ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2015年月10月11日
礼拝メッセージ
(新約聖書 マルコの福音書 1:14〜)
神の国は来た

『ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」』(新約聖書 マルコの福音書 1:14〜15)

   イエス・キリストは、宣教を開始するにあたって、開口一番、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。この言葉に、神の福音が凝縮されています。
   新約聖書はギリシャ語で書かれており、「神の国は近くなった」の原文は、ギリシャ語の現在完了形です。つまり、「神の国は来て、今もそのままの状態が続いている」と理解するのが妥当です。さらに、イエス様が実際に話したアラム語では完了形です。新約聖書は当時の公用語であるギリシャ語に翻訳されていますが、実際にはイエス様は、ヘブル人が日常使っていたアラム語で「神の国は来た」と言われたのです。日本語で「神の国は近くなった」と言うと、これから近々起こることのような印象がありますが、そうではなく、イエス・キリストは「時が満ち、神の国は来た。」と言われたということです。
   「神の国」は、旧約から語られている神の約束です。アダムとエバが悪魔にだまされて、人間に罪が入り込んだ時に、神様は悪魔に対して「彼はお前のかしらを砕き、お前は彼のかかとに噛みつく」と約束されました。彼とはキリストのことです。つまり、悪魔はキリストを十字架にかけるが、キリストは悪魔を滅ぼす、と神様は約束なさったのです。その後神様は、ノアに対して「もう人を滅ぼすことはしない」と永遠の契約を立て、さらに、アブラハム、モーセ…と、各時代のリーダーや預言者達に、契約の内容をより詳しく語っていき、ダニエルには幻を通してこの契約をお見せになりました。

『私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。』(旧約聖書 ダニエル書 7:13〜14)

   イエス様がご自身のことを「人の子」とばれるのは、この御言葉からです。「人の子は、滅びることがない国を建て上げる」というこの預言を、神様ご自身が、次のように解説しておられます。

『しかし、さばきが行なわれ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。』(旧約聖書 ダニエル書 7:26〜27)

   つまり、神の国とは神が永遠に主権を持って治める国であり、イエス様は、この神の国が来たから、悔い改めて福音を信じなさいと言われたのです。
   当時のユダヤ人は、「悪が滅ぼされて、永遠の神の国が立てられる」とは、ダビデのような王が現れてローマ帝国を滅ぼして、イスラエルという国を神様が立て直してくださるのだと考えました。しかし、イエス様が建て上げる神の国は、そうではありませんでした。

神が滅ぼす悪とは何か

   預言や幻は象徴的に示されることが多いため、正しく理解するためには、聖書全体の中でどのように語られているかを理解することが重要です。「悪魔の頭を砕く」という表現を始め、一連の神の約束は、「悪を滅ぼして人間を贖い出し、安息の地に連れて行く」ということが語られています。
   神が滅ぼす悪とは何でしょうか。戦争、盗み、悪い行い、憎しみ、怒り……等、悪とは相手に敵意を持つところから生まれる行為であり、善とは愛する行為と言えます。敵意が生まれるのは律法があるからです。人は自分の中にある律法(ルール)に違反するものに対して怒りを覚えるのです。
   例えば、遅刻する生徒に腹を立てている先生に、校長先生が「生徒が遅刻する責任は私にある。先生に迷惑をかけて申し訳ない。」と、「遅刻者一人に対して10万円を先生に支払う」という規則ができたら、先生は遅刻する生徒に対して腹が立たなくなり、むしろ、生徒が遅刻するたびに嬉しくなることでしょう。
   このことは私達に、規則が変われば怒りも変わることを教えてくれます。私達は一人一人、このような「○○でなければならない」「○○であってはならない」というルール(律法)をたくさん持っています。この律法が人を裁く材料になり、自分の律法に違反するものにつまずき、腹を立て、裁かれた人はつらさを感じて、人間関係がうまくいかなくます。
   私達が人をさばくのは、自分の物差しのほうが相手の物差しより正しいと思っているからです。自分の律法に合わないと相手が間違っていると判断し、さばき、怒りを覚えます。しかし、もし自分の中にあるルールを変えれば、怒ったりさばいたりしなくて済むのです。問題は、自分の中にあるルールであり、私達は自分で自分を苦しめているのです。

『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)

   律法が、怒りや敵意、争いや殺人、人を愛せないという悪を引き起こす元凶であるのに、なぜ人は律法を持つことをやめられないのでしょうか。それは、人から愛されたいからだと聖書は教えています。子どもが行いを頑張って親の期待に応えようとするのは、親に愛されたいからです。相手に気に入ってもらいたいから相手の期待に応えようとし、その期待がそのまま自分を拘束する律法になっているのです。イエス様はこれを、「この世の心遣い」と言われました。
   私達が愛されたいと願う理由は、自分が愛されていると思っていないからです。人間は神様に愛され、神様と共に生きるために造られました。ところが、罪によって神との関係を失ってしまったため、愛されているにもかかわらず、愛されていることがわからなくなってしまったのです。神との関係がない状態を死と言います。つまり、死が律法を生み出しているのです。神の愛がわからないことが、自分自身を律法にしばりつけているのです。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   死が神の愛を見えなくさせ、愛されていないという不安と恐れを生み出し、律法を生み出して敵意を生じさせ、自分自身を苦しめています。これが、イエス様が滅ぼすと言われた悪です。つまり、イエス様は死を滅ぼすために来られたのです。死を滅ぼすということは、死人を生き返らせることを意味します。死人を救い出し、死のない世界、すなわち永遠の世界に移すことです。これが神の国の実現です。
   では、神様が生き返らせてくださる死人とは誰のことでしょうか。もし、この世の死者が実際に生き返ることだとすると、それはまだ起きておらず、神の国は遠い未来の出来事だということになります。しかし、イエス様は、「神の国は来た」と言われました。ということは、死人はすでに生き返ったのです。死人とは誰のことか、ヨハネの福音書に次のように書かれています。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:26)

   神の声を聞くことができる死人とは、体は生きていても神とのつながりがない人のことです。神とのつながりを失ったために律法が生まれ、悪が生まれました。つまり、死人が生きるとは、神との関わりを失っていた人が神を知り、神との関係が回復することです。これが、悪が滅ぼされて神の国が到来するということです。このように、死人とは誰を指すのかという理解によって、神の国の理解が大きく変わります。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)

   これは、すべて過去形で書かれています。信じた時点で神の国が到来したとは、神を信じ受け入れたことで、神との関わりを失って死の状態にあった人がその関係を回復し、死が滅ぼされて永遠のいのちを持ち、死からいのちに移されたということです。

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:5〜6)

神の国はいつ来るのか

   神の国はすでに来たのか、それともこれから来るのかという理解によって、私達の生き方が変わってきます。私達は罪の中に死んでいた者ですから、もし、神の国がこれから成就するものならば、私達はまだ死んでいます。しかし、イエス様は、これから起こることとしてではなく、すでに起こったこととして語られました。つまり、死んでいたあなたの魂はすでによみがえり、あなたは神との関係を回復したのです。あなたの終わりの日はすでに来て、あなたの魂はすでに天にあげられ、神の国に座っています。このことを「神があなたと共におられる」とか「あなたの中に神の神殿がある」などと言うのです。
   ただ、私達の魂は天にあげられましたが、体はまだここにあります。体は、この地上での命が終わり体が滅びる時、天でよみがえるのです。
   つまり、死人がよみがえるとは、まず魂がよみがえって天にあげられ、神と共に生きるようになり、次にこの地上での命が終わる時、体がよみがえるということになります。よみがえりは、魂のよみがえりと体のよみがえりの二度あるのです。
   聖書は確かに、信じた時点で魂がよみがえったと言っていますが、地上での体が滅び、朽ちない体に変えられて天にあげられることも、「よみがえり」「終わりの時」と言っています。それが、黙示録の中の出来事です。ヨハネの黙示録は、体が朽ちて神の国を見る時が来ることが黙示的に書かれています。神の国を見るまでの間、人は苦難を通りますが、それは失望しないで信じ続けるという信仰の訓練であり、神の国での歩みのためです。そして、私達は朽ちない体に変えられ、天に上るのです。そのため、すでに魂は神の国にあげられているのですが、神の国は来ると言う表現もされるわけです。
   大切なことは、救われて魂がよみがえった者はすべて朽ちない体に変えられて、神の国に移動するということです。イエス様はこのことを何度も繰り返し語り、あなたは必ず神の国に行くことができるからそのことを心配する必要はないことと、その時までに神をより信頼することができるように教えています。すでに恵みによって救われて天にあげられているという事実にどこまで気づけるかが神を信頼して生きるためには大切です。
   さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』(新約聖書 ルカの福音書 17:20〜21)

   当時パリサイ人は、神の国とは、見える神の国が地上に実現し悪が滅ぼされる時だと考え、それはダビデの王国の再現だと考えていました。しかし聖書が一貫して教えている悪とは「死」であり、神との関係が断ち切られている状態のことです。ですから、神の国とは神との関係が回復することであり、信じた時点で、死んでいた魂が生き返って神と共に生きるようになり、私達の中に神の国が実現したのです。あなたのただなかに実現した神の国を信じるなら、神の国を見ることができるようになります。死んでいた魂がよみがえり、神に愛されている自分が見えるようになり、愛されていることを知れば知るほど、律法から解放されて自由になります。神は、こうしてあなたを自由に生きられるようにしてくださるのです。

私達はすでに神の国にいる

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:17)

   私達は、古い自分はすでに死に、魂は生き返って新しく造られ、この世との縁は切れています。ところが、多くの人がこの事実になかなか気づけません。このことを放蕩息子のたとえ話から学ぶことができます。
   前半の弟の話は、どうすれば神の国に入ることができるかというお話です。それは、「赦して下さい」と悔い改めることです。悔い改めさえすれば、すべての罪は赦され、誰でもその魂は生き返って神の国に入ることができます。
   後半の兄の話は、神との関係を回復し神の国にいるのに、そのことに気づいていないクリスチャンの話です。兄は弟が良い着物や食べ物を与えられているのを見て自分と比較しつぶやいて文句ばかりを言いました。私達も人と比較してずるいと思ったり、つぶやいたりしてしまいます。この時、父は兄息子に対して、「私のものはすべてお前のものだ」と言いました。神はあなたに言われます。「あなたの魂は私と一緒にいるじゃないか。」
   あなたはすべて新しく変えられて神の国にいるのです。神の国はすでにあなたの中に到来しています。それなのに、そのことに気づかず、見える状況に不平不満をもらし文句を言ったりしていないでしょうか。それが、私達が戦わなくてはいけない罪です。
   神の国が来ているにもかかわらずそれが見えないことを、不信仰と言います。私達は不信仰と戦わなくてはいけません。神の国にいるにも関わらず、未だに律法で生きているあなたに、律法に死になさいと神は言っておられます。
   人は、良い行いをして称賛される人生をプラスと考え、何も結果を残せず悪い行いをする人生をマイナスと考えます。しかし、どんな人生であろうとも、私達の人生はすべて、死に飲み込まれて滅びる運命です。それは私達が皆罪人であるからです。
   立派に生きている人は律法に従って頑張ったに過ぎず、役に立たないと言われる人は律法に生きた結果敗北したにすぎません。律法にとらわれて自分の人生を見て失望したり一喜一憂したりしても、それらはすべて律法に従っただけで、神の目には同じ罪人です。私達は罪の結果、見える世界に生き、死に飲み込まれて滅ぼされます。私達の人生の前提は死というマイナスなのです。
   しかし、イエス・キリストはすべての人生をプラスにしてくださいます。これが神の義です。この神の義を知るとき、私達は真の希望を見出すことができます。
   神の福音は私達に、あなたは新しく造られた者だからすべてが新しくなっている、あなたのいのちはよみがえっており、あなたの体もよみがえると教えています。神との関わりを回復したことで、愛と平安という私達の望みはすべてかなっています。あとは体が滅びる時に神の国に入るだけです。そのことに気づく時、つぶやきは消えて感謝が生まれ、あなたは人を愛せるようになり、人とうまくやっていけるようになるのです。
   「時が満ち、神の国は来た。悔い改めて福音を信じなさい。」とは、神の国が来たことを信じるならば、あなたの人生は変わると教えているのです。今あなたは恵みの中にいるということを、イエス様は繰り返し教えています。神の国は自分の中にできたことに気づきましょう。
   私達が目指すべきは、すでに据えられた永遠のいのちという土台に気づくことです。もしあなたの心に不満があったり、あなたの口に不平がのぼったりすることがあるならば、神の恵みに気づいていない表れです。それが、私達が戦うべき罪です。罪とは行いではなく、神の恵みに気づかない不信仰のことです。この罪と戦い、神を信頼し、神の愛が見えるようになれば、あなたは変わります。目には見えないけれど、神はあなたを愛し、あなたと共に生きておられます。私達がこの事実に気づくように、イエス様は何度も繰り返し教えておられます。それが、開口一番「神の国は来た。」という言葉になって表れています。この事実に気づく時、すべてのことに感謝して生きる人生を生きることができるようになります。