ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2015年月11月1日
罪が赦される
(新約聖書 マルコの福音書 1:1〜17)
   イエス・キリストは、罪を赦すためにこの地上に来られました。この「罪」に対して、私達が各自の持つ勝手なイメージで理解をしていると、神が与えてくださっている素晴らしい罪の赦しを、正しく理解することができません。罪について正しく知り、神との正しい関係を知りましょう。

『数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 2:1〜5)

   イエス様は、病気が癒されたいと願って来た人に対して、病気のことには一切ふれず、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。それは、イエス様が来られた目的は、罪を赦すためだからです。イエス様は確かに病気をいやしてくださいます。しかし、病のいやしは一時的なものであり、一番大切なことは罪を取り除くことです。

神が取り除くものは何か

   罪とは、心を神に向けないことです。なぜ人は心を神に向けないのでしょうか。
   その原因の第一は死です。死とは、神との関わりを失っている状態のことで、人は生まれながらに死んだ状態で生まれてきます。つまり、心を神に向けたくても向けられないのです。ですから聖書にある「罪」という言葉が、そのまま「死(神との関わりをなくした状態)」を意味している場合もあります。
   第二の原因は恐れです。クリスチャンになり、神との関係を回復した後も、見えるものに頼ってしまったり、不安や恐れにさいなまれたりして心を神に向けられないのは、恐れがあるからです。私達の体は死の世界に生きていて、死に対する恐怖が人を見えるものにしがみかせ、争ったりむさぼったりする行いを誘発しています。このような行いを聖書は「肉の行い」と呼び、罪だと教えています。死の恐れに支配されている状態を、聖書は死の恐怖の奴隷と言っています。
   つまり、罪の原因は死と恐れです。恐れは肉の行いを生み出し、結果として神に心を向けさせません。聖書が「罪」と言っている時、その内容は、死を指している場合と、恐れが生み出す肉の行いを指している場合の二通りがあることに注意しましょう。
   では、マルコ2:5「あなたの罪は赦された」とは、どちらの罪を指しているのでしょうか。「イエスは彼らの信仰を見て」とあることから、彼らはすでに神との関係を回復していると知ることができるため、この場合の「罪」は「肉の行い=恐れ」を指していると理解できます。イエス様は、様々な不安や恐れを抱えていた病人に対して、あなたの恐れは取り除かれたと言われたのです。
   恐れや肉の行いといった罪は、人間に死が入ってきた時に生じたもので、本来人間が持っていたものではありません。ですから、神はそれを取りのぞくことができます。つまり、罪とは死がもたらした病気であり、神によっていやされるものだと理解することができます。
   罪とは何かを正しく理解しなければ、福音を正しく理解できません。いくつか例を見てみましょう。

『死んでしまった者は、罪から解放されているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:7)

   この「罪」は、肉の行いではなく「死」を指します。ここで語られている「死んでしまった者」とは、キリストの死にあずかるバプテスマのことです。 『それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:4)とあるように、キリストの死にあずかるバプテスマによって、神との関係が回復されたことを意味しています。
   一度神との関係を回復したら、二度とその関係を失うことはありません。クリスチャン同士が互いに「あなたの罪は赦されている」という場合、それは「あなたと神の関係は回復されて、その関係は二度と壊されないのだから、何も心配することはない。」という意味です。また、これが「罪に対して死んだ」という意味でもあります。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1)とある通りです。

   神との関係を回復するには、ただ「神よ、助けてください」と、神にあわれみを求めるだけです。しかし、関係を回復しても、なお私達の中には恐れが住みついています。この恐れによって、心を神に向けることができず、信頼関係を築くことができないのです。神を知っていることは大変素晴らしいことですが、それだけで終わることなく、さらに深い信頼関係を築くように、心を神に向けなさいと神は望んでおられます。そのために、心を神に向けさせないようにしている罪(肉の思い)を取り除きたいのです。それは、肉の思いを支配している恐れを取り除くことです。その方法は、神に罪を告白することです。そうすれば、いやしを受けとることができます。

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   ここで神に言い表す「罪」は、「死」ではなく「肉の行い」のことです。恐れによって神に心を向けずに肉の行いに走ってしまいます。    聖書の中の「罪」という言葉が、神との関わりがないという意味の死を指しているのか、肉の行いを指しているのかは、文脈で判断するしかありません。ギリシャ語の原文では、肉の行いを表す「罪」は複数形で書かれており、死を意味する「罪」は単数形で書かれていることが多いのですが、これも明確なものではありませんし、日本語訳には反映されていないからです。
   しかし、私達が理解しておくべきことは、悔い改めて神との関係が回復したクリスチャンが、何を何のために悔い改めるのかという点です。それは、肉の行いを告白し、いやされて、神との信頼関係を築くためだということです。
   神との関係を回復した者は必ず天国に行けます。しかし、神との信頼関係を増し加えるために、肉の行いを告白しいやされて平安を得ることを神は望んでおられるのです。このことがわからないと、救われても行いが変わっていないから天国に行けないのではないかという的外れな不安にさいなまれてしまうのです。決してそのようなことはありません。

赦され、いやされ、恐れが締め出される

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

   全き愛とは、十字架の愛のことです。私達が罪を言い表すことで、十字架の愛が見えるようになり、それによって恐れが締め出されていきます。これが、罪が赦されるという体験です。「神が罪を赦し、いやす」とは、恐れを締め出すということではあり、決して罰が赦されるという意味ではありません。
   あなたが、悪いことをしたなと思う時、あるいはつらい時、「神様助けて」と祈るなら、必ず神の愛にふれることができます。神によって造られた魂が必ずそれを理解するのです。こうして、恐れが締め出され、それに伴って少しずつ神に心が向くことで、神との関係が築かれ、平安を得ることができます。これが、罪が赦されるということであり、いやされる工程です。
   悪いことをしたから罰を赦してもらうために悔い改めるのではありません。罪という病気によってつらさを感じている心をいやしてもらうために悔い改めるのです。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   いやされるために、罪を言い表しなさいと教えられています。罪はいやしの対象です。そのことを、「罪が赦される」と言うのです。イエス・キリストが中風の病人に対して「罪は赦された」と言われたのは、「あなたの罪はいやされ、あなたの恐れは締め出された」ということです。
   このように、「罪が赦された」という言葉には、「神との関係が回復した」という意味と「恐れが締め出された」という二つの意味があります。神を信じている者にとっての「罪の赦し」とは恐れを締め出すことです。そのために、罪を言い表す必要があるのです。

罪を赦すことができる唯一の方

『ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。『この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。』』(新約聖書 マルコの福音書 2:6〜7)

   「罪を赦すことができる方は神しかいない」とは、その通りです。ですから、人の罪を指摘し、さばくことができるのは神だけです。私達は、神に罪をさばかれるのは怖いことだとイメージしがちですが、そうではなく、神が罪を指摘するのは、その罪を赦し、いやすためです。医者は病を知り、治療の方法を知っているので、病人に病を指摘し、治療に導きます。神は罪を赦し、いやすことができるので、人の罪を指摘するのです。人は人の罪を赦すことはできません。ですから、私達は人をさばくことはできないのです。それなのに人は神に代わって人をさばき、自らを神にしています。さばくことができる方は神しかおられません。私達は人をさばくのではなく、神に祈るようにとアドバイスすべきです。イエス・キリストはこのことを教えるために、姦淫の現場でとらえられた女性をさばこうとする人々に対して、「この中で罪を犯したことのない者から石を投げなさい」と言われました。私達は人に石を投げる資格を持っていません。人は、赦すことも裁くこともできません。イエス・キリストの十字架しか、人の罪を贖うことはできないのです。

『彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。』(新約聖書 マルコの福音書 2:8〜12)

   中風で寝ている人に対して、「あなたの罪は赦された」と宣言するだけならば、誰にでもできる簡単なことです。そこでイエス様は、本当に罪を赦す権威を持っていることを人々に示すために、人々に見える病をいやされました。これによって、イエス様の名が広まるようになりました。

神の声は罪人に届く

『イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。』(新約聖書 マルコの福音書 2:13〜15)

   アルパヨの子レビとは、マタイのことです。当時取税人は、ユダヤ人でありながらローマ帝国にへつらい、同胞を裏切り、わいろをむさぼって人々を苦しめる存在として、皆から軽蔑される職業であり、罪人の代表でした。その取税人だったマタイに対して、イエス様は「弟子になりなさい」と声をかけ、多くの罪人と共に食事をしたとあります。
   ここから、神が声をかける者は罪人であることがわかります。むしろ、罪人しか神の声を聞くことができません。人は皆罪人ですから、神はすべての人に声をかけておられるのですが、自分が正しく立派な人間だと思っている人は神の声を聞くことができないのです。 ですから、皆さんが神の声を聞くことができるかどうかは、自分が罪人とだと自覚するかどうかにかかっています。
   これが神の福音です。立派な人ではなく、自分など取るに足りないと思っている人が、神の声を聞くことができるのです。自分の病気は自分で判断し良くすることができると思っている病人は、医者の言うことを素直に聞きません。しかし、自分は重症で自分ではどうすることもできないと思っている人は、医者のアドバイスを素直に受け入れます。自分は罪人だと意識することができ、いかに重症かに気づくことが必要です。私達の罪の病は必ず死に至る病です。どんな人でも、肉体の死と同時に滅んでしまいます。このことを人間はどうすることもできません。しかし、神はこの病を完全にいやし、あなたを助けることができます。
   人々は、何か良いことをしなければほめられない。愛されないと勘違いしています。ですから、なかなか自分がどうすることもできない人間だと認めることができません。しかし、その現状に気づかなければ、神の声を聞くことができません。

『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』』(新約聖書 マルコの福音書 2:17)

   神は、罪をいやすために罪人を呼び集められます。
   神と私達との関係は、良いことをしてほめてもらう関係ではなく、いやし助けていただく関係です。そのことによって、私達が神に心を向けて、神の与える平安を受けとれるようにするために来たのです。神は医者であり私は病人であると自覚することは、神は救い主であり私は罪人であると自覚することです。こうして神との正しい関係を築くことによって、あがなわれ、救われ、いやされ、平安を手に入れ、そして見える人を愛せるように変えられていくのです。あなたが、自分は神のいやしを必要としていると気づくことができれば幸いです。
   イエス・キリストは、宣教の開始にあたり、「私が来たのは罪を赦すため。あなたと共にいてあなたを助けるため」であることを、徹底的に教えておられるのです。