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2015年月8月16日
人は何と戦っている?

(1)罪と戦っている?

   私たちは、罪と戦うというと、神が人に示された律法をできるようにすることだと考えます。ですから人は、律法の行いができるようになることを目指します。しかし、それを目指せば目指すほど、自分のように律法を守らない人を見ると、『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。』(新約聖書 ルカの福音書 18:11)と、彼らを罪人だと言ってさばくようになります。そして、自分が律法の行いができたと思うと、『私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(新約聖書 ルカの福音書 18:12)と誇って祈るようにもなります。人をさばき、律法の行いを誇ることで、まことに自分は義人になったと錯覚してしまうのです。さらには、これで自分は罪に勝利したと思い、神から報いが得られると信じて疑わないから、神にこう言えしまいます。『そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。』(新約聖書 マタイの福音書 19:20)
   人は律法の行いを目指すことが罪との戦いだと思い、律法で罪人かどうかを判断し、「うわべ」で人をさばいてしまいます。しかしイエス様は、『うわべによって(律法によって)人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。』(新約聖書 ヨハネの福音書 7:24)と言われ、その判断が間違っていることを指摘されました。そうした「律法」による罪の判定は、「肉の行い」のできない人を見ると「怒り」を招くものであり、その「怒り」が、人を愛せよという最高峰の「神の律法」に違反しているからです。『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)。すなわち、私たちは「律法の行い」を目指すことで罪と戦っていると思っていますが、そのことで自らの心に「怒り」を招き、皮肉も最高峰の「神の律法」に違反してしまっているのです。

(2)「律法」の目的

   では、聖書はなぜ「律法の行い」を目指すことを教えているのでしょうか。
   聖書に、『罪とは律法に逆らうことなのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:4)とあります。ですから、罪と戦うとは、確かに律法の行いができるよう目指すことで間違いありません。そうでなければ神は律法を人に与え、それを行うよう命じたりしません。しかし、神が律法を行うように命じた意図は、罪と戦えないことを悟らせ、罪を取り除くことができる唯一のお方、キリストに導くためでした。『こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:24)。ところが、人は罪に気づくどころか、律法を行うことができたと勘違いし、義人になったと宣言しました。
   そこでイエス様は、今後は人が律法を誤って使うことのないよう、律法の行いは全て、神を愛し人を愛せよという二つの戒めにかかっていることを明らかにされました。『律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』(新約聖書 マタイの福音書 22:40)。つまり、人のする律法の行いには、全て「愛」が含まれていなければならないと言われました。その「愛」とは、『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 5:44)まで含みます。ところが、人は律法の行いを目指すことで罪に気づくこともなく、以前と変わらず、それが行えたと誇ったのです。律法で人をさばき、自らを義人としました。ですからイエス様は、「うわべ」で人をさばくなと言われ(ヨハネ7:24)、そうした律法主義と正面から戦われました。
   このように、律法の目的は、というより神の言葉が記された「聖書」の目的は、人を例外なく罪の下に閉じ込め、どうにもならない罪に気づかせ、キリストの治療にあずからせることにありました。『しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:22)。聖書は、何としても人をキリストの治療にあずからせるために、『律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:10)とし、完全に人を罪の下に閉じ込めました。
   では、罪と戦うとはどういうことなのでしょうか。そもそも、人は罪と戦えるのでしょうか。

(3)人は罪と戦えない

   そもそも人は、罪と戦うことなどできません。その理由は、アダムとエバの犯した罪を見てみればすぐに分かります。彼らは、ただ実を食べたいという思いを持っただけで、罪を犯したと見なされました。禁じられていた実を食べた行為は結果であり、神とは異なる考えを持ったことが罪でした。なぜなら、人は思いを抱くからこそ行為に至るのであって、思いがなければ行為に結びつかないからです。それゆえイエス様は、『だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:28)と言われました。人は悪魔の欺きによって、神と異なる思いを持ったことで罪を犯し、神との関係を失う「死」を背負うことになったのです。『罪によって死が入り』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)
   このことから、罪とは何かがさらに見えてきます。それは、神と異なる思いを持つことです。たったこれだけのことが罪であり、神との関係を壊す「死」をもたらしたのです。というのも、人は神に似せて造られ、三位一体の神が互いに一つ思い、「愛」を共有するように、人も神と一つ思いを共有するように造られ(創世記1:26)、そのために、人の魂は神のいのちで造られ、そうした神との関係の中でしか生きられないように造られていました(創世記2:7)。ですから、わずかでも神とは異なる思いを持つと、自動的に神との関係は壊れてしまい、人は永遠には生きられなくなります。
   つまり、神にとっての「罪」とは、神との関係を壊し人に「死」をもたらす、神と異なる思いを指しています。『罪から来る報酬は死です』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:23)。ゆえに罪と戦うとは、神と異なる思いを自分の中から排除することを意味しますが、そんなことは人には不可能です。ですから、人は罪とは戦えないのです。では、どうして不可能なのでしょうか。
   アダムとエバの場合、悪魔が神と異なる思いを持ち込みました。しかし、今日の私たちに於いては、「死」が持ち込んできます。つまり、人はこの世界で「死」を背負い続ける以上、神と異なる思いなど排除できないのです。排除するには、「死」に勝利するしかないからです。そんなこと、人には不可能です。では一体、「死」はどのような神と異なる思いを持ち込んだのでしょうか。
   人は元々、神と一つ思いの中で永遠に生きる者として造られ、生きるのに必要な物は全て神によって備えられていました。そのため、生きることの心配は何もありませんでした。しかし、人は悪魔に欺かれ、神と異なる思いを持ったことで神との結びつきが壊れる「死」が入り込み、永遠には生きられなくなりました。自らの手で働いて食物や着る物を手に入れ、最後はちりに帰る運命を背負うことになったのです(創世記3:19)。その時点から、人は何を食べようか、何を着ようかと心配するようになり、生きたいという願望を強く抱くようになりました。それは、明らかに神とは異なる思いでした。
   さらには、人は神との関係を失う「死」によって、神に愛されている自分が見えなくなり、愛されたいという願望を持つようになりました。そのため、人から愛されようと、必死になって人から良く思われることを目指しました。結果、神のことよりも人のことを思うようになりました。これは、明らかに神と異なる思いです。イエス様はこうした思いに対し、『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(新約聖書 マタイの福音書 16:23)と言われました。
   つまり、人に入り込んだ「死」は、人の中に「生きたい」という願望と、「愛されたい」という願望を生じさせたため、人はそれにより、「死の恐怖」から逃れようとしました。しかし、逃れられるはずもなかったので、「死の恐怖」から目を逸らす術を見いだすしかありませんでした。それが、人の心を快楽へと向かわせました。こうして「死」は、神と決して共有できない様々な異なる思いを人の中に持ち込ませたのです。
   一体この世界に、生きたいという願望を持たない人がいるでしょうか。愛されたいという願望を持たない人がいるでしょうか。生きることの心配をせず、良く思われようとしない人がいるでしょうか。何の欲望も持たず、お金に安心しない人がいるでしょうか。そのような人がいないことは、私たち自身がよく分かっています。なぜなら、私たち自身が、まさにそうした者であるからです。
   このことが意味するのは、人は死を背負っている限り、死がもたらしたこうした思いからは逃れられないということです。死に支配された世界に住む限り、神とは異なる思いを持ち、神との関係を壊し死に至らせる思い、心を神に向けないで神に反抗する思い、すなわち「罪」を持ってしまいます。こうした思いを「肉の思い」といいます(ローマ8:7)。それは、神に似せて造られた本来の私が持っていた思いではなく、あくまでも死によって誕生した思いであり、それが「罪」であることから、パウロは、『ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:17)と言いました。
   このように、人は、「死の体」を持つ限り、神と異なる思いである「罪」からは逃れられず、罪とは戦えないのです。「肉の行い」を制そうといくら戦っても、それは自分が良く思われたいという、神とは異なる思いからするのであって、最初から罪に敗北しています。つまり、人は、神と異なる思いを持つ中で何をしようと、それはすでに罪を犯した状態にあり、罪過と罪の中に死んでしまっています(エペソ2:1)。そのため、いくら見た目に立派なことをしようとも、その行いは十分に罪でしかありません。たとえ全財産を貧しい人に施しても、自分の命さえ犠牲にしても、神と一つ思いの「愛」に支配されていない以上、神の目には罪でしかありません。『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3)
   しかし、人はそのことに全く気づいていません。愛がなくとも良い行いができるようになれば、すなわち、神と一つ思いでなくとも律法の行いができるようになれば、自分は罪に勝ったと思い込んでしまいます。律法の行いを目指すことで罪と戦っていると信じて疑いません。ところが、実際は、何ら罪とは戦ってなどいません。そもそも人は罪人であり、罪とは戦えないからです。
   無論、この世界で人が平和に暮らすには、大いに「肉の行い」と戦う必要があります。たとえそれが「罪」との戦いになっていなくとも、「肉の行い」と戦わなければ、この世界でさらに苦しむことになり、また周りにも被害を与えることになるからです。とはいえ、こうした「肉の行い」との戦いは、神を信じない者でも当然のようにやっていることです。私たちが本当に知らなければならないことは、その誰でもやっている戦いは単に「肉の行い」との戦いであって、「罪」と戦っているわけではないということです。では、私たちは「肉の行い」と戦いながら、本当は一体何と戦っているというのでしょう。

(4)神と戦っている

   人は「うわべ」を良くすることが罪との戦いだと勘違いし、律法の行いで義となることを目指します。良い行いができるようになって人からすごいクリスチャンだと思われることを目指しています。しかし、実は、そうすればするほど、人を「悔い改め」に導き、人の罪を治療しようとされる神の慈愛を拒絶しているのです。私たちは罪と戦うと言いながら、その実は神と戦っているのです。「良い行い」ができる自分を見て、「悔い改め」が必要なのは罪人の取税人であり私ではないと主張し、あろうことか罪を指摘される神を偽り者と非難しています。『もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:10)。人は、その事実に全く気づいていません。聖書にヨブの話がありますが、実は、悪から遠ざかっていたと賞賛されたヨブでさえそうであったのです。『彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。』(旧約聖書 ヨブ記 1:8)。では、ヨブのケースはどうだったのでしょうか。ヨブはどのように神と戦い、神の前に降伏するに至ったのでしょうか。
   ヨブは信じがたいほどの試練に会いました。そしてついに、自分の生をのろうことで神につぶやいたのです。『その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。』(旧約聖書 ヨブ記 3:1)。つぶやくことで自らを正しいとし、「悔い改め」を拒んだのです。その後もヨブは、友達とのやりとりに中で自らの義を主張し、それなのに神は私の命を奪おうとするとつぶやきました。『そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。』(旧約聖書 ヨブ記 13:15 新共同訳)。ヨブは、あくまでも自分は罪人ではなく正しい者だと主張したのです。『わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。』(旧約聖書 ヨブ記 27:6 新共同訳)。かつてアダムも、神から罪を指摘された際、私は悪くない正しいと、罪をエバのせいにしたことがありました(創世記3:11-12)。人はそれ以来、自らを正しいと主張し神と戦ってきたのです。
   こうしてヨブは、神の慈愛がヨブの罪を取り除こうと悔い改めに導いているとも知らずに、自らを正しいとすることで神の慈愛を拒み続けました。ヨブは、「肉の行い」と戦うことで罪に勝ったと錯覚し、自分は義人で正しい者だと思い込んでいたのです。ですから自分が受けた試練に対して納得がいかず、このまま殺されるのを待つよりはと、自らの義を主張しました。そうやって神の判断を非難しました。ヨブは人の愚かな知恵を持って、見た目には実に上質に、神と戦ったのです。ですから神は、『わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。…』(旧約聖書 ヨブ記 38:4)と応戦されたので、ヨブは何も言えませんでした。さらに神は、愚かにも神を非難するヨブに対し、『非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。』(旧約聖書 ヨブ記 40:2)と言われ、とどめを刺されました。
   ついにヨブは、自らの愚かさに気づき、恐れ多くも自分が神と戦っていたことを知り、『ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。』(旧約聖書 ヨブ記 40:4)と悔いました。それまでヨブは自分の行いに安住し正しいと思ってきたが、実はそんな者ではないと知りました。神と異なる思いに支配された、実に罪深い者であることを悟ったのです。自らを義とするために、恐れ多くも神を批判していたことに気づきました。ですから神は、『自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。』(旧約聖書 ヨブ記 40:8)と言われました。ヨブはここに来て、ようやく神の前で灰をかぶり、神に降伏したのです。『それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。』(旧約聖書 ヨブ記 42:6)
   この降伏こそ、心を神に向ける「悔い改め」にほかならなりません。神にしてみると、これは放蕩息子が戻ってきたあの瞬間を意味します。それゆえ、神はヨブの悔い改めを大いに喜び、彼を大いに祝福されました。『【主】はヨブの繁栄を元どおりにされた。【主】はヨブの所有物もすべて二倍に増された。』(旧約聖書 ヨブ記42:10)。 。
   このように、あの正しいとされたヨブでさせ、そうとは知らずに神と戦いました。自らを正しいとすることで、罪を取り除こうとされる神と戦っていました。無論本人の意識としては、罪と戦っているのです。『ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:20 口語訳)。では次に、神を愛そうと律法に生きたパウロのケースを見てみましょう。
   パウロは律法の行いを目指すことで、自分は罪と戦っていると信じていました。しかし、実際は神と戦っていたのです。その証拠に、イエス様の弟子たちを脅し殺害しようと燃えました。『さてサウロ(パウロ)は、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて』(新約聖書 使徒の働き 9:1)。本人は、彼らを罰することで神が喜ばれると信じ、そうした行いを通して神に近づけると思い込んでいたが、ところが神から遠のいていたのです。パウロは罪と戦っているつもりでも、実は悔い改めに導こうとされる神と戦っていました。あのパウロの姿こそ、律法の行いで罪に勝ったと安住し、悔い改めは必要ないと思ってしまう私たちの姿にほかなりません。
   しかし、神はその御力でパウロを撃ち、戦いにけりをつけられます。「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。』(新約聖書 使徒の働き 9:3,4)。パウロは神との戦いに敗れ、神の前に降伏したのです。そして知りました。愚かにも自分は神と戦っていたことを。それ以来、パウロは神の前に白旗を振り続け、イエス・キリストの囚人となりました。『キリスト・イエスの囚人となった私パウロ」』(新約聖書 エペソ人への手紙 3:1)。別の言い方をすると、パウロは神に捕らえられ、イエス・キリストの十字架で殺されました。そして、キリストがよみがえられたように、パウロは死んで新たに生きる者とされたのです。『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)
   このように、あのパウロでさせ知らずに神と戦っていました。自らを正しいとすることで、罪を取り除こうとされる神と戦っていました。であるならば、私たちはなおさらではないでしょうか。

(5)「罪」と「悔い改め」

   「罪」とは「死」であり、死によって生じた「神と異なる思い」を指します。ですから、人は死を背負い続けている間は、神と異なる思い「罪」から逃れることはできません。そうした理由から、人は罪とは戦えないのです。罪は、死に勝利されたイエス・キリスト以外に取り除くことはできません。それゆえ神は、罪を神の元に差し出すように言われます。人と神の関係は、まさに「病人」と「医者」の関係です。
   しかし、人はそうした関係を知らないため、「罪」は「肉の行い」だと信じ、自らの力で何とかするものと思っています。行いを頑張ることの下に、「神と異なる思い」という「罪」は姿を隠してしまいます。特に、死がもたらした最大の肉の思いである「この世の心づかい」は、人に「罪」とは気づかれずに少しでも人から良く思われようと、神のことではなく人のことを思わせます。そのため、人は、人を気遣い思いやれる自分を見ては、自分には神の赦しを必要とする「罪」などありませんと思ってしまうのですが、人はその問題に全く気づきません。
   かつてイエス様は、ご自分が来られた目的は人の罪を洗い流すためだと教えるために、十字架に掛かられる前に弟子の足を洗いました。弟子の足についた泥を罪に重ね、弟子の足を洗いました。ところがペテロは、『決して私の足をお洗いにならないでください。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:8)と言って、洗われることを拒んだのです。この場合、足を差し出す行為が、心を神に向ける「悔い改め」を意味しますが、ペテロはその「悔い改め」を、イエス様から良く思われようとする「この世の心づかい」から拒んだのです。するとイエス様は、『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:8)と言われました。つまり、心を神に向ける「悔い改め」を拒めば、罪はそのまま残り、神とは何の関係は何も築くことはできないと言われたのです。
   このように、「悔い改め」を拒否する者は、神との関係を築くことと戦っています。あの弟子のペテロさえも、こうして当初は神と戦っていました。人から良く思われようとする「この世の心づかい」から謙遜さを装い、「罪」を隠そうとしました。無論、本人にはそのような意識は毛頭ありません。しかし、実際は「罪」を謙遜の下に隠し、「罪」を取り除くために「悔い改め」に導こうとする神と戦っているのです。

   真のキリスト者は、自分の中に戦えない罪が住んでいることを知り、神との戦いに降伏し、私の罪のただ中にこそキリストがいてくれていると信じます。キリストは終わりの日まで、私の「罪の体」と共に生きてくれると信じ、神の慈愛を素直に受け入れ、罪に気づく度に熱心になって悔い改めます。真のキリスト者は、どうにもならない自分の罪を知っているため、罪から贖い出してくれる十字架の言葉が、自分にとって「神の力」となることを知っているのです。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:18)。ですから、熱心になって十字架の言葉を信じよう、十字架の「全き愛」に心を向けようとします。  あなたは真のキリスト者でしょうか。神との戦いをやめ、イエス・キリストの囚人となっているでしょうか。そのことを素直に自問自答できるとき、もうあなたは真のキリスト者になっています。あの取税人のように、あなたの魂は、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(新約聖書 ルカの福音書 18:13)と叫んでいるのですから。