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2015年月9月13日
「光は闇の中に輝いている」〜テトスの手紙を別の視点から〜

これまで学んできたテトスの手紙から教えられたことを、ヨハネの福音書を通して学びましょう。

神の愛は闇の中で輝く

『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:5)

   光はイエス・キリストを示します。闇の中でなければ光が見えないように、キリストの輝きは人生が暗闇の時にわかるものです。
   人は様々なものに輝きを見つけては、それを求めて生きています。闇とは、求めているものが手に入らない状況のことです。求めるものは各々異なりますが、そこには共通するものがあります。それは、「I am OK(アイアムオーケー)(私は良いものだ)」という評価です。もっと簡単な表現だと、他の人から「わぁ、すごい」と思われるということです。
   子どもだったらゲームやおもちゃを買ってもらうことを求め、学生は学業やスポーツで良い成績をとり、良い大学・企業に入ることを求め、社会人ならば出世や評価を求めます。その理由はすべて、「I am OK(私は良いものだ)」を確認するためです。聖書は、この「I am OK」を「義」と呼びます。そして、それを人から得ようとすることを「人の義」と呼びます。人間は、人から良く思われることを通して強くなろう、平安を得ようとしているのです。
   人間がそこまでして「I am OK」を得たいと願う理由は、人間は本来良いものとして造られているからです。ところが、悪魔にだまされて神との関係が壊れ、恐れや不安が生まれ、人は「I am not OK(アイアムノットオーケー)(私はダメなものだ)」と思うようになりました。これが罪の原点です。罪とは、神と異なる思いを持つことです。神が良いものとして造ったものを、ダメなもの、価値がないものと思うことが罪なのです。
   人間の体に病原菌に抵抗する機能があるように、私達の魂も、「I am not OK(私はダメなものだ)」という思いに抵抗し、追い出そうとします。そのために「I am OK」を取り戻そうとするのですが、すでに神が見えない状態のため、「I am OK」を求める相手は人しかいません。こうして、神から離れてしまった人間は、人の言葉に安らぎを求め、同情を求め、人の言葉を聞いて元気になろうとする生き方になってしまいました。聖書はこの生き方を、死の恐怖の奴隷と呼びます。聖書が教える死とは、神との関わりが壊れた状態のことです。人は神との関係が壊れたことにより「I am not OK」に支配され、人の言葉を求め続ける奴隷になってしまったのです。人間が人を判断する基準は比較です。こうして人間は、常に周りと自分を比べて、少しでも勝っているところを見つけ、「I am OK」を確認しようとするようになりました。そして、人からの評価が得られないと、暗闇の中に突き落とされた感覚に陥るのです。
   私達から人の義を奪い、闇に突き落とすものが患難です。人は、生きている限り、思いもかけないつらい出来事に遭遇します。しかし、この世の光が届かないところに落ち込んだその時、人は初めて闇の中に輝く神の光を見出すことができるのです。「あなたは素晴らしいものだ」と言っておられる神の義を知るのです。患難は決して神が与えるものではありませんが、誰もが出遭う患難を、神は益にしようとしてくださるのです。これこそが、闇の中に輝く光です。すなわち、私達にとって絶望こそが希望なのです。なぜなら、もし絶望しなければ、いつまでも人の義を頼って生き、神の義に出会うことができないからです。
   人の義は私達の心に一時的な安らぎを与えることはできます。しかし、それが継続して保たれることはありません。比較によって得られたこの世の平安は、比較によってすぐ不安に変わります。こうして比較し続けて満足と不安を繰り返し、そのすべもついに尽きる時、私達は闇を経験します。自分は良いものではない、愛されない、認められない、私は人から見捨てられたのだという絶望の暗闇に落ちるのです。しかし、神はこの時にこそ、神の義を見つけることができるようにしてくださったのです。
   神の義は、永遠に変わることのない平安をもたらします。それは、努力や行いによって得るものではなく、ただ受けとりさえすればいいものです。イエス・キリストは、私を信じる者には誰にでも神の義を与えると言われます。人の行いに左右されることのない神の義ですから、比較によって奪われることはありません。

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)

神が与える神の義

   体が食物を必要とするように、人間は「I am OK」という義を必要としています。「神の義」とは、神はあなたを価値あるものと見ている、つまり「あなたはOK」だと言われるのですが、イエス・キリストを信じて救われただけでは、「神の義」を食べることはできません。人々は、救われた後もなお、人の義を食べて生きています。せっかく神との関係を回復して救われたにも関わらず、人の義を求めている私達に、神は神の義を食べさせたいと願っておられます。
   多くの人は、「I am OK」を確認する方法は人の義しかないと思い込み、神に人の義を求めて祈るという勘違いをしています。しかし、神が与えたいのは、神の義であって人の義ではありません。神は、闇の中に輝く神の義を食べさせるために、私達を絶望に追い込むように導きます。神の義は、闇の中にいる時にしか食べることができないからです。そのために、人が患難に遭っている時、神は忍耐して待つということをなさいます。神は患難を通して人を絶望に導き、人の義を手に入れることができない状況に追い込み、闇の中で輝く神の義に気づくように導かれるのです。
   神はあなたに、人の義ではなく、神の義を食べさせたいと願っておられます。神は、人の義による喜びや平安を与えるためにこの世に来たのではありません。ですから、人の義を求めても答えられないのです。私達が、成功を求め、この世で自分が義となることを求めて祈っても、神はそれに対して何も答えず、沈黙なさることがあります。そして神は、むしろ、神の義を食べさせるために働きかけをなさいます。
   人は、絶望に陥った時、初めて神の義が見えるようになり、神に「あわれんでください」と叫ぶ時、神の義が食べられるようになるのです。イエス・キリストは、神殿でただ「主よ、罪人の私を憐れんでください。」と祈っていた取税人を義とされました。取税人とは、人々から嫌われ、世の中では義とされるすべを持っていない人です。絶望の中で「私をあわれんでください。」と祈るなら、誰でも義とされるのです。

『なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:29)

   「神を信じる人を御子と同じ姿に定める」とは、この地上で神を信じる者は、キリストと同じ姿になるよう定められています。これは天国の話ではありません。苦難に遭い、十字架にかかって死ぬという、この地上での御子の姿です。キリストは、人が栄光と見るようなものは何一つ持たず、ただ、神の栄光と神の義を求めました。
   この世界は人の義を求めます。ですから、神の義を求める者は苦難に遭います。この世に生きる私達が受ける最大の苦難とは、人の義を失うことです。ヨブは自分を義としようとして神と戦い、ヤコブは見えるものにしがみつこうとして神と戦いました。
   ペテロはイエス様についていこうとしましたが、人の義を手放すことができず、主を「知らない」と言いました。彼らの苦しみは皆、人の義を手放すことができないところにあったのです。彼らは苦しみの末、人の義を手放した時、真に強くされました。
   十字架に死ぬとは、このように人の義を手放すことです。それが、この世に対して死ぬということです。私達にとっての苦悩とは、苦難に遭い、人の義を手放すということです。
   しかし、イエス・キリストは、死んだだけでなくよみがえられました。私達は、十字架で死に、神の義でよみがえる者となったのです。患難によって、自分は弱く、取るに足らない者だと気づかされ、真の強さを得ることができるのです。これが、神が私達に与えたいと願っておられる、闇の中に輝く光です。

『神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:30)

   私達は神から義と認められ、永遠のいのちをいただきました。「さらに義と認める」とは、あなたが神の義を食べられるようにするということであり、「さらに栄光を与える」とは、安息を与えるということです。神を知っただけでは、平安を得ることはできません。神は私達を義とした以上、神の義を食べられるようにし、平安を与えようとなさるのです。
神の義によって強くされる
   神の計画は、私達を安息に導く計画です。この計画は、永遠の契約として初めにアブラハムに告げられました。安息を得るためには、どうしても、人の義を手放さなければなりません。人の義を手放し、神の義を得ることで、この世の平安とは全く異なる、真の希望・平安が得られます。
    神は、あなたを、苦難を通すことで生かすようになさいます。それが、私達を十字架につけ、よみがえらせるということです。こうして、神が与える神の義を食べるなら、人は強くなれるのです。
    患難や迫害を通して人の義を失い、自分の弱さに出会う時、闇の中で神の義が輝きます。行いに関係なく、神があなたを義とします。人の義は、あなたの弱さを蔑み、責めたてますから、人はどうしても自分の罪を隠そうとせざるを得ません。しかし、そんなあなたを見て義と言われる神の義を信じることができれば、人は真の強さを得ることができるのです。
   
『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:10)

   人の義を失い、この世の基準では弱いものになった時、富や名誉を失った時、人から見捨てられた時、何の価値もないと言われた時、私達は神の義を知り、強くなります。「弱くなって強くなる」……これが神の義です。この世では、多くのものを持てば持つほど強くなったと言われます。少ししか持っていない者に対して、もっと立派な人間になるようにと言い、私はこんなに強くて立派な人間だと誇ります。この世は人の義で強くなろうとしていますが、そんなものは患難が来ればいっぺんに吹き飛び、砕け散ってしまうものです。
    多くの人が患難に遭い、強さを求めて、イエス・キリストを信じました。ところが、神を認めて信じても、強くならないのです。神に対する知識を増し加えても強くならないのです。私達が強くなる方法は、神に認められていることを知るしかありません。あなたが神を認めるのではなく、神があなたを認め、愛している、そのことに気づく時、あなたは本当に強くなるのです。
    人は、自分がどんなものであるか行いを通して強くなろうとしますが、行いには関係なく神はあなたを愛しておられます。これが神の義です。この神の義を食べることができるのは、闇の中にいる人だけです。
   
『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:27)

   この世界で、人の義を持たない人は見下され、価値が無いと言われます。しかし、この世の物を何一つ持たない者こそが、神の義を持つことができます。自分は取るに足らない者だと絶望する、その絶望の闇の中に輝くものが神の福音なのです。
   そもそも聖書は、私たちは皆弱いものであり、何も持っていないと教えています。「伝道者の書」は、あなたは何も持たず、いつか死ぬ存在であり、あなたが握りしめているものは、ただ滅び、ちりに帰るだけで、それを握り締めているあなたは、獣と何も変わらないと語っています。私達は、この世の物ではなく永遠なるもの、神の義にしがみつかなければなりません。
   私達は皆弱く、何も持っていない……そのことに気づいた時、闇の中に光を見ることができます。神は、弱く取るに足らないものを選び、持たない者を持つようにされました。光は、闇の中でしか見ることはできません。ですから、絶望こそ希望です。人の義のすべを失い、行き詰った時こそ、真の希望なのです。聖書に、患難が真の希望を生み出すと書かれている通りです。
   神は、人の義ではなく神の義を手にしてほしいと願っておられます。神の義による平安は、この世の平安とは違い、あなたを真に強くしてくれます。キリストが十字架につけられて死んだように、一日も早く、この世の義を求めることに対して死にましょう。人からどう思われるかを大切にする生き方に対して死に、神が差し伸べておられる御手にしがみつき、神が与える義を受け取りましょう。