ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2015年月12月13日
礼拝メッセージ(新約聖書 マルコの福音書 4:35〜)
あなたを導く神

『さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。』(新約聖書 マルコの福音書 4:35〜37)

    神様は、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と、あなたに道を示し、導いてくださいます。
    旧約聖書の箴言に、「幻のない民は滅びる」とあります。つまり、毎日忙しく過ごしていても、自分はこれを目指しているというビジョンがなければ、欲しいままにふるまってしまい、人生を無駄に過ごしてしまうというのです。神様はあなたに、進むべき道を示しておられます。問題は、あなたがその声を聞こうとするかどうかです。
    弟子達には、イエス様の呼びかけに対して、「もう遅いからやめましょう」という選択と、神の言葉に従って一歩を踏み出す選択とがありました。弟子達は、御言葉に従うことを選択しました。神様は私達に道を示されますが、強制はなさいません。その道に進むかどうかはあなたの責任としてゆだねられています。では、今神様はあなたにどのような道を示しておられるのでしょうか。神様が常にすべての人に示しておられる道は、「神を愛し、人を愛する」という道です。どのような仕事をしようとも、愛する方向に進むかどうか、これはすべての人に問われていることです。
    さて、弟子達がイエス様に従って行ったところ、激しい突風が起こりました。これは、突然の患難を表します。イエス様に従って進んだら、問題がなくなるわけではなく、かえって患難に遭うとは、どういうことなのでしょうか。
    それは、この世界の価値観と神の価値観がまったく異なるために生じる摩擦です。この世界は死に支配されているため、時間がないからと、早く結果を出すことが求められます。こうして、行いに応じて報酬を得ようとする価値観が出来上がりました。ところが、神の国の価値観は、行いで人を見ることをしません。それは、私達が死に支配されているのは、自分自身の行いが原因ではないからです。私達が死に支配されるようになったのは、悪魔がアダムとエバをだましたことが原因です。自分自身が何か犯したからではありません。しかし、そのせいで私達は死ぬものとなり、行いによって人の価値を判断するようになりました。しかし、その価値観は死の世界の中だけのものであり、どんなに立派な行いをしようとも、すべての人は、神の目には死を待つしかない状態です。そのため、神にとってすべての人は、行いに関係なく、ただ救い出してあげたい憐れみの対象です。ですから、神は人を行いで判断しませんし、うわべで人を見たり、さばいたりしてはいけないと教えています。私達は皆兄弟で、憐れみを請うしかない存在なのです。
    このような神の価値観で示された道は、この世界の価値観と大きな摩擦を生じます。そういうわけで、残念なことに、この世で聖書の言葉に従って生きると、摩擦が生じ、患難が生じるのです。そのためイエス様は、「私が来たのは平和をもたらすためではない。」と言われました。しかし、患難の先にこそ、真の希望があります。世界の歴史を動かした人物の多くが、キリスト教の影響を受けた人々です。リンカーンは人種などのうわべで差別されることのない平等な社会をめざし、互いに愛し合いなさいと語りました。彼は戦争が起きるほどの迫害を受けましたが勝利しました。明治維新の時に大きな影響力を持った福沢諭吉もキリスト教の影響を受け、クリスチャンという告白はしませんでしたが、「天は人の上に人をつくらず・・・」という「学問のすすめ」を著し、子どもたちにはキリスト教の教育を受けさせました。その他多くの人々が、聖書に従い、患難にぶつかり、しかし、そのことを通して道は開かれ、現在の社会を形作ってきました。

患難は本物を見極めさせる

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜5)

    なぜ患難は希望を生み出すのかと言えば、人はつらくなるとそのつらさから逃れよう、痛みを和らげようとして、無意識のうちに、何が本当に自分の助けになるのかを探るものだからです。ですから、患難は、本物を見極めるチャンスとなります。何気なく生きている時は、何が幸せか、何が大切か、わからないものですが、患難にぶつかり、富も名誉も失った時、最後まで励まし続けてくれるイエス・キリストこそ真の友だと気づきます。キリストは、すべての者が見捨てても、あなたを見捨てません。私達は自分の調子がいい時には、様々な光を放つものに心を引かれて、キリストの光が見えないのですが、「光は闇の中に輝く」と聖書が教える通り、患難に出会ったら、光はイエスしかないと気づくのです。
    かつて江戸幕府が倒れた時、それまでの価値観が崩れ、身分を失った若い武士達は、何を信じて生きていけばいいのか、何が真実なのか、絶望し途方にくれました。しかし、この時、多くの若者が、クリスチャンになりました。その代表が、高崎藩主の息子内村鑑三です。内村鑑三は、キリストこそが私の主人であり、真実の友だと気づき、イエス・キリストを土台とした人生をやり直しました。日本のプロテスタントの歴史は100年ほどで、患難にぶつかったことによって、むしろしっかりしたものが築きあげられ、その影響を受けた人たちが、今なお私達のまわりに大勢生きていて、私達が導かれているのです。患難は本物を見極めさせる宝です。

『ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』(新約聖書 マルコの福音書 4:38〜39)


    患難の時にイエス様が寝ておられたとは、私達がイエス様を蚊帳の外に置いているということを表しています。それは、患難を自分で何とかしようとして、見えるところに頼ろうとしているということです。
    この時弟子達は、突風に対して、自分たちの力でどうにもならなくなり、ついに、イエスを起こして、「私達がこんな目に遭っているのに、何とも思わないのですか。」と、つぶやきました。もし、ここで弟子達に信仰があったなら、「なぜこんな目に遭うのか。」とつぶやいたりせず、「イエス様、あなたにはできると信じます。どうか助けてください。」と求めたことでしょう。しかし、この時の弟子達の言動は、嵐をイエス様のせいにして「イエス様が悪い」と言っているようなものです。それはちょうど、戦争や差別を見て、「神がおられるなら、なぜこんなことが起こるのか。だから、私は神を信じない。」という発想と同じです。人は患難にぶつかると、誰かのせいにしたくなります。そのため、「なぜ」と神につぶやいてしまうのです。しかし、そのつぶやきは正しいものではありません。
    こんなにイエス様に対してつぶやいている弟子達に対して、イエス様は「勝手にしなさい」と見捨てたりせず、嵐を静めてくださいました。神様は、信じて救われた者を決して見捨てず、必ず助けてくださり、最後まで責任を持って神の国に導いてくださるという約束が、ここには含まれているのです。もしもあなたが進むなら、神様はあなたを必ず助けてくださいますし、求めれば必ず答えてくださいます。神は真に憐れみ深いお方です。神の国はからし種のようなもので、寝て起きたら大きく成長していたとあるように、私達の行いとは関係なく、神の側で十字架にかかり、導いてくださるのです。イエス・キリストを救い主として信じるという一歩を踏み出したあなたを、たとえ患難にぶつかってつぶやいても、何があっても、神様は必ず天国に連れて行ってくださいます。しかし、あなたが求めなければ答えようがないし、あなたを強制することはなさいませから、神の前に働かせる信仰が必要なのです。

神が与える信仰とは何か

『イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」』(新約聖書 マルコの福音書 4:40〜41)

    イエス様は、弟子達になぜ信仰を使うことをしないのかと問うています。この信仰は、人が与えてくれる信仰ではなく、神が与えてくださる信仰のことで、神の呼びかけに応答し、助けを求めることです。この信仰が永遠のいのちであり、私達の内側に神が直接働きかけることができるようになる御霊のからだを着せられることでもあります。耳や目などの五感によってからだが情報を収集するように、御霊のからだは、神の思いという情報を収集します。私達は、信仰という御霊の体によって、神の思いを直接聞くことができるようになります。これによって、イエス様をより深く知り、信頼し、平安を手にすることができるようになったのです。なぜ、神が与えたこの信仰を使わないのかと神は問うておられるのです。
    信仰を使うことで、御霊なる神は何を伝えようとしているかを知ることができます。それは、第一にイエス様が神だということです。信仰がなければ、イエス様が神だと知ることはできません。イエス様が救い主なる神だと信じているなら、その人は永遠のいのちを持っているのです。
    そして、信仰がもたらす次の働きは、イエス様は必ず助けてくださると、イエス様を信頼するようになることです。こうして、御霊が私達の中に働いて私達が神に近づくように、導いておられるのです。

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)

   神は、このように私達が信仰を使うことを望んでおられます。そして、信仰を使うと平安が生まれます。

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:11)

   信仰を使えば使うほど、平安の実がなります。神は、私達に、「恐れて生きるのはやめ、平安の実をならしなさい。」と願っておられるのです。
   イエス・キリストを信じたら、永遠のいのちである神の国を持つようになります。この神の国は、勝手に成長して、私達を勝手に天国に連れて行ってくれます。 イエス様はこのことを木にたとえ、木は必ず成長して天国に行くことができると教えていますが、その木が実を結ぶかどうかは別の話です。信仰を使わなければ実はなりません。イエス様は、神への信頼を育てて、多くの平安の実を結びなさいと願っておられます。平安の実を結んだ者は、天国に行った時、神を身近に感じることができます。もし、信頼を持たなければ、神は遠い存在のままです。
    信仰を使うには、まずは口で告白することです。「大丈夫。神は必ず助けてくれる。」と告白することで、あなたの告白があなたの心を支配するようになります。イエス・キリストを心の中で信じているなら義とされていますが、告白しなければ確信は持てません。告白して実感を持ち、信仰を確かなものとするために、信仰を告白するのです。不安の中で生きることにならないように、告白しなさいと神は教えておられます。患難にぶつかったら、つぶやかず、信仰を使って、「信じます。」「神は助けてくださる。」と告白しましょう。
    信仰を使う第二は、祈ることです。告白しても現実を見ると不安になるものですから、心を神に向けて、信じますと祈りましょう。そうすれば真の平安を得ることができ、平安の義の実を結ぶことができます。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

    信仰を使うようになると、約束のものを信仰で見ることができるようになります。聖書の言葉を信じることで、平安を得て喜ぶことができるようになるのです。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)

   神がせっかく信仰を与えてくださっているのですから、あなたの心に平安を結ばせてくれる信仰を使いましょう。必ず平安を手にすることができます。信仰を使って、今抱えている問題を告白し、解決を見ましょう。真の平安は、神を信頼するところから始まります。それが天国まで持っていける実であり、私達が求めている目標です。患難にぶつかったら、祈って、患難から真の平安を手にしましょう。