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2015年月10月25日
礼拝メッセージ
(新約聖書 マルコの福音書 1:34〜)
   私達が住んでいる地球は実は非常に速いスピードで動いているのですが、そこにいる私達はまったくそれを感じないで生活しています。私達は五感から得られる情報を信じて生きていますが、このように正しい情報を伝えていないこともあります。人が信じている情報の中で、最大の間違いは、自分達が生きていると思っていることです。聖書は、人は皆、生まれながらに死んでいると教えています。この真実を知ることから、素晴らしい神の福音が見えてくるのです。

悪霊の追い出し・病のいやしと福音

『さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言った。イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。』(新約聖書 マタイの福音書 1:35〜39)

   イエス様はよく一人で祈られました。「寂しいところで祈った」とは、人との関わりがない場所で、人からの義(人から愛されたり良く思われたりすることで心を満たすもの)を得られない状況にご自身を置かれたということです。このことは、孤独を感じる時こそ、神がそばにいてくださることを知り、神と関わるチャンスであることを私達に教えています。当時の人々にとって、祈りとは人々の前で厳かに雄弁に語るものでした。しかし、そうではないのです。
   イエス様が祈っておられると、弟子達がやってきたために、イエス様は「人々に福音を知らせよう」立ち上がります。そして、悪霊を追い出されました。「福音(良い知らせ)」を知らせることと、悪霊の追い出しには関係があります。イエス様は「悪霊が追い出されるのを見たなら、神の国が来たことを悟りなさい。」と語られました。つまり、悪霊を追い出すことで、福音とは悪を追い出して神の国が実現することであると、象徴的に見せているのです。

『さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。』(新約聖書 マタイの福音書 1:40〜42)


   現在らい病という病名は、差別用語として使われていません。聖書でらい病と呼ばれている皮膚病が実際にどのようなものだったのかはわかりませんが、イエス様はこの時、「きよくなれ」と言って病をいやされました。「きよくなる」という言葉は、病のいやしの時だけでなく、罪がゆるされる時にも使われる言葉です。それは、罪の原因も病気の原因も死によるものだからです。
   人は皆死によって時間の制限を突きつけられ、そのために結果が出ないと怒りを感じ、人を愛せよという神の戒めに違反しています。また、死を持たなかった時には、けがや病気の影響を受けることはなかったのですが、死ぬ存在となったためにけがや病気で死ぬようになってしまいました。人間だけでなく、この世界全体が死に閉じ込められ、天変地異も起こるようになりました。
   このように私達に苦しみを与えているすべての原因は死です。ですから、罪がゆるされるのも病気が癒されるのも、死から贖い出されることを意味するのです。イエス様の御心は、私達が死から贖い出されることです。

「良い知らせ」とは何か

『そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。』(新約聖書 マタイの福音書 1:43〜45)


   なぜイエス様は、病をいやした人に「誰にも言わないように」と注意なさったのでしょうか。
   それは、イエス様が伝えようとしておられる福音の内容を、人々が勘違いしないためです。イエス様は「私は福音を伝えるために来た」と言われましたが、「福音」とは単純に「良い知らせ」という意味です。私達が抱えている問題が何かわからなければ、何が良い知らせなのかがわかりません。自分の現状を知り、問題がわからなければ、神が届けようとした福音を理解できず、別のものを福音だと思ってしまいます。
   人はそれぞれ、経済的問題、健康上の問題、仕事の問題や人間関係など、様々な問題を抱えています。しかし、これらの問題には共通した原因があります。それは、死です。すべての問題の原因を探っていくと、最終的に死に行きつきます。神の福音とは病気がいやされることではなく、死から贖い出されることなのです。

私達が抱えている問題とは

   すべての問題は死から始まっています。神がこの世界を造られた時には、人間には何の問題もありませんでした。この時神様は、アダムに一つの注意を与えました。「園の中央にある善悪の知識の木の実だけは、食べてはいけない。食べたら必ず死ぬから。」(創世記2:16〜17)という注意です。これが、聖書で初めて「死」という言葉が出てきた場面です。そして、エバとアダムが神の言いつけにそむき、その実を食べた結果、次のような変化が訪れました。

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(旧約聖書 創世記 3:7)

   これが、食べたら死ぬと言われた実を食べた結果です。つまり、これが死です。二人は、肉の目が開かれて、神の姿が見えなくなり、自分が裸であることに気づきました。これは、神との関わりを失ったために恐れが生じたことを表しています。この恐れによって、人間は、自分を隠して良く見せようとする生き方に変わりました。それが自分の腰のおおいを作ったという行為です。
   聖書で、「死」という言葉は、「滅び去る」という意味と、「神との関わりを失った状態」という二つの意味で使われていますが、そもそもの発端は、上記のとおり「神との関わりを失うこと」です。神との関わりを失った結果は、次のように記されています。

『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。・・・あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』(旧約聖書 創世記 3:17,19)

   被造物すべてが死に閉じ込められ、神との関わりを失って滅びるもの、朽ちるものとなってしまったのです。本来神が造った世界は永遠でしたが、罪によって滅びの束縛を受け、人は皆死んだ状態になったのです。このことがわからないと、聖書に書いてある福音が見えてきません。私達は皆死んでいて、宇宙のすべては皆滅び去るということです。ですから、私達にとっての本当の希望は、そこから解放されることしかないのです。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

    アダムとエバが悪魔に欺かれ、罪を犯したことで、全人類に死が広がりました。私達すべてが罪を犯した状態にあるということは、皆が死んでしまったということです。

『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:21)

   被造物すべてが共に苦しんでいる状態であり、それは死が原因であると聖書は教えます。今私達は、生きていると錯覚していますが、実は死んでいるのです。人は、肉体の滅びが死だと思っているので、その時が死だと思っているのですが、すでに生まれた時から死んでいるのです。死んだ者に希望はありません。私達にとっての希望は、死から贖い出され、生きることです。それが福音なのです。私達が死んでいる状態を聖書は次のように言っています。

『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:10〜11)

   「義人はいない」とは、すべての人が罪人、すなわち、すべての人が死んでいる状態であるということです。    この世界で人は、何かに希望を見出し、立派なことができる人とできない人では大きな違いがあるように思えます。しかし、私達は皆罪人であり、死人です。死人に高いも低いもありません。自分がどんなにできる人間だと思っても、反対にどんなにダメな人間だと思っても、大した違いはありません。人間が互いに優れているとかいないとか比べ合うのは、実に愚かなことなのです。
   死んでいる人間に死はありません。たとえ命が絶たれてもすでに死んでいるのですから、何の変化もありません。ですから、私達にとっての希望は死の状態に死ぬことです。十字架は、この世に対して死ぬことができると教えています。

死ぬことができるという福音

   イエス・キリストは、十字架の死という希望を私達に与えてくださいました。十字架に死ぬとは、死に対して死ぬことで、生きることができるようになることです。神がもたらした希望は、死がない世界に死をもたらしたということです。

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:1〜6)



   あなたがたは、生きているように見えて、実は死の世界で死んでいるものでした。しかも、その見せかけの命も罪に苦しんでいました。神は、死んでいた私達が死ぬことによって、生きる者となる希望を与えてくださったのです。
   こうして私達は今、イエスによってよみがえらされて、天の御座に座っているのです。救われたというこの現実が見えないと、見せかけの世界で一喜一憂する生き方をやめられません。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6:14)

   「十字架につけられた」とは、「この世に対して死んだ」ということであり、この世も私に対して死んだものです。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

   神の福音は、すでに死んでいた私達に死をもたらして、死の世界と縁を切らせてくださいました。マイナスにマイナスをかけて、生かしてくださったのです。

『もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:29)

   死者のゆえにバプテスマを受けるとは、死んだ人の代理でバプテスマを受けるということではありません。死んでいたのはあなた自身です。死んでいた私達がよみがえって生きる者になったと聖書は一貫して教えています。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24〜25)


   イエス様が「まことに、まことに」と言われるのは、最大限の強調をしたい時です。24節と25節は同じ内容が連続して語られ、それぞれ「まことに、まことに」と強調されています。「死人が神の声を聞いて生きる時が来るようになる」、これが神の福音です。私達は死んでいたのがよみがえったのです。

神のさばき

   私達がすでに死んだ状態だということは、神は私達をさばく必要はないということです。死人に対して何も要求することはできず、罰を与える必要もありません。良い行いをしなければ天国に行けないのではなく、死人にはさばきすらありません。

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17〜18)

「すでにさばかれている」とは、すでに死んでいるということです。死人が唯一救われる道は、いのちを与えられて助けられることです。イエス・キリストは、死人にいのちを与え、救うために来られたのです。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

   ところが、別の箇所ではイエス様ご自身が「わたしはさばきのために来た」とも言っておられます。また、確かに旧約時代には神が人をさばかれたとあります。

『そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:39)

   しかし、注意深く聖書を読んでいくと、神が人の罪を裁き、断罪なさる時には、必ず贖いと赦しが伴っていることが分かります。つまり、神は赦すために罪を指摘しているのです。

『ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。』(旧約聖書 エレミヤ書 36:3)

   神が人を断罪するのは、さばくだけで終わらず、赦すためです。聖書が教える「赦し」とは、罪の原因である死から贖い出すことです。しかし、人の裁きは赦すことができません。なぜなら、私達には人の罪を赦す権利はないからです。
   神が人の罪を指摘するのは、現状に気づかせるためです。ちょうど医者が病気を治すために、病気を指摘するのと同じです。神が私達の罪を指摘するのは、罪をいやし、取り除くことができるからです。神の裁きは裁きで終わらず、必ず赦しとセットになっているために、最終的には裁く意図はまったくないのです。
   私達人間には罪を赦す力もないし、贖い出すこともできませんから、裁く権利はありません。私達の裁きは単なる自己満足に過ぎず、自分を義とする行為であり、自らを神とする行為で無責任なものです。しかし、神が私達の罪を断罪するのは赦すためです。そこには愛があります。神の怒りと人の怒りはこのように根本的に違うのです。
   神は誰一人滅ぼさず、誰一人裁いておられません。なぜなら私達は皆すでに死んでいるからです。神は私達をどこまでも愛し助けようとしておられます。私達に危機を訴えて、現状に気づかせ、早く私のところに来なさいと言っておられるのです。それを教えるために十字架にかかられたのです。この世に対して死ぬことができる希望を示し、神と一緒に生きる者になりなさいと伝えるために十字架にかかってくださったのです。
   これが神と私達の関わりです。神はあなたを裁くために来たわけでも怒っておられるわけでもありません。神はあなたを愛し、あなたを死から贖い出し、あなたの魂はすでに生き返ったのです。そのことに気づくなら、私達はもっと平安に生きられます。私達のいのちは神の御手の中にあり、私達は生き返ったのです。これが神の福音です。決して病気が癒されることや奇跡を見せることが福音ではありません。イエス・キリストは、見えるものが福音だと人々が勘違いしないように、病をいやした人に黙っているように命じられたのです。見えるところに惑わされず、死んでいたが私達を神がよみがえらせてくださったという恵みに感謝していきましょう。