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2015年月11月15日
礼拝メッセージ
(新約聖書 マルコの福音書 2:23〜)
パリサイ人との戦い

『ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。』(新約聖書 マルコの福音書 2:23〜28)


   安息日とは、週に1度、すべての仕事を休んで礼拝するように神が定めた日です。パリサイ人は、イエス様の弟子達が、安息日に畑で麦の穂を摘み始めたのを見て、安息日の規定に違反していると抗議しました。それに対してイエス様は、神は人のために安息日を定めたのであって、人をしばるためではないとお答えになりました。
   このパリサイ人の姿こそ私たちの姿です。律法主義が、規則に違反する人を責めたり裁いたりすることを正当化させ、間違った生き方をさせています。パリサイ人との戦いは、私たちの中にある律法主義との戦いです。

『イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。』(新約聖書 マルコの福音書 3:1〜4)

    パリサイ人は、イエス様を攻撃するチャンスをねらっていました。もしこの時、イエス様が病人をいやしたら、安息に仕事をしてはいけないという律法に違反したと言って、イエス様を責める口実ができます。私達も他の人に対して、何かに違反したり、悪いことをしたりしていないかと探しては、それを責めたてることを日常的にしています。
    イエス様は、パリサイ人の様子をご覧になり、「安息日にしてよいのは、善か、悪か。いのちを救うことか、殺すことか。」とお尋ねになりました。もし「善」と答えれば、イエス様が病人をいやすことを認めることになります。もし、あくまで律法を優先するなら、殺してはならないという神の律法に違反することになります。パリサイ人にとっては、どちらにしても都合が悪く、何も言い返すことができずに、黙ってしまいました。

神の怒り

『イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。』(新約聖書 マルコの福音書 3:5〜6)

    私達は、神の怒りは人の怒りとは異なるということを、十分注意しなければなりません。人の怒りには人への敵意が含まれますが、神の怒りに人への敵意はありません。それはただ罪に対して向けられるものです。医者が、病気に対して怒りを覚えても、病人には憐れみしか感じないように、神の怒りは罪に対するものであり、人に対して敵意を抱いたり、罰を与えようと考えたりするものではありません。

『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』(新約聖書 ルカの福音書 23:33〜34)

    イエス様は、パリサイ人の律法主義に対して怒りましたが、パリサイ人がイエス様を殺害する計画を実行に移し、イエス様を十字架につけた時、彼らを赦してほしいと祈っておられます。これが神様の思いです。イエス様の中にあるのは、罪に対する怒りだけであり、パリサイ人に何の敵意も持っておられません。
    神の怒りは、私達を苦しめている罪を取りのぞきたいという愛の表現です。ところが、多くの人が、神は私達の行いを怒り、罰を与えるのだと誤解しています。これは、怒りを人の概念で解釈しているからであり、行いによって人をはかる律法主義の考え方です。ですから、神の怒りは、表面的にはイエス様や弟子の行いを攻撃するパリサイ人との戦いですが、実際にイエス様が戦っておられた相手は律法主義なのです。


パリサイ人との戦いが意味するもの

1.宗教を終わらせる

    宗教とは、自分の可能性を追求して、神に近づこうとするものです。つまり、良い行いをすれば神に近づき、良いものを受けとることができるという考え方です。多くの場合、宗教が勧める良い行いとは、世の中で称賛されることです。ですから、宗教は律法で人をしばります。そのため、聖書では、宗教と律法は同じものだと考えます。自分を正しい人間だとし、人に認めてもらおうとするか、神に認めてもらおうとするかの違いだけです。
   イエス様は、律法に終止符を打つために来られました。つまり、イエス様が来られた目的は、宗教に終止符を打つことです。

『というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:3〜4)

    イエス様は、神が義としてくださるという福音を示し、人が自分自身で義を立てる必要はないことを教えてくださいました。律法は、行いの規定に従えば神と一つになれると教えますが、イエス様はこの考え方を完全に破棄し、イエス様が十字架で死んで復活したように、キリストと共に死んで復活することで、神と一つになれると示してくださいました。これが、信じるだけで救われるということです。立派なことをすれば救われるのではありません。行いを見て、救われたとか救われていないとか考えるなら、それはイエス様を十字架から引き下ろすことになると聖書は教えます。

『しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:5)

    イエス様が示した福音とは、行いには関係なく、神に助けを求めるならば誰であっても救われるという福音です。イエス様がパリサイ人と戦われたのは、パリサイ人があくまで行いによって救われると主張したからです。

2.敵意を廃棄する

『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15〜16)

    イエス様は、私達の中にある敵意を葬り去り、人に対する憎しみを滅ぼすために、律法と戦い、十字架にかかられました。
    なぜ人は人を憎んだり、愛せなかったりするのでしょうか。それは、私達がそれぞれ、自分の中に規定を持っているため、それを守らない人に対して、怒りや敵意を感じるのです。律法を強く持てば持つほど、違反するものに対して、敵意や怒りは大きくなり、殺意までも生まれます。私達は、怒りや不満を持つのは人のせいだと思っていますが、そうではなく、こうすべきだという律法を相手に突きつけている、あなた自身の問題なのです。しかし、怒りや憎しみは自分の中にある律法が生み出しているという、このからくりに多くの人は気づいていません。
    イエス様は、私達が律法を持つようになった原因を根本的に解決し、律法を廃棄して敵意を葬り去るためにこの世に来られました。私達が、「ねばならない」という律法を持つのは、律法を守ることで立派な人間だと証明し、愛されようとしているからです。それは、自分が愛されていないことを知らないからです。自分を正しいとし、人をさばき、憎むのは、自分が愛されていることに気づいていないからです。そのために、どうすれば人の歓心を買えるかと相手の期待に応えることが律法になり、世間体を気にして律法の奴隷として生きています。これが苦しみの究極の原因なのです。
    そこで、イエス様は、私達を苦しめる律法を破棄するために十字架にかかり、あなたを愛していることを示しました。これ以上の愛はありません。イエス様の十字架は、あなたを愛していると知らせるためのものです。イエス様は、宗教を終わらせるだけでなく、私達の中から敵意と怒りを取り除くために律法と戦い、十字架で示した愛によって律法を無効としたのです。

3.律法を成就するため

『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:17)

    イエス様は律法を終わらせましたが(ローマ10:4)、それは好き勝手に生きても良いということを示すものではありません。律法を終わらせる主が、律法を成就するとはどういうことでしょうか。

『 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』(新約聖書 マタイの福音書 22:36〜40)


    神が教える律法とは「神を愛し、人を愛すること」です。聖書のすべての教えは、これを目指しているのです。つまり、イエス様は、私達が本当の意味で神を愛し人を愛せるようになるために来られたと言われたのです。
    イエス様が廃棄する律法は、神の律法ではなく人が作った律法です。それは神の律法に対して、罪の律法と呼ばれます。神の律法を自らの義を証しし、人を裁くために使うことで、罪の律法にしてしまったのです。人間が作った罪の律法を破棄し、神の律法を正しく使えるようにすることが律法の成就なのです。
    神を愛し人を愛するという律法を成就するためには、まず救われて、神との関係を回復しなければなりません。それは、人の努力によるものではありません。神に助けを求めれば誰でも救われます。そして、多くの罪が赦された人ほど神に感謝し、神を愛するようになり、人の罪を見ても赦せるようになって愛せるようになるのです。イエス様は次のように語られました。

『 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。』(新約聖書 ルカの福音書 7:41〜43)

『だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』』(新約聖書 ルカの福音書 7:47)


    神を愛し人を愛することができるようになるためには、多くの罪が赦される経験をしなければなりません。これを聞いたあなたは、もしかすると、自分はあまり悪いことをしてこなかったから、赦されようがないとがっかりするかもしれません。しかし、それは自分が罪人であることに気づいていないだけです。人は、道徳的な行いが立派なら、自分は罪人ではないと考えます。しかし、心の中はどうでしょうか。聖書はすべての行為は思いから始まり、思いを持ったら、実際に行ったことと同じだと教えます。つまり、実際に人を殺すのも、心の中で「馬鹿だ」と思うのも、同じ罪だということです。殺人の始まりは怒りです。聖書の基準に照らすならば、私達は毎日怒りを覚えることで、何人殺しているかわかりません。たまたま行いを制御することができたからといって、私達はその思いを持つことをどうすることもできないみじめな罪人なのです。
    そのことにあなたが気づかない限り、罪が赦されるという意味もわからないし、神を愛することもできるようになりません。自分が病気だと気づかなければ、医者に行きませんが、病気だと気づき、重病であればあるほど治った時医者に感謝するようになります。
    罪は病気であり、イエス様は医者です。主は、私達がいやされるために、罪を告白するように教えています。罪は病気であり、人の価値を定める基準ではありません。ただ、治療を受ければいいだけです。それによって、いやされて、ますます神を愛するようになり、敵意が取り除かれて、神を愛し人を愛せるようになるのです。
    どんなに道徳的に素晴らしい人でも心の中はごみの山です。多くの人はそれが罪だと気づかずに生きています。しかし、その罪を処理しきれないと心を病んでしまいます。主はそれをいやしてくださると言っているのですから、あなたはただ罪の重荷を神の前に持っていけばよいのです。
    あなたが怒りを感じる時、それは赦されていることに気づいていない時です。神の前に重荷をおろしていやされ、神を愛し人を愛せるようになりましょう。それが律法と戦うということであり、神の律法を成就するということです。あなたの心の重荷をおろせば、それだけで良いのです。
    あなたを変えるのは、知識でも、お金でも、名誉でもありません。イエス様が、あなたを赦し、愛されていることにただ気づくことです。そうすればあなたは新しい人生を生きることができるのです。