ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2016年3月20日
常識と戦え
(新約聖書 マルコの福音書 9:30〜37)
理解するのではなく信じる

『さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:30〜32)

   イエス様は、「自分はこれから殺されるが三日後によみがえる」と、この後ご自分がたどる道について弟子達に語りました。ところが弟子達は、この言葉が理解できませんでした。この言葉を聞いて弟子達は非常に悲しんだと、マタイの福音書に書いてあります。つまり、弟子達は、イエス様が殺されることは理解できたのですが、よみがえることは信じられなかったのです。
   私達も弟子達と同じ問題を抱えています。それは、神の言葉を信じきることができないという問題です。例えば、聖書は「神は患難からあなたを助け出す。恐れるな。」と繰り返し語っています。何事もない時は、その通りだと思っているのですが、いざ自分が患難に直面してみると、「神は本当に助けてくれるのだろうか」と不安に襲われたりします。これが、神の言葉を信じきることができないという問題です。
   なぜ神の言葉を信じきることができないのか、それは、私達が世の常識に立って神の言葉を理解しようとするためです。しかし、本来神の言葉は、人が理解できるものではなく、ただ信じるものです。多くの人は理解したら信じられるようになると思っていますが、そうではないのです。

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:18)

   神の知恵とは、人間の知恵では神を理解できないようになっているということです。人は、自分で理解できたら信じようとするものですが、神の言葉はそうなっていません。特に、十字架の言葉は信じる者には神の力になりますが、人の知恵で理解しようとするとつまずいてしまいます。クリスチャンではない人でも、聖書の教えは素晴らしいと言い、キリスト教の教えに従った考え方をしようとする人は多くいらっしゃいます。日本にはキリスト教系の学校がたくさんあり、その教えに共感する人は多いのですが、彼らが皆クリスチャンになるわけではありません。それは、肝心の十字架が理解できないからです。
   十字架の言葉とは、イエス・キリストが二千年前に私達の罪を背負って十字架にかかったというものです。なぜ二千年前の人が今の私達の罪を背負えるのか、死人が三日後によみがえれるのか、イエス・キリストが自分はあなたを造った神であると教えておられること・・・、これらの常識では理解不可能なことが、神の言葉なのです。これを信じなければ救われません。
   キリスト教は理解するものではなく、信じるものです。理解しようとしてしまうと、いくらたっても神に近づくことができません。人間の常識で理解できたり、信じたりできるものであるならば、それはキリストを自分の下に置くことになります。「理解できるかどうかわからなけれど、神がそういわれるのなら信じる」という信仰こそ、神を自分の主とすることになるのです。この世の愚かな者、取るに足らない者には神がわかるようにしたと言われるのは、この世の知者である人たちは、一生懸命理解しようとするから、神がわからないのだということです。

仕える者、幼子のような者になりなさい

『カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。』(新約聖書 マルコの福音書 9:33〜34)

   聖書を読むと、弟子達が常に誰が一番偉いかということを論じ合っていた様子がわかります。私達はいつも他人と自分を比べて、どちらが偉いか、どちらが大切にされているかを気にします。そして、どうすればもっと偉くなれるか、どうすればもっと愛されるか、特別になれるか、少しでも良く思われることを目指して生きています。イエス・キリストは、このことを「この世の心づかい」と言っておられます。
   私達が、人と自分を比べて少しでも良く思われようとしてしまうのは、自分で自分をダメなものだと思っていることを表しています。もし、自分は良いものだと思っていれば、人と比べる必要も、愛されようとする必要もありません。ところが、自分の良さがわからないために、人の歓心を買って愛されようとしているのです。それは、私達が今、神に愛されていることが見えない状態にあるからです。これを聖書では死と言います。私達は神に造られた良いものであるにもかかわらず、私達の中に死が入り込んだ時以来、神の愛が見えなくなり、人の愛を求めるようになりました。そのために、常に人から良く思われようとする生き方になってしまったのです。

『イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:35)

   イエス様は、人の上に立とうとするのではなく、後ろにまわり仕える者になりなさいと教えておられます。それは、人と比べて良く思われよう、愛されようとする生き方と正反対の生き方です。
   それは、偉くなりたい、愛されたいという思いが、人と自分を比較させ、人と自分を比べて嫉妬し、怒ったり、落ち込んだりするつらさが、様々な悪に走る原因となって私達自身を苦しめているからです。このつらさから逃れるためには、偉くなろう、愛されようとするのとは、逆の生き方をすることです。それが、仕える者になるということです。仕える者を目指すと、私達は心の重荷から解放され、一気に気持ちが楽になります。
   続いてイエス様は次のように言われました。

『それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:36〜37)

   この当時のユダヤ社会は、行いで人の価値を決める社会でした。ですから、幼子とは価値のない存在の代名詞だったのです。しかしイエス様は、人々が価値がないと思っている幼子を真ん中に引き寄せて、あなたがたが価値がないと思っているものを受け入れるなら、この私を受け入れるのだと言われました。
   私達は、できるだけ価値ある人と交わろうとし、価値がないと思う人と交わろうとはしないものです。しかし、そのように人の価値を決める生き方が、自分は愛される価値がない、人の上に立てるよう価値のある人間にならなければならないという常識を生み出し、私達をつらくさせています。私達が常識と思っているものこそ、神の言葉をふさぐ大きな壁となっているのです。
   イエス様は、このように神の言葉をふさぐ常識を打ち壊して、私達が神の言葉を受け入れられるように願っておられます。あなたの目から見て価値がないと思う人がいるなら、そういう人を大切にする事こそ、イエス・キリストを大切にすることだと、主は言われます。

常識が神の言葉をふさぐ

   イエス様は、人の上に立とう、価値ある者と交わろうとする私達に、私達が願うこととはすべて逆のことを教えておられます。それは、私達の持っている常識が、私達自身を苦しめ、また、イエス様の言葉を受け入れられないようにさせているからです。
   当時人々は、心から救い主を待ち望んでいましたが、多くの人がイエス様を受け入れることができませんでした。それは、イエス様がその当時の人々が救い主に対して持っていた常識とは正反対の生き方をなさっていたからです。人々は、救い主はダビデのように王としてこの地上に来られ、私たちを救い、この地上に神の国を作って、イスラエルの王国を復活させてくださると思っていました。ところが、イエス様は、王宮ではなく馬小屋で生まれ、学歴も肩書きも何もない大工の息子として育ち、人々から尊敬されるような姿ではなく、あこがれられるような点は一つもなく、むしろ人々からさげすまれ、嘲り笑われました。
   イエス様は、神の言葉を信じさせない敵となっている私達の常識をことごとく覆すために働かれました。イエス様が最初に語られた説教は、「心の貧しい者は幸いです。」というものでした。この「貧しい」という言葉は、物乞いを表す言葉です。社会からのけ者とされ、心が物乞いをするような人こそ、幸いだとイエス様は語られたのです。
   常識こそ神の言葉を信じさせない敵です。イエス様は、一つ一つ常識を示しては、仕える者となれ、子どもを祝福せよ、あなたが価値のないと思うものを大切にしなさいと、具体的にどうすればいいかを示して戦われたのです。
   あなたは、自分の持っている常識に惑わされて、神の言葉が信じられなくなっていることに気づいているでしょうか。私達はどうしても常識を優先してしまうものです。弟子達もそうでした。しかし、神の言葉を信じられないと、患難にぶつかっても希望を持つことができません。常識にとらわれるのではなく、神の言葉を信頼しましょう。

常識を覆すイエス様の教え

1.無条件で罪が赦される。

   私達の常識では、罪を犯したらその内容に応じて償いをするものと考えます。法律で犯した罪の内容によって異なる量刑が定められていることを、私達は当然のことだと受け止めています。ところが、イエス・キリストはどんな罪であっても無条件で赦すと言われました。これが、当時の律法学者の反発を招き、最終的に彼らはイエス様を十字架にかけて殺したのです。
   イエス様が無条件で罪を赦された場面は数多くありますが、その代表的なものが、姦淫の現場で捕まった女性を赦された場面です。当時の法律では、姦淫した女性は石打ちによる死刑と決まっていました。しかし、イエス・キリストは、石を投げようとする群衆に対して、「この中で一度も罪を犯したことのない者から石を投げなさい」と言われたのです。すると、誰も石を投げることができず、人々は皆その場から去ってしまいました。そして、誰もいなくなった時、イエス様は、「私もあなたを裁かない」と言って、無条件で彼女の罪を赦されたのです。また、ザアカイの罪を赦す場面も有名です。ザアカイは、税金集めをしていたやくざのような人物で、人々から忌み嫌われていました。ところがイエス様は、彼と交わり、彼の家に泊まり、共に食事をし、「あなたの罪は赦された」と宣言なさったのです。このようにイエス様は、無条件で罪を赦して、常識を打ち壊しました。
   これは、私達の人生はやり直しがきくことを表しています。私達が「もうダメだ」「終わりだ」と思うような失敗をしてしまっても、イエス・キリストはどんな罪も赦し、やり直しができるようにしてくださるのです。

2.無条件で愛されている

   私達は、愛されるためには、良いことや立派なことをしなければならないと思い込んでいます。ですから、多くの人は、自分が神に愛されているとはとても思えません。たいていの人は、何か悪いことがあると、自分は罰を受けたのだと考えますし、何か良いことがあると、日頃の行いが良いからなどと思ってしまうものです。つまり、私達は、無意識のうちに立派なことをしなければ神に愛されないと思っているのです。しかし、イエス様は、幼子を祝福なさったように、人からは価値がないと思われているものを愛されました。
   イエス様は、あんな人は愛されるべきではないと人々から思われるような罪人を、無条件に愛されました。そのために人々はつまずき、イエス様をにせ預言者よばわりしたのですが、それでもイエス様は人の目には取るに足らない人々を愛しつづけました。
   あなたは自分が無条件に愛されていることを知っているでしょうか。神様には、あなたを愛する理由があります。それは、あなたが神の作品であり、神のいのちによって造られているからです。私達は神の子です。神はご自分の子であるあなたを、深く愛しておられるのです。

3.無条件で天国に行ける。

   人間の常識では、天国に行くには、良い行いをすることが必要だと思われています。私達は、天国に行くためには、どれだけ立派な行いをしたか、どれだけ徳を積んだかが重要だと思いこんでいます。しかし、イエス様は、誰であれ、私を信じさえすれば、天国に行けると言われました。天国に入るために、私達が過去に何をしたかを問われることはありません。これも私達の常識を完全に覆すものです。
   当時のユダヤでは、金持ちは天国に行けるものだと思われていました。それは、その人が立派なことをして徳を積んでいるから金持ちになれたのだという発想から生まれた考え方です。しかし、イエス様の考え方は違います。イエス様は、誰であれ、私が差し出す手を握る者を無条件で救うと言われました。イエス様は、ご自分が十字架にかけられ殺される直前、イエス様の隣で十字架にかけられていた罪人をお救いになっています。それは彼が十字架の上で、イエス様に救いを求めたからです。彼は、自分は殺されても仕方がない存在だが、どうか私をあわれんでほしいとイエス様に求めました。その時、イエス様は彼に「あなたは今日私と一緒に天国にいる。」とおっしゃって、私があなたを救うから何も心配する必要はないことを示されました。
   イエス様は、どんな人かということも、何をしていたかということにも関係なく、ただ神に助けを求める者を救われるのです。

   これらのことのたった一つでも、常識で考えると理解できず、信じがたいことです。これが十字架の言葉です。常識で理解しようとすると、なぜなんだとつまずいてしまいます。しかし、イエス様がそう言われるのだからそうなのだ、と信じるなら、平安が訪れます。ですから、理解しようとするのではなくただ信じなさいと、神様は言われるのです。その時、神の愛が臨み、あなたは平安を得ることができます。これが信仰です。あなたの中にある神の言葉をふさぐ常識を覆し、信仰に立って平安を受けとりましょう。