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2015年月11月29日
礼拝メッセージ
(新約聖書 マルコの福音書 4:1〜)
『イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。』(新約聖書 マルコの福音書 4:1〜12)


「神の国のたとえ」

   イエス様が神の国についてたとえで話す理由は、「彼らは聞いてもわからないから」です。これは「人は自分の聞きたいようにしか聞かないものだから」と言っておられるのです。
   人は、どんな物事も、自分の経験を土台にして理解することしかできません。さらには、その経験によって、何が大切なことか、一人一人がすでに自分の中に答えを持っています。そして、その答えを支持し補強するように、聞いた言葉を解釈するのです。これが「自分の聞きたいように聞く」ということです。
   私達の経験は、この世界の価値観によるものです。この世は死に支配され、すべてのものはやがて滅びます。限られた時間の中で、人から良く思われ、安心するものを手に入れ、良い結果を出すことが要求される世界と、永遠なる神の国とでは価値観がまったく違いますから、どうしても神様と私達との間にギャップが生まれてしまい、神の言葉を正しく理解することができないのです。
   ですから、神の国を正しく理解し、神の御心は何かを悟るためには、あなたの価値観を変えなければなりません。神の恵みを、自分の聞きたいようにしか聞かず、価値観を変えようとしないところに私達のつらさの原因があります。
   聖書は、私達をつらさから助け出すため、私達を罪から贖い出し、死の世界から永遠の世界に連れて行くために書かれたものです。ですから、神の言葉を正しく理解するためには、罪とは何かを正しく理解することが大切なのです。
   聖書が教える罪とは、神の律法である聖書に違反することです。つまり、罪とは神と異なる思いを持つことであり、これを肉の思いと言います。神の律法は人間が考える道徳と似た部分が多いため、多くの人が、肉の思いとは、道徳に反する人間の欲のことだと考えています。
   しかし、人が神と異なる思いを持つようになったのは、人間の世界に死が入ったことによるものです。罪は本来人間に備わっていたものではありません。ですから、罪という問題を解決するポイントは、人間の側ではなく、死の世界の側にあるのです。

「罪とは何か」

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:15)

『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:17、18)


   一人の人とは、アダムとエバです。夫婦は一体として、一人と数えられます。アダムとエバが神の言葉よりもサタンの言葉を信頼するという罪を犯したために、この世界に死が入り込んできました。
   「罪に定められた」とは、何をやっても罪を犯すことになってしまったということです。これは、「死に支配されるようになった」という意味と同じです。パウロの表現によると、「正しい人は一人もいなくなってしまった」ということです。

『それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:21)

   罪は、死によってもたらされたものです。あなたの罪によって死が入ったのではなく、死が私達を支配するようになったことで、罪が私達の上に君臨するようになったのです。つまり、人間の罪の原因は死です。人が根本的に罪から救い出されるには、死から贖い出されなければならないのです。
   アダムとエバの過ちによって、人間の世界に死が入り込み、人は皆、死に感染し、罪という病気を発症してしまいました。これと同じように、今度は、イエス・キリストを通して、恵みが広がり、その恵みによって私達はいのちをいただき、永遠に生きることができるようになったということです。
   罪の原因が人間にあると考えたことで、私達は、互いに罪を責め合ってきましたが、罪の原因は死にあるのですから、死を取りのぞくことが問題の解決になります。あなたが原因で罪を犯しているなら、あなたの行いによって救われなければなりませんが、死が原因でそうなったのだから、あなたは何の行いがなくても救ってもらえるのです。あなたが罪人になったのは、あなたの責任ではありません。
   これが神の恵みなのです。罪は死によって感染した病であり、病の責任はあなたにはないから、行いによらず信じるだけで救われるのです。私達は皆自分の罪に責められ苦しんでいます。この苦しみは、あなたのせいではなく、あなたがかかっている病気のせいだから、病気をいやしてあげようと神は言われるのです。だから、「救う」と訳されているギリシャ語に、本来「癒す」という意味の言葉が使われているのです。
   誰でもイエス様のもとに罪という重荷を持ってくれば、荷を下ろさせ休ませてくれると、イエス様は言われます。ところが、罪に対して誤った理解があるために、イエス様がいくら説明してもわからないのです。イエス様は、私達がこのことをわかるようになるために、十字架にかかったのですイエス様はあなたの罪を罰するためではなく、赦すため・いやすためにこの世に来たのだと示すために、十字架にかかったのです。

「種まきのたとえの続き」

   神から離れた世界で生きている人間は、自分の経験を基準に理解しようとする限り、神の国について具体的なことを話しても、正しく理解できません。ですから、神の国のことはたとえで話すとイエス様は言われました。しかし、この種まきのたとえは重要なので、次のような説明を加えておられます。

『そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。』(新約聖書 マルコの福音書 4:13〜20)


   御言葉をサタンが持ち去るとは、死の恐怖が神の言葉を拒否させることを意味しています。
   死とは、神との関係を失うことです。アダムとエバが、神との関係を失ったことによって、人は神の愛が見えなくなり、「愛されたい」という強い思いが心を占めるようになりました。満腹の時には、食べたい欲求が起きないのと同様、神の愛に満たされている時には、愛されたいという欲求は生まれません。しかし、神が見えなくなったことにより人間は愛されることを求めるようになりました。神が見えない世界で私達が愛を求める先は人間です。人からの愛を受けるために、見栄えを良くしようとし、相手の期待に応えようとするようになり、こうして、人にとっては人が神になりました。また、お金が神になりました。それでも足りず、人は偶像を作って拝むようになりました。
   このような、見えるものにしがみつき、愛されようとする生き方は、目に見えない神を信じて信頼する生き方とは正反対です。見えるものを信頼する人にとっては、神の言葉がどのように心の足しになるのか、見えないものに何ができるのか、まったくわからないのです。これが、死の恐怖が神の言葉を奪い去るということです。聖書は、死の恐怖を表現するために、サタン・悪魔という言葉を使っているのです。
   岩地にまかれるとは、御言葉は良いものだと思って一生懸命聞きはしますが、信じて悔い改めようとはしない人達のことです。というのも、神の言葉は神の世界の価値観によるものなので、この世界で実際に信じて行おうとすると困難が生じます。この世は神の価値観で生きていないからです。イエス様は、「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、戦いのためだ」と言われました。それは、この世で神の価値観で生きようとすると拒否され、迫害や困難が生じるものだからです。例えば、人は皆平等であるという聖書の考え方は、なかなか社会で受け入れられず多くの場面で抵抗に会いました。しかし、神の言葉を受け入れた人々が困難や迫害と戦い続けたことにより、今それは世界の常識となりました。困難や迫害に負けず、神の言葉を受け入れましょう。
   いばらにまかれるとは、イエス様を信じて永遠のいのちを頂いたクリスチャンのことですが、成長しようとした矢先、いばらが生えていて成長を邪魔されたために、実を結ぶことができないというのです。私達が実をならす邪魔するものは、第一に世の心遣いです。これが、死によってもたらされた、愛されたいという願望のことで、心を人に向けさせる原動力です。心がいつも神ではなく人に向いているため、神の言葉が入らず、信じたのに信仰の成長がありません。また、富の惑わしによって、見えるものを信頼するために神の言葉を食べられません。
   イエス様の弟子であるペテロも初めは、世の心づかいによってイエス様の言動に忠告を与えましたが、この時イエス様は、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。」と厳しく注意なさいました。世の心づかいや富の惑わしを排除しなければ、せっかく根を張ったのに信仰が成長せず、なかなか平安を得ることができません。
   良い地にまかれるとは、この世の心づかいや富の惑わしと戦って、多くの実を結んだ人のことです。神様は、この生き方を目指すように教えておられます。福音は私達に平安の実を結ばせます。神の言葉は単なる知識ではなく、あなたが平安をつかむための力です。この世の心づかいとの戦いとは、死の恐怖と戦うことです。そのために神が与えた武器は十字架です。十字架はあなたを愛しているという神のメッセージです。その愛にしっかり目が向くようになると、死の恐怖から解放され神の言葉を食べられるようになるのです。
   神の言葉を食べるようになると、さらに多くの素晴らしい平安に気づき、心が満たされます。人生はいつどんな患難に遭遇するか分かりません。しかし、心に神の言葉を蓄えておけば、どんな患難に出会ってもその言葉を食べて平安でいることができます。神の言葉にはそういう力があるのです。見えるものに満たされて何の問題もないことで平安を得るのではなく、見えるものを奪われても、神の言葉があなたの心の支えになり、平安を得られることが分かるようになります。世の心づかいという恐怖に負けることなく、神の言葉をしっかり食べて蓄えましょう。必ず多くの実を結ぶことができます。