ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2015年月8月9日
御言葉を宣べ伝えなさい
(新約聖書 テモテ人への手紙第二 4章)
あなたは生きているか

『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 4:1)

   私達の目には、人間は皆生きているように見えます。しかし、神様の前には、生きている人と死んでいる人がいるのです。神がさばくとは、神の目には生きている人と死んでいる人とが区別されているということです。 

『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:18)

   人間は、誰も死から逃げることはできません。死を解決できるのは、人間を造られた神だけです。この神の御子イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちを持つことができます。御子を信じない者は、永遠のいのちを持たないので、肉体の死と共に終わりになります。これが、生きているように見えても死んでいるということです。神は、今の私達ではなく、永遠に生きる者か、やがて死ぬ者か、結果を見分けておられるのです。
   神は最後の審判の時に、人間に怒りをくだすのだと思っている人がよくいますが、そうではありません。神はただ人間を救いたいとだけ考えておられ、誰をもさばくことはありません。ただ、神を信じない人々が、すでにさばかれている状態から、救い出されないということなのです。
   このことは、罪を病気だと考えることによって理解できるでしょう。罪は死に至る病です。すべての人はこの病にかかっており、治療を受けなければ絶対に治りません。そして、この病を治すことが出来るのは、イエス・キリストだけです。キリストは、あなたを救いたいと願って、救いを受け入れるように御手を差し出し続けています。あとは、自分の選択によって、治療を受けるか拒むかを決めることが出来るのです。
   イエス・キリストは、「すべて疲れた者、重荷を負う者はわたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげる。」と言われました。人間にとって死以上の重荷はありません。罪という病は、突然私たちを死に追いやります。生きているのか、死んでいるのか、それは、終わりの日に明らかになります。死から逃れるには、イエス・キリストを信じるしかありません。

真実を宣べ伝えよ

『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 4:2〜5)

   この世の人々は、ありもしない空想話を信じて生きていると、聖書は語ります。御言葉を宣べ伝えるとは、真実を宣べ伝えるという事です。 私たちにとっての真実とは一体何でしょうか。あなたは何のために生き、何を人生の目標とし、人生で何を収穫しようとしているのでしょうか。あなたが求めているものは、本当に真実なのか、あなたの生き方は間違っていないのかと、聖書は問いかけています。
   残念なことに、私達がこの地上で持つことが出来る目標はどれも、死によって止められてしまい、永遠という物差しの中では壊れてしまうものでしかありません。時間が来たらすべて消え去るものならば、それは目標ではなく、ごみです。聖書は、私達が真実に目覚めるよう語りかけています。

『それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。』(新約聖書 ルカの福音書 12:16〜21)


   このたとえ話が示すように、人間が立てることができる目標は、この世の豊かさを求めるものでしかありません。私達は、蓄えができれば老後も安心だと考えがちですが、私達が死を迎えるその時、富は何の安心も与えてはくれません。私たちにとっての真実とは、ただ一つ、必ず死が訪れるという事です。ですから、人生を考える時には、死を前提に考えなければなりません。人生でどんなに多くのものを収穫したとしても、その先はどうなるのかを考えなければならないのです。御言葉を語るとは、死に対して正しい備えはできているのかと問いかけることなのです。
   その問いかけに対して人間ができる答えは、「どんなに頑張っても、私に死は解決できません。どうすればいいですか。」と尋ねることです。すると、キリストは言われます。「私を信じなさい。私を信じる者は、死んでも生きる。立派な行いはいらない。ただ、私を信じさえすればよい。」
   これを福音(良い知らせ)と言います。私達は、この福音を語っていくのです。
   神を信じたからといって、失うものは何もありません。しかし、もし神がいるにも関わらず、それを信じなければ、その人が受ける損害は無限です。それなのに、人はなかなか神を信じようとしません。ところが、神を否定した上での考えを推し進めれば進めるほど、矛盾が生じることに人々は気づき始めました。今、科学の分野で、これまでの進化論が行き詰まり、それを直視する科学者達の中では、脱進化論の流れが生まれてきているなどの動きは、その一つの例です。
   結局、神を否定しても死を解決することができません。神がすべてをお造りになったのですから、ただ神にすがる道でしか解決することはできないという結論に至るのです。御言葉を宣べ伝えるとは、私達を造った神がおられ、その神を信じ、助けを求めるなら、救われるという福音を語ることです。
   神を信じられれば、何のために生きるかが見えてくるようになります。生きる目標、得るべき収穫等、何を目指させばよいかが見えてくるのです。聖書は、いつまでも残るものは信仰と希望と愛だと教えます。神を信頼する心が愛であり、それだけが永遠に残るものです。それを育て、収穫することが、私達の生きる目標です。

死を滅ぼす

   私達が語るべき真実とは、あなたには死が待っているという事実です。なぜなら、人は皆、無意識のうちに死を恐れ、その恐れによって自分の行動が支配されているからです。聖書は、それを死の恐怖の奴隷だと教えています。誰も自分が死の恐怖の奴隷だなどと考えてはいませんが、私達の行動は、自分で意識できているものはほんのわずかで、ほとんどは自覚のない潜在意識によって支配されています。私達の潜在意識の中には死への恐怖が強く存在します。その恐怖から逃れようとして、私達は無意識に、お金や人の言葉にしがみついて安心しようとする生き方を目指しているのです。
   私達が安心して生きるためにこの世で目指すことができるものは、二つしかありません。人から良く思われようと生きるか、富を手に入れようと生きるかです。死の恐怖に心が向いて、おびえて生きている私達は、死の問題が解決されない限り、この地上でいつも、富や快楽や人に目を向けて生きるしかないのです。私達は、自分で生きているようでいて、実は、人の言葉に支配され、お金に支配されて生きています。それは、決して自由ではありません。人の言葉で傷つき、落ち込み、人の言葉に一喜一憂する人生。お金がないと不安な人生。これが私達の現実です。人間の力では解決できない死が、私達につらい生き方をさせているのです。誰が、この死の恐怖の奴隷から解放してくれるのでしょうか。それはイエス・キリストだけです。
   イエス・キリストは、私達と同じ罪の体を背負って、この地上に来られました。そして、罪を背負って十字架にかけられて死なれ、三日目によみがえったことによって、信じる者はこれと同じように、死んで生きるのだと証しなさいました。あなたはキリストと同じように、十字架に死んで生きるようになれるのです。これが、あなたを苦しめる死から解放される道です。神は、信じた者はすでに永遠のいのちを持っていると言われます。あなたの現実がどんなものであっても、神の目にはすでに義と映っているのです。これが神の恵みです。

   私達は、自分がいかに罪深いか、人に言われなくてもよく分かっているものです。心の中の自分は汚く、虚しく、人の目を気にして生きていることを、自分が一番よく知っています。人は皆罪人なのです。この私達に、キリストは、あなたはすでにすでに罪のない義人だと言われます。なぜなら、あなたを支配してきた死は、キリストを信じたことで、一緒に十字架で滅んだからです。もはや、あなたが生きているのではなく、キリストがあなたの内に生きておられるのです。
   この奇跡が私達の内に起こっているということが、私達にはまだ見えません。神は、私達がこの事実を見ることが出来るために、一人一人に信仰を与えてくださっているのです。信仰とはまだ見ぬ事実を確信するものだと、聖書は教えています。
   神は、私達が死ぬ時、朽ちない体に変えられ、よみがえると約束してくださいました。私達は信仰によって、この約束を信じてみようと踏み出し、その真実が分かるようになります。信仰によって自分を見るとすでに変えられた姿が見えます。神はその姿を見ておられるのです。
   神を信じるならば、神の意志によって、あなたは変わります。あなたが同意しようとしまいと、神は信じる者を神の子とし、義とし、正しい者と変えるのです。それを信じることが出来る時、恐れが締め出され、平安を得ることができるのです。

永遠に残るものを育てなさい

『私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 4:6〜8)


   パウロはいよいよ自分の終わりの時が来たことを悟ります。パウロがこの地上で守り通した信仰こそ、永遠に残るものであり、私達が大切にすべきものです。神から与えられた信仰、すなわち、神を信頼する心を育てることが、私達に限りない平安を与えるのです。
   義の栄冠とは、朽ちない体を指しています。そして、もう一つ、御国での神との交わりを意味しています。パウロは、今から自分は朽ちない体に変えられて、完全に死に勝利する時が来たと宣言し、神との親しい交わりに入るのだと語っているのです。
   一人一人がこれまで育ててきた信仰をもとに、神の国での交わりが始まります。私達がこの地上で様々な困難に立ち向かい、育て、手にした信仰という収穫物は、神の国で生かされるのです。
   私達は、この地上の人生は、必ず終わりが来ることを忘れてはなりません。あなたが人生で収穫するものは、ごみとなるものなのか、永遠の残るものなのか、そこから目を背けてはなりません。神を信じ、永遠に残る収穫物である信仰を育てることが、本物を手にする生き方であることに気づくと、神が私の中に生きておられる事実に気づき、言葉にできない喜びにあふれます。
   あなたが今生きている人生は本物でしょうか。何を目指しているのでしょうか。必ず迎える死の前で、ごみに過ぎないものを追い求めるのではなく、永遠なるものを信じ、イエス・キリストと共に歩くことほど大切なものはありません。
   パウロはテモテに、このことを伝えて生きることを最後のメッセージとして残しました。楽しいことや空想話を求めて生きている人々は、真実に目を向けるべきです。そのような収穫物は、すべて燃えてしまいます。イエス・キリストを信じるならば、永遠に続く希望がある人生を生きることができるのです。