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2016年月1月31日
患難を静観される
(新約聖書 マルコの福音書 6:45〜)
神と共に過ごす時間を持つ

『それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。』(新約聖書 マルコの福音書 6:45〜46)

   イエス・キリストは、群衆を解散させ、一人で山に登って祈りました。このことは、私達が生きていくためには神との交わりが必要であることを教えています。私達はキリストの体の一部であり、神と共に生きるように造られたのですが、神が目に見えない方であるために、その自覚を持つことができず、自分の考えだけで生きています。しかし、それは人間の本来の生き方ではありません。私達が、本来の生き方をしっかりと確認する時、それが、祈りの時です。
   自分が神の一部だと知れば、何のために生きるのか答えを見出すことができます。もし、自分は一人で生きているのだと考えるなら、人生の答えを見出すことは難しいでしょう。人生の方向性を見失わないために、神と共に過ごす時間を持ちましょう。神と共に過ごすとは、自分の心の辛さを神に打ち明けて助けを求めて祈り、聖書を読んで神の思いを知ることです。

神は患難を静観する

『夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。』(新約聖書 マルコの福音書 6:47〜48)

   弟子達は、向かい風の中、一生懸命船をこぎましたが、どうにも前に進めません。その時、イエス様が湖の上を歩いて近づいてこられました。ところが、イエス様は彼らを助けるために来たのではなく、通り過ぎるおつもりだったというのです。いったい、どういうことでしょうか。
   弟子達の様子は、私達が何かに取り組んでいる時、問題にぶつかってどうにもならなくなる状況を表しています。この時、神様は、私達の前に現れてくださいますが、助けようとはなさらず、患難を静観なさるというのです。
   誤解しないでいただきたいことは、患難は神様が与えるものではないということです。人間は不完全ですから、どうしても困難にぶつかるものなのです。神様は、神と人とが互いに愛し合い、信頼し合う関係を築くために、人間をお造りになりました。イエス・キリストは、「私はあなた方を友と呼ぶ」と言われます。神様は、私達をロボットや奴隷として造ったのではありませんから、私達が強いられて何かをすることを望みません。神が患難を与えて従わせたり、神の命令に従わなければ罰を下すなどということはありえないのです。
   神が患難を静観なさる理由は、アダムとエバが悪魔に欺かれて罪を犯した時に壊れてしまった神と人間の信頼関係を、回復するためなのです。

患難に出会った人はどうするか

   神ではないものを信頼するという罪によって、神との信頼関係が壊れた状態が、聖書が教える死です。永遠なる神と一つであった時は、私達も神のいのちを共有していましたが、関係が壊れた時に、そのいのちは失われてしまったのです。
   神との関係が失われたことによって、人は神に愛されている自分が見えなくなり、大変な不安に陥りました。この不安を解消するために、必死になって人から良く思われる生き方を目指すようになったのです。また、永遠なる神との関係が壊れたことで、体も死ぬものとなったため、病や死や老いを恐れ、見えるものにしがみついて安心しようとするようになりました。これが、お金を得ることで安心しようとする生き方になったのです。このように、今の私達の生き方を支えているものは、第一に人から良く思われることであり、二番目はお金です。この二つに振り回される生き方を、聖書は「死の恐怖の奴隷」と言っています。
   この世の悪や不道徳はすべて、死の恐怖の結果です。例えば、人から愛されたいと願えば願うほど、妬みが生まれ、悪い思い、悪い行いへと発展します。また、人はお金儲けのために争い、戦争まで起こします。つまり、私達が「罪」だと認識するものは、すべて、神との関係を失うという「死」からスタートしているのです。 聖書は、人間は誰一人例外なく、すべての人が「罪」という病気にかかった病人であると教えています。「罪」によって「死」が入り、「死」によって神の愛が見えないため、人は人から愛される人間を目指しますが、私達の心は神に愛されることでしか満たされないように造られているため、神に心を向け、神との関係を回復しない限り、この問題は解決しません。
   イエス・キリストは、「医者を必要とするのは病人である、私は罪人を招くために来た。」と言われました。私達が、ダメな人間だと人をさばき、自分をさばくのは、罪という病気にかかっているからです。イエス・キリストは、自分自身をつらくする罪から私達を救い出すためにこの世に来られたのです。神に愛されていることが見えずに死の恐怖の奴隷となっている人間を癒すことができるのは神だけです。ですから、私達を癒すために、イエス様は、私のもとに来なさいと招いてくださっているのです。神は遠い存在ではなく、つらい時にいやしてくださる私達の医者です。問題にぶつかったら、神様に助けを求めればよいのです。
   ところが、病気の自覚がなければ医者を求めないのと同じように、自分が罪という病気にかかっている自覚がない人は、神に助けを求めることをしません。そのため神様は、私達がつらいという自覚を持って、神に助けを求めて祈るようになるために、患難を用いられるのです。多くの人はつらくなると、まずは自分の力で直せないだろうかと努力し、次に見えるものに頼り、どうにもならないと思った時、ようやく神に助けを求めます。そのために、神は、患難にぶつかった私達を静観し、私達が自分自身で病気に気づいて助けを求めるのを待たれるのです。
   どんなに素晴らしいものを持っていてもつらさから逃れることができず、自分がしがみついてきた人の言葉や富が何の役にも立たないことに気づく時、人は自分の罪深さに気づき、ようやく神に助けを求めます。イエス様が、向かい風の時に、ただ弟子の前に現れるだけという選択をなさった理由はここにあります。あなたが自ら神に助けを求め、神に愛されていることを知るようになるためです。
   そして、どうにもならない病気を癒されたら、患者が医者に感謝するように、自分が罪人であることに気づき、罪を癒していただくことによって、私達と神との間にも感謝と信頼関係が築かれていくのです。

神を信頼する決断をする

『しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 6:49〜50)

   弟子達が叫び声をあげたのは、まさかイエス様が来られるとは思っていなかったからです。聖書には、神は私達を助けると約束されていますが、弟子達は、その言葉を信じきることができず、疑っていたのです。
   私達も問題にぶつかった時、御言葉を思い出しはするものの、本当にその通りになるだろうかと不安がよぎるものです。そんな時、イエス様は「しっかりしなさい」「恐れることはない」と語りかけてくださるのです。
   神の言葉を信じることができないという問題は、クリスチャンであっても日常的にぶつかる問題です。例えば、人から悪口を言われて落ち込んでしまう時でも、神は、「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」と語っておられます。イエス様は、あなたを愛し、あなたのためなら命さえ惜しまないと言って、十字架にかかってくださったのです。自分は悪口を言われた通りのダメな人間だと信じるか、神が示してくださる通り素晴らしい人間だと信じるか、それは自分が決めることです。私達のつらさの原因は、例外なく人の言葉を信じた結果です。神の言葉を信じないから、つらいのです。
   神の言葉と、人の言葉あるいは自分の思いが異なる時、あなたはどちらを信じますか。「神はあなたを助ける」という聖書の約束に、「嘘だ!」と叫び声をあげますか。それが、私達のつらさの原因です。神の言葉が信じられないから、平安になれないのです。神の言葉を信じようとするか、人の言葉を信じ、自分の考えに従い続けるか、自分で決断しなければいけません。

イエス様を受け入れる

『そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。』(新約聖書 マルコの福音書 6:51)

   イエス様が船に乗ったとは、弟子達がイエス様を受け入れたことを示します。すると、風がやんで、神が自分を助けてくださったと知ることができました。
   もし、あなたが神を信頼したいと願うなら、「神様、助けてください」と言えば良いだけです。そうすれば、聖書に書かれていることは本当だと知ることができます。神を信頼する信仰を得るために何かをする必要はありません。
   神を信頼し、聖書に書いてあることを疑わずに信じましょう。そうすれば、それが本当だと知ることができ、奇跡を体験できるのです。

『彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。』(新約聖書 マルコの福音書 6:53〜56)

   イエス様の着物にさわった人が皆いやされたのは、さわったから癒されたのではなく、さわったら癒されると信じたから癒されたのです。私達は、この世の価値観に影響されて、何かを行わなければごほうびはもらえないものだと考えがちですが、そうではなく、彼らは信じたから癒されたのです。
   私達は、良いことがあった人を見ると、つい、「何をしたらこんな祝福が手に入るのだろう」と考えてしまうものです。しかし、イエス・キリストは次のように答えられました。

『そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』(新約聖書 使途の働き 3:16)

   何かができないから祝福されないとか、何かを行うことで祝福されるなどということはありません。ある時、二人の人が神殿で祈りを捧げましたが、一人は自分が実行している善を神様に報告し、「私は、神様のためにこんなにもたくさんの良いことを行っていることを感謝します」と祈り、一人はただ「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。イエス様が義と認めたのは、後者の祈りです。
   この世の価値観では、一生懸命頑張った人が愛されると思うものですが、神様の価値観はそうではありません。神と私達の関係は、何かをしたら何かしてもらえるような関係ではなく、求めれば答えられる関係です。神の前に自分の素晴らしさを誇ることは、神の助けを必要としないと言っているのと同じことです。ただ、「神様あわれんでください」「助けてください」と祈れば良いのです。
   疑わないで信じ続ければ、神は必ず答えをくださいます。その答えとは、自分が愛されていることに気づき、神を信頼できるようになることです。それが、あなたが抱えていたつらさからあなたを解放する方法です。
   そのために神は、自分の罪を神の前に言い表しなさいと語ります。神は、あなたが告白するどのような罪も赦してくださり、赦されていることを知れば知るほど、愛されていることに気づくことになります。神に助けを求めて祈ることが、愛されていることを知り、平安をもたらす道なのです。
   私達が抱えている罪という病気は、死によって生じ、愛されていることが分かることでいやされていくのです。愛されていると知り、いやされ、神を愛することができるようになり、平安を手にするようになるのです。それが、神があなたに受け取ってほしいと願っている神の答えです。