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2016年月1月3日
新年礼拝より
(新約聖書 マルコの福音書 5:21〜)
『イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。』(新約聖書 マルコの福音書 5:21〜24)

『イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 5:35〜43)


求めなさい

信仰は求めるところから始まる

   会堂管理者は、娘が病気で死にそうだと、イエス様に助けを求めました。神に助けを求めることが、神様と私達との関係を築く第一歩です。実は、私達の心に願いを与えてくださるのも神様です。ですから、「求める」とは神の呼びかけに対して応答するということです。これが、神との関係の基本になります。
   さて、会堂管理者が求めたことによって、イエス様は娘のもとに向かわれますが、その途中、娘が亡くなったという知らせが入りました。私達が神に求める時も、途中で困難に出会うものです。それは、神が試練を与えているわけではありません。私達の信仰が本物かどうかを神様がご覧になっている間に、様々な問題に出会うものなのです。この時も、娘が死にそうだと言われているのに、イエス様は急ぐ様子もなく、あえてゆっくりと向かっておられます。そして、娘の死という患難に見舞われ、信仰が試されている会堂管理者に、恐れないでただ信じなさいと励ましておられます。その後に奇跡が起きるのです。
   あなたは神様に何かを求めているでしょうか。神様との関係を築くとは、神様とコミュニケーションを持つことです。その関係は求めることから始まり、信頼を育てる方向に進んでいくのです。

『その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:23,24)

   イエス様は「何も求めたことがない」と言っておられますが、弟子達は、「出世したい」「偉くなりたい」「褒美が欲しい」と求めてきました。しかし、それはイエス様にとって、求めていることにはなりませんでした。なぜなら、彼らは途中であきらめてしまったからです。弟子達は、イエス様が十字架にかかるのを見て、イエス様を裏切り、求めることをやめました。イエス様にとって、途中で求めることをやめるのは、初めから求めていないのと同じです。イエス様はそれがわかっていたので、「求めていない」と言われたのです。
   神が「求めなさい」と言われるのは、途中であきらめないことを意味します。患難にぶつかって「もういいや」と思うなら、それは神の名によって求めているとは言いません。砂漠の地で水を求めるように、決してあきらめずに求め続けることが、神の名によって求めるということです。

求めることによって御心に導かれる

   神に求めるとは、神に近づこうとすることであり、神に信頼しようとすることです。神の御心に反することをいくら求めても、神の名によって求めているとは言いません。

『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 4:2,3)

   御心にそった願いとは、神が私達の心に起こす願いのことです。これを神に求めることが、神への応答です。心にうかぶ願いが御心かどうか、私達にはなかなか判断がつかないものですが、自分自身でそれを吟味する必要はありません。イエス様が教えておられる通り、どんなことでも神に求めればよいのです。そうすれば、神は、御心に反する道をふさぎ、御心にかなう別の道を用意して、結局は、神に求める者を必ず御心にかなう道へと導いてくださいます。
   旧約聖書の創世記に登場するヤコブは、自分の欲を達成するため、長男の権利を手に入れ、妻を得、富を手に入れました。神様はそれらを否定なさいませんでした。ただしヤコブは、求めるほどに様々な問題にぶつかり、最終的に行き詰まり、神ご自身を求めるに至りました。こうしてヤコブは砕かれて、神に近づくことができたのです。この時ヤコブは、神様からイスラエルという名をいただき、イスラエルの歴史が始まったのです。
   求めることを始めましょう。求めなければ何も始まりません。自分の願いが御心にかなうかどうかを考える前に、まず願いが来たら神様に求めてみましょう。そうすれば、問題にぶつかって砕かれ、もっと神様に近づきたい、信頼したいという願いがわきおこり、神ご自身を求めるようになります。何も求めなければ、何も起こりません。私達は、神様に求めることができるように、信仰を頂いているのです。
   神様に求める者は、確かに患難にぶつかりますが、同時に、脱出の道が用意されていると神様は約束しておられます。そして、最終的に神様にしっかりと目が向く者に変えられていきます。あきらめずに求め続けましょう。

求めるとは

『ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』(新約聖書 マルコの福音書 5:25〜34)


1.信じること

   彼女は12年もの間、病気が治らず、医者からもひどい目に遭わされてきましたが、病気が治ることをあきらめきれませんでした。そして、イエス様に求めればきっと直ると信じました。
   神に求めるとは、どうすることもできないとは思わないで、信じることです。彼女も私達と同様、困難にぶつかるたびに、あきらめるかどうするかの選択に迫られたことでしょう。しかし、イエス様の言葉を聞いて信じようと思ったのです。あなたはどうでしょうか。神があなたを助けると信じますか。
   私達がすべきことは、現実を見てあきらめることではなくて、とにかく信じることです。長血をわずらっていた女性が、神の言葉を聞いて信じることを選択したように、「信じてみよう」「信じよう」と、まず信じることを選び取りましょう。

2.告白すること

   この女性は、ただ信じただけでなく、できることを行動に移しました。信じても、何もしなければ何も起こりません。信じるとは、行動に移すことであり、私達ができる行動の第一歩は語ることです。もし何も語らなければ、困難にぶつかったら、いつでも逃げることができ、前に進むことが出来ません。語ることによって、信じることをやめようという逃げ道がふさがれ、信じた道に進む道しかなくなります。

『「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:13)

   多くの人は信じていても、何も語りません。しかし、私達にできる行動の第一歩は、イエス様を信じる、永遠のいのちを信じると語ることです。まずは自分がクリスチャンであることを告白しましょう。自分がクリスチャンであることを告白しない限り、信仰はそれ以上成長しません。告白しなければ、洗礼を受けなければ、いつまでも自分の信仰を認識できません。この女性にとっては、イエス様にさわることが信仰の告白となりました。それは勇気のいることです。しかし、信仰は告白によって本物になります。
   自分が祈っていることに対して、どうすれば良いかを考えて行動に移しましょう。家族の救いのために祈る人は、救われるために何をすればよいかを考えて行動に移し、問題の解決を願う人は、それを告白しましょう。告白しなければ、求めていないのと同じであり、信仰がそれ以上成長しません。 イエス様は、「あなたの信仰があなたをなおした」と言われました。私達は、神様から問題を解決する信仰を頂いています。信仰を使うことによって、真の平安が得られるのに、なぜあなたは信仰を使わないのかと、聖書は繰り返し語っています。

求めるための信仰を持っている

   信仰とは、イエス・キリストを知り、信頼することです。それは、永遠のいのちを頂いていなければできないことです。神はすでに、あなたに、永遠のいのちと求めるための信仰を与えておられます。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:3)

   神から信仰を頂くとは、永遠のいのちを頂くことです。永遠のいのちは、イエス様と交わり、イエス様を信頼することができるいのちです。それは、イエス様ご自身を指します。神が与えた信仰とは、永遠のいのちのことです。
   肉の命ではなく、永遠のいのちを使って生きるならば、問題は解決され、神への信頼を増し加え、平安の義の実を結ばせると主は言われます。こうして私達は、ますますイエス様を知ることができるようになり、神に近づくことができるのです。
   あなたは永遠のいのちをすでに持っているのですから、そのいのちを使い、問題にぶつかっても信じ続けるように、神は願っておられます。永遠のいのちを使い、信仰を使って、平安の義の実を結ぶまで、あきらめずに神を信頼し続けましょう。