を信頼するならば、祈りが答えられることを信じて、できることはすべて行おうとするものです。神様は、あなたができることまで代わりにしてくださるわけではありません。あなたにできないことを助けてくださるのです。
   そして、イエス様は、「私に何をしてほしいのか」と尋ねておられます。イエス様は神ですから、私達の心の願いをすべてご存知です。そうでなくても、盲人が求めることといえば、目が見えるようになることだということは、誰でも考えつきます。にもかかわらず、イエス様は、あえて「何をしてほしいのか」を尋ねておられます。なぜなら、私達にとって告白することが信仰となるからです。

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:10)

   私達は、神が助けてくださると信じることを、具体的に、自分の口で、告白しなければなりません。告白することによって、信仰が育ちます。信仰とは告白です。「信じます。助けてください。」と告白しなければ、先に進みません。聖書は、小さな舵が大きな船を操るように、言葉がその人を操るのだと教えています(ヤコブ3章)。何を語るかで、あなたの行く方向が変わります。信仰を告白して神に助けを求めるなら、心は神に向きます。だから、神様は、あなたに告白してほしいのです。何を憐れんで欲しいのか、具体的に述べましょう。神様は、あなたを訓練し、あきらめない信仰を育てたいと願っておられます。ですから、あなたがあきらめずに求め続けるなら、必ず答えてくださいます。

神が求めてほしいもの

1.永遠のいのち

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。 』(新約聖書 マタイの福音書 16:26)

   永遠のいのちは、ただ神様に助けを求めるだけで、手に入れることができます。何の努力も行いもいりません。ただ、「あなたを信じます」と祈るだけで良いのです。私達は、目が見えずに物乞いをするしかない立場です。助けを求めれば、助けられるのです。求めれば、必ず手にすることができるもの、それが永遠のいのちです。

2.罪が赦される経験

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   神は私達に、永遠のいのちを与えるだけでなく、平安を与えたいと願っておられます。今、私達は失敗や罪が赦されない世界に生きていますが、神様は、すべて赦すから、あなたの心の重荷を持ってくるように言われます。私達が罪を犯す根本的な原因は、神に愛されていることが見えないことです。神に愛されていることを知れば知るほど、罪という病気はいやされていきます。神様は、私があなたの苦しみをいやしてあげるから、自分で罪を背負うのではなく、神の前に言い表すように命じておられます。

『すべて、疲れた人、 重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)

3.神の言葉を食べること

   私達は金魚鉢の中の金魚と同じで、五感がすべてという世界の中で生きており、その外にある世界のことがわかりません。そのため、この世界の中にある平安を手にしようと頑張って生きています。それは、人の言葉によって得られる平安です。私達は、人からの称賛や感謝の言葉を得るために、日々努力して生きています。
   しかし、神が求めてほしいのは神の言葉です。神の言葉は、今まで得られなかった真の平安を与えます。私達が聖書の言葉を信じられるようになれば、真の平安を得ることができるのです。
   神の言葉は、私達の心の糧であり、唯一真の平安を与えることができる素晴らしい財産です。神の言葉で平安が得られる人間になることを目指しましょう。聖書は、これを、安息を目指すと言っています。
   私達は物乞いでよいのです。神に求めれば、与えられますから、あきらめずに求め続けましょう。平安は神から来るものです。神の助けなしでは、永遠のいのちも罪の赦しも平安も得ることはできません。