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2015年月6月21日
永遠のいのちを獲得せよ
(新約聖書 テモテ人への手紙第一 6:9〜)
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:9〜10)

   お金が欲しいという誘惑に苦しむ経験は、誰にでもあるものです。人間には、大きく分けて二つの欲があります。人から良く思われたいという欲求と、お金や物が欲しいという欲求です。これらの欲は、神が人を造った時にはありませんでした。人間が持っていたのは、神を愛し人を愛したいという願いだけです。今、この願望が完全に封鎖されてしまっているのは、人間が神との関係を失ってしまったためです。そのために人間の心は不安になり、体は滅びるものとなってしまいました。その結果、人は、人から良く思われることで不安から逃れようとし、また、死を遠ざけたいと願って、見えるものにしがみつき、食べ物や健康を求めてお金を欲するようになったのです。しかし、いくらこれらのものを求めても、神との関係を失った死の恐怖から逃れられません。そこで、そこから目を背けるために、人は快楽を求めるようになりました。人が快楽を求めるようになったのも、もとはと言えば、神との関係を失って平安を失ったためです。
   こうして、安心を手に入れたいという動機から、人から良く思われたり、物質や金銭を求めるようになったのですが、この欲求がかえって私たちを追い詰め、苦しめています。平安を手に入れるために何を求めようが、見えるものの中には答えは見つからず、結局何を求めても虚しいという結果に行き着きます。ですからこのような生き方をやめなさいと聖書は教えているのです。

『しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:11〜12)

   「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和」とは、すべて信仰のことです。敬虔とは信心深いこと、愛とは神を愛すること、忍耐は信仰によって生じるものであり、柔和とはその忍耐によって怒りがない状態です。
   つまり神は私たちに、見えるもので安心しようとする生き方をやめて、神を信頼することで安心する生き方に切り替えなさいと教えておられます。幸せになりたいと願うのは、人の当然の願いです。問題は、何によって幸せになろうとするかということです。お金によって幸せになろうとするのか、人から愛され信頼されることで幸せになろうとするのか、それとも神を信頼することで幸せになろうとするのか・・・。もし、あなたがお金や人間の愛に頼って平安を得ようとするならば、それは、自分の心を刺し通して苦しめることになってしまいます。ですから、信仰の戦いを勇敢に戦って、それらのものを求める生き方に勝利し、真の平安を手に入れてもらいたいと神は願っておられるのです。

永遠のいのちとは

   「永遠のいのちを獲得しなさい」と言われると、永遠のいのちをもらえるのは今ではなく、未来のことだと思ってしまいがちです。しかし、私たちはすでに永遠のいのちを得ています。聖書は次のように教えています。

『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:20)

   この御言葉から、永遠のいのちとは、イエス・キリストご自身であることがわかります。つまり、永遠のいのちを持つとは、自分が永遠に生きられるようになるということではなく、イエス・キリストのうちに入れられるということなのです。そのため、私たちはキリストの体の一部となったとか、神が私たちと共に住むようになったと言われるわけです。神が永遠に生きる方であるから、神の中に組み込まれた私たちも永遠に生きるようになります。イエス様と共に生きるようになることが、永遠のいのちを持つということです。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:47)

   この箇所は、ギリシャ語の原文では現在形で書かれており、「信じている者は永遠のいのちを持っている」という意味です。また、ギリシャ語では、確実に起きる未来を表現する場合にも現在形が使われるため、「信じたら確実に永遠のいのちを手に出来る」という解釈も成り立ちます。つまりこの御言葉は、「信じていれば永遠のいのちを持っているし、信じたら確実に永遠のいのちが手に入る」と理解することができます。
   神を信じるとは、神の呼びかけに応答し、心を開くことです。イエス様はあなたの心のドアを叩いておられます。あなたがそのドアを開けるなら、主はあなたと共に生きてくださいます。このことを信じるならば、あなたは永遠のいのちを持つのです。

『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:54)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」とは、「私を心から受け入れる者」という意味の霊的な表現で、これも現在形で書かれています。すなわち、イエス・キリストを受け入れる者は、神が必ずよみがえらせてくださるのです。 以上のことからわかるように、信じれば永遠のいのちを持つと、聖書はくり返し教えています。これが原則です。あなたがキリストと共に生きるようになったことで、あなたのいのちは永遠のものとなりました。永遠のいのちは信じる者が必ず手にできるものです。そして、信じて救われた者は絶対に滅びることはなく、何があっても必ずよみがえって天国に行くことができます。人は行いで救われるわけではありません。
   この原則を無視して「永遠のいのちを獲得しなさい」という御言葉だけを取り上げて理解しようとしたために、間違った理解がされていた例があります。それは、イエスを信じてバプテスマを受ければ、バプテスマを受けるまでの罪は赦されるが、クリスチャンになった後は、神との関係を維持し罪と戦うことで、ご褒美として永遠のいのちをいただけるという解釈です。しかし、これまで説明してきた通り、これは間違った理解です。永遠のいのちは信じることによってのみ与えられるものであり、誘惑と戦ったご褒美として与えられるものではありません。
   聖書は、神がご自分の思いを、人の言葉を使って語っておられる書物です。人の言葉という制限の中で書かれていることを考慮し、神はどのような意味でその言葉を使われたのか、神の思いを理解するには、聖書の言葉をもって理解しなければなりません。聖書の中には、聖書独特の表現があり、これを自分の経験で理解しようとすると間違った解釈をすることになってしまいます。聖書の言葉は聖書の言葉で理解しなければ、なりません。誘惑に負けずに頑張らなければ永遠のいのちを与えないなどというお考えは、神にはありません。

永遠のいのちを獲得するとは

『自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:25)

   自分のいのちを憎むとは、私たちの中にある基本的な欲望――人から良く思われたいという思いとお金を愛する思い――を満たそうとする生き方をやめることです。これが罪と戦う信仰の戦いです。そうして至る永遠のいのちとは、これまで説明してきた永遠のいのちとは別の意味で使われています。
   信じるとはイエス様との関係を回復することですが、イエス様との関係を回復したからといって、すぐに神を信頼できるようになるわけではありません。戸籍上の養子縁組が成立しても、本当の親子の関係を築くには時間と行動が必要なように、イエス様との関係を回復したら、イエス様を信頼していく行動が必要です。それは、見えるものに頼らないで神を頼る生き方です。お金や人の言葉に頼るこれまでの自分の生き方をやめてしまうことです。そうすれば、すでに神との関係は回復していますから、そこから神との信頼関係が生まれます。永遠のいのちに至るとは、この信頼を持てるようになることです。これが神に近づくということです。
   イエス様は、『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)と言われした。イエス・キリストは、人々が神を受け入れて神との関係を回復し、互いに信頼関係を築く者となるために来られたのです。そして、この信頼関係によって、『わたしはあなたがたを友と呼ぶ』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:15)と言われたのです。信じることでイエス・キリストとの関係を回復し、その関係を豊かにすることが、永遠のいのちを豊かにするということです。これが、罪と戦って獲得する永遠のいのちであり、イエス・キリストに近づいていくということです。

『しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:22)

   聖書で「永遠のいのち」という場合、賜物としていただく永遠のいのちと、罪と戦って行き着く永遠のいのちの2種類があります。ローマ6:22の後半にある「キリスト・イエスにある永遠のいのち」とは、信じた時に与えられた永遠のいのちで、ただ受け取りさえすればよい神からの賜物(プレゼント)です。それに対して、罪と戦って行き着くことができる永遠のいのちとは、神との関係を回復し、キリストに近づいて聖められていくことによって行き着くことができる真の平安のことです。
   人は皆、心が満ち足りる平安を求めています。私たちはこれまでその平安は、お金か人間関係によって手に入るものだと思って求めてきたのですが、それは、自分自身を苦しめる結果をもたらしてきました。そうではなく、神との関係を築くことで得られる平安があるのです。この平安こそ真の平安です。つまり、神との関係を回復したのだから、見えるものを信頼する生き方をやめて、イエス・キリストを信頼する生き方をしようではないかと言われているのです。

『私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:13〜17)

   人に非難されないように人の目を気にするのではなく、神を信頼することによって、結局人から非難されることのない生き方になります。神はただ一人、死を克服される方であり、すべての祝福を持っている方です。この素晴らしい神を、ただ信頼して生きましょう。見えるものに頼ることなく神に望みを置くことが、信仰の戦いを勇敢に戦って、永遠のいのちである真の安息を得ることです。神との信頼関係を築くことが、真の平安と安息です。これこそ、パウロがテモテに最も伝えたかった主題です。

『また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 18〜21)

   自分の欲に生きるのではなく、人を愛して生きることが、永遠の平安となる真の命の土台です。
   この地上での命が終わる時、私たちは朽ちない体を着せられて、滅びることのない永遠の世界に移ります。天国で実際に神とお会いするその時、この地上で築いた神との関係が、神との交わりの土台となります。この地上で神を信頼するようになればなるほど、神との交わりの基礎が築かれ、天国に行った時、神と親しく交わることができ、キリストのおそばで共に働く者となれるのです。神は私たちに、神に近づくように命じておられます。これが、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるようにという意味です。聖書に登場する信仰の先駆者たちは、この地上は旅のようなものであり、本当の人生は天国で始まるものだと語っています。今、私たちはその人生の基礎を築いているのです。
   信じるだけで永遠のいのちを持つという原則はゆるぎません。私たちはすでに救われており、一度救われた者は、救いが取り消されることはないのですから、私たちに残されている道は、救いの維持ではなく、イエス様との関係を築き上げていくことです。イエス様と真の関係を築く時、言いようのない平安につつまれ、人生の目的を知ることができるようになります。私たちを愛する神は、そのように私たちを導いておられます。お金や人間関係を求める生き方は、平安を得る以上につらさを感じることのほうが多いものです。そのような生き方をやめて、神の国での暮らしに向けて基礎を築き、天に宝を蓄え、幸せな人生を生きるように主は私たちに望んでおられるのです。