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2015年月12月20日
クリスマス礼拝より(新約聖書 ルカの福音書 2:6〜11)
『マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
    すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
    御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」』(新約聖書 ルカの福音書 2:6〜11)


    この当時の人々は、自分達を助け救い出す救い主が来られるという聖書の預言を信じて、待ち望んでいました。その中で、主の誕生が最初に知らされたのは、知識階級の人々でも富裕階級の人々でもなく、寒い夜中に羊の番をしていた羊飼いでした。
    イスラエルは、夜0度近くまで気温が下がります。また、今と違って電気もありませんから、野宿の夜番は、寒さと暗闇という過酷さに耐えなければならないものでした。これは、私達が希望を失い、困窮する様子を象徴しています。さらに羊は、聖書の中で神を表す象徴的な動物です。つまり、夜番をしていた羊飼いは、絶望の中にあって希望を見出そうとしている人達を表しているのです。
    彼らは、誰からも目を留められない、むしろこの世界では取るに足らないと見られる人々です。しかし、神が彼らに最初に光を照らし、良き知らせをもたらしたことは、イエス・キリストが絶望の中にいる人々の人生を照らす光であり、キリストによって人生は絶望から希望へと変えられることを示しています。

1.光は絶望の中で見出される

『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:5)

    ヨハネの福音書は、イエス・キリストの誕生を、闇が打ち勝つことの出来ない光であったと表現しています。昼間に懐中電灯をつけても他の光に混ざってしまってわからないように、キリストは光であるがゆえに、闇の中でしかその輝きを知ることが出来ないのです。
    すなわち、もし私達がこの世に希望を持ち、喜びを持って生きているならば、キリストの光は見えません。しかし、もし闇を知っているならば、つまり、希望がない自分を見出すことが出来るならば、その時初めてイエス・キリストを見出すことが出来るのです。光であるから闇の中でしか輝かない、これがイエス・キリストです。イエス様は、闇の中に自らを説明なさったのです。
    私達は、絶望に対して悪いイメージしか持たず、どうにか避けたいと思うものです。しかし、そこで初めて光を見ることができ、イエス・キリストが見えるようになります。イエス・キリストはあなたにとって、絶望の中で輝く希望となってくださるのです。

2.光は闇を消し去る

   また、光は闇を消す力を持っています。闇は罪を象徴します。私達は皆罪人です。どんなに良いことをしたとしても、自分の中にどれほどの罪があるかは、自分が一番よく知っているものです。それで人は、ダメな自分を消そうとして、様々な努力をし、人に良く見えるものを着こみ、自分を隠します。私達が、一生懸命人から認められようとしてしまうのは、自分は罪人ではないと示すためなのです。自分の闇を知り、ダメな自分を隠そうと苦しんできた私達を、神は光を照らしてその闇を消し去り、自由に生きられるようにしてくださったのです。
    イエス・キリストはある時、姦淫の現場でとらえられた女性が、人々の真ん中に連れ出されている場面に遭遇しました。女性を石打ちにしようと取り囲む人々に対して、イエス様は「この中で一度も罪を犯したことのない人から石を投げなさい。」と言われました。すると、誰も石を投げることが出来ず、ついに皆その場から立ち去ってしまいました。そして、イエス様は「私もあなたを罪に定めない」と言われたのです。
    イエス・キリストは、罪を責めるためではなく、私達の罪を赦し、罪を背負い、助けるために来られました。今、人に言えない罪に苦しんでいるあなたの罪を赦し、助け出すために来られたのです。
    光は、闇を洗い流し、覆い隠し、綺麗に取り除くものです。光は闇の中に輝くとは、キリストはあなたの闇を取りのぞいてくださるということです。

3.光は希望をもたらす

   この世界のすべての人は、死という闇の中に暮らしています。私達は皆必ず死にます。その先、いったいどうなるのか。いつ死が訪れるのか。人は、この死という闇からどうやっても抜け出すことができません。その結果、人はこの闇から目を背け、闇の中にいることに気づこうとしないのです。
    イエス・キリストは、この死の先に希望があることを、ご自身の身を持って証してくださいました。人々の目の前で、十字架にかかって死に、そしてよみがえられたのです。それを実際に見た人々がいたからこそ、キリスト教は、ローマ帝国の迫害に遭っても爆発的に信者が増えたのです。そして、ついにローマ帝国は迫害をやめたばかりか、キリスト教国家となりました。その原動力は、イエス・キリストが復活したという事実です。
    人々は、死んでよみがえったイエス様を見て、イエス様が語った言葉は本当だと信じるようになり、神の言葉に希望を持つことが出来るようになったのです。
    私達は皆闇の中にいます。自分が闇の中にいることに気づけば、光を知ることが出来ます。イエス・キリストの誕生に際し、闇の中に現れた光は、このことを教えてくれます。
    イエス・キリストは、死という闇の中にいる私達に、死んでも生きる希望を与えてくださいました。誰でも自分の絶望に気づくなら、例外なく神を見出すことが出来ます。しかし、私達は、闇に気づくことを嫌い、闇から目をそむけようとして生きているために、つらい出来事にぶつかると、原因を作った相手を責めて、自分の状況を見ようとしません。そのため、光に気づくことが出来ないのです。 もし自分が絶望の中にいることに気づけば、そこに輝く光が分かり、人生が変わります。ですから、神様が私達に最も与えたいプレゼントは、絶望なのです。多くの人は、神様は自分の願いごとをかなえ、何かしてくださる方だと思って期待するものですが、神様が最も与えたいプレゼントは、自分が闇の中にいることに気づくことによって得られる希望なのです。
    絶望はあなたに希望をもたらします。それはあなたにとって宝となります。あなたが闇を嫌い、切り捨てるなら、大切な永遠のいのちを手にすることはできません。神は闇の中に輝く方であることを忘れず、闇の中に届けられた光を受けとりましょう。