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2015年月8月2日
患難は希望の訪れ
(新約聖書 テモテへの手紙第二 3:10〜)
『しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 3:10〜11)

   テモテは、どのような患難に遭っても、パウロにつき従っていきました。患難はつらいものですが、希望を生み出すものでもあります。

「患難は真の希望をもたらす」

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜4)

   患難は本物と偽物をふるいにかける役割をします。人は皆、「愛されたい、生きたい」という願望を持っています。そのため、日頃から、人から称賛されるような肩書や容貌を求めたり、お金を貯めて安心や称賛を得ようとしたりしています。ところが、患難に出会うと、これまで築き上げてきたそれらの宝物が、一切役に立たないことを思い知らされます。
   私達は普段、自分を楽しませるものを求め、それが、自分が追い込まれた時に役に立つかどうかなど考えずに生きています。しかし、患難にぶつかると、それが本当に自分にとって役に立つものかどうか、選別が始まります。私達がこの地上で意識できる最大の患難は、肉体の死の危険です。自分が危険に追い込まれた時に、役に立つ物こそ本物です。
   私達は死を前にした時、財産も美しさも役に立たず、人の言葉も愛もこの世に置いていくしかないことを思い知らされます。しかし、神の言葉は、この時も輝きを失わず、私達に希望を与えることができます。それこそ私達が普段の生活から大切にしなければならないものなのです。 患難は、何が本当に大切なものなのかを私達に教えてくれます。神の言葉に希望を見出し、これこそ本物の光であり、大切にしなければならないものなのだということに気づけば、幸いです。

『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:5)

   その希望とは、神が自分を愛しているという光です。それまで私達の希望は、人々からの称賛や慰めやお金でした。しかし、それらのものは、患難の前では何の助けにもならないことに気づいた時、神の愛という本物の光だけが残るのです。

『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:6〜8)


   患難の時、人は孤独です。しかし、この時こそ、あなたを命がけで愛している神の愛が見えてくるのです。孤独によって、これまで人に向けてきた目を、天に向ける道しか残されなくなったからです。
   私達人間は皆、潜在意識の中に自分はダメな人間だという恐れを持っています。それは、体が死に支配されるようになったことで、私達を愛している神の愛が見えなくなったからです。そのために、お前は愛されるはずがないダメな人間だ、お前は罪人なのだという恐れが常に心を責め立てています。そこで人は、必死に自分はダメじゃない、私は正しい人間だという事をアピールして生きようとしています。自分はダメじゃないという主張は、愛してほしいという心の裏返しです。アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べた時、それぞれ「自分は悪くない」と主張し、何とかして神から愛してもらおうとしました。このように、私たちの行動は全て死の恐怖に支配されています。
   こうして私たちの心は神に向かなくなり、人の言葉を食べて生きるようになりました。それは、人の言葉で傷つき、人の言葉で喜ぶということです。しかし、本当の患難にぶつかったら、その言葉は私達を支えることができず、何の役に立ちません。この時、私達は、ようやく神の言葉に目が向くようになり、ダメだと思っていた自分が、実は神に愛されていたと気づくのです。神はあなたを愛してやまず、だからこそ、あなたのために十字架にかかったのです。

「あなたのために十字架にかかったとは」

   今私達が苦しんでいるのは、罪のからだが原因です。罪によって、私達の肉体は死ぬものとなりました。神との関係が回復し、永遠のいのちを回復しても、この地上にあっては、この罪の体で生きています。ですから、私達は皆、この肉体に住みついている死の恐怖や体が欲する欲望に悩まされ、苦しんでいるのです。
   ここから私達を救い出してくださるただ一人の方が、イエス・キリストです。イエス・キリストは、人としてこの地上に生まれました。十字架にかかって罪の体を滅ぼすために、私達と同じ、死に支配された罪の体を背負ってこられたのです。そして、十字架で罪の体を殺し、三日後によみがえったように、私達も死に支配されない新たな体でよみがえることができると示されました。
   この地上で、私達は、死という壁の前ではどうすることもできません。イエス・キリストは、死に支配された体を持ち、死ぬことで復活を示し、そこに希望があると示されました。死んで生きるとは、罪のからだの影響が及ばなくなり、よみがえって義とされることを意味しているのです。あなたも十字架で死んでキリストと同じようによみがえることができるのです。あなたは今絶望の中にいるけれども、実はそうではなく、あなたも生きることができるということです。
   あなたは罪から解放されて義なる人となり、罪とはまったく無縁の人となるとイエスは示した。私達の現実は、どう見てもまだ罪人です。しかし、神は、すでに義と変えられた私達の姿を見ているのです。罪人である私たちが義とされること、それこそ神の最大の奇蹟です。

『何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:5)

   現実の私達は皆罪人で、何の義もありません。しかし神が私達を義としてくれることを信じるなら義となるのです。

『それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:3〜6)


   イエス・キリストがご自身の罪の体を十字架にかけたことによって、私達の罪の体が十字架にかけられたのです。キリストと共に生きるようになったということは、あなたの古い罪の体もキリストと共に死んだということです。私達が罪の体から解放されて新しく生きるために、イエス・キリストは、十字架にかかり、よみがえられたのです。今、見えるところでは、あなたの体はまだ肉の体です。しかし、もうすでに私たちの内側に新しいいのちが与えられているということは、すでに死んでよみがえっていると、神は言われるのです。

『このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:11)

   蝶は、蝶の姿になる前は、イモムシや毛虫です。私達も、この地上では皆イモムシや毛虫の姿をしています。アダムとエバは、初めて自分の姿を見た時、すぐにいちじくの葉で自分の身を隠しました。同様に、私達は皆、自分のみにくい姿を隠したいと思っています。これが罪の性質です。しかし、この毛虫は必ず超になります。イエス様はすでに蝶になった私達の姿を見ているのです。私達は毛虫のままで終わるのではなく、それは一時の姿であり、すでに神の目には美しい蝶の姿に映っているのです。私達の真実の姿は、蝶のほうです。毛虫は一時的な姿にすぎません。しかし、私達は毛虫の姿を見て、これが自分のすべてだと思って失望しています。そんな私達に、私がよみがえったように、あなたも蝶になるのだということを教えるために、イエス様は十字架にかかり、よみがえったのです。これが真の希望だと、ご自身のいのちを懸けて希望を示してくださったのです。私達が、自分を苦しめている死の体から解放されてよみがえることができると信じるためです。
   現実しか見えない私達には、自分の本当の姿が見えません。ですから、神は私達に信仰を与えてくださいました。信仰とは、神が見ているものを見るメガネです。信仰のメガネで見ると、初めて真実が見えるのです。それは義とされている自分の姿です。そのことに気づくことを、十字架に死ぬというのです。
   患難を通して、神の言葉に気づき、イエス・キリストがあなたを救うために十字架にかかり、すでにあなたを義として見ておられることに気づくなら、あなたはもう自分をダメだと思う罪人の生き方をしなくなります。神は、私達が患難を通して、義人のような生き方をし、罪と戦って生きるようになることを願っておられます。この時、患難は意味のあるものとなります。
   患難を通して、まことに神に愛されていることに気づき、十字架の深い意味が見えてくれば幸いです。死を乗りこえる唯一の道はイエス・キリストを信じることです。

「御言葉を握って生きる」

『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 3:12〜17)


   御言葉に従って生きようとすると、世の中の価値観とぶつかって迫害を受けることがあります。それは、確かにつらいことです。しかし、神の言葉に従って生きるのをやめることは、もっとつらいことです。神を信じる前、つらい出来事から逃げることも解決することもできなかったことを、多くの人が体験しているでしょう。患難はつらいことではありますが、クリスチャンにとっては、ただつらいだけのものではなく、希望を見出す道です。 患難は、神が与えるものではなく、すべての人が生きて行くうえで必ずぶつかるものです。自分の弱さや失敗から引き起こされるものもあり、また、死ぬべき体を持っている人間は必ず病にもぶつかります。人々は、自分が罪人でありダメな人間だと潜在的に感じているために、患難にぶつかると罰が与えられたのだと考え、絶望的になります。しかし、そうではありません。神は、人間が避けることのできない患難を、益と変えることができるのです。神から逃げなければ、患難は、神に愛されていることを知るチャンスとなるのです。
   弟子たちは、目の見えない人に対して、「この人の目が見えないのは、誰かが罪を犯した罰だ」と考えました。このように、人間は災いを神の罰だと考えがちです。しかし、イエス様は「誰かが罪を犯したせいではない。神の栄光が現れるためだ」と言われました。 イエス様は、患難・つらさに出会うことは罰ではなく、神の慰めを受けるチャンスだと言われます。つまり、患難は神の愛が見えるようになるチャンスなのです。患難の時に、しっかりと本物と偽物を見分けて、本物を選び取るならば、真の希望が手に入り、自分の弱さが誇りに思えるようになります。しかし、神に心を向けず、悪の道に進むならそのような希望はありません。ですから、神の言葉にとどまり、そこから離れないようにしましょう。聖書は、私達に知恵を与える書物です。
   聖書がどれほど人類に知恵を与える書物であるかは、歴史を見るとよくわかります。良い発見や働きをした人の多くが、聖書からヒントを得、聖書のことばに導かれているのです。万有引力や麻酔薬、輸血などの科学の分野でもそうですし、リンカーンなど政治や人道的な分野でもそうです。印刷機が発明され、聖書が母国語に訳されて一般に読まれるようになったのは、15世紀以降のことですが、そこから人々は多くの知恵を得て、ルネッサンスが始まりました。まさに聖書は知恵の宝庫です。
   しかし、聖書の何よりも大きな働きは、人々をキリストに対する信仰に導くことです。聖書を通して、私達は本当の自分の姿を知ることができます。それは、立派でも何でもない罪人の姿です。聖書によって、自分は罪人だと気づくと同時に、どうすれば救われるのか、愛されるのか、イエス・キリストを信じて助けてもらうしかないという結論に導かれます。聖書は私達を正しい方向に導いてくれるのです。人類はさまざまな間違いを犯しましたが、聖書の言葉こそが、人類を導き、矯正する唯一の力です。
   神の言葉をしっかり握って生きるならば、間違った方向に行くことはありません。私達はその本当に大切なものを、普段の生活から大切にしているでしょうか。いざというときに何の役にも立たない人の言葉を求めて生きていないでしょうか。その時だけ心地よい言葉は、試練の時にあなたを支えることはできません。聖書のことばをしっかり食べて、御言葉に支えられる生き方を目指しましょう。