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2015年月6月14日
満ち足りる心をもて
(新約聖書 テモテ人への手紙第一 6:1〜8)
『くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。
信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:1〜2)


   聖書を読むときには、ただ字義通りに理解するのではなく、この言葉を通して神は私に何を語ろうとしているのかを受け取ることが重要です。日本に奴隷制度はありませんが、誰にでも目上の存在がいます。御言葉は、それらの人々を尊敬して仕えるように教え、もし上司がクリスチャンであっても、甘えることなくますます仕えようと語っています。
   なぜ、仕えることが大切なのでしょうか。それは、仕えることによって、私たちは自我に死ぬことができるからです。自分自身を苦しめている自我に死ぬことによって、つらさから解放されるからです。
   私たちが罪を犯して苦しむのは、死に対して恐怖を抱いていることが原因です。死への恐れから、この世の見えるものにしがみつき、名誉や富や権力を得て安心しようとする中で、自分さえ良ければいいという自我が形成されています。しかし、目標を達成し望むものを手に入れても、死の恐怖が土台となった自我は私たちを苦しめ続けています。
   仕えるとは、自分の願望を捨て、相手に合わせることです。これは、自我を捨て去る有効な手段です。イエス・キリストは、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い、仕えることを教えました。
   人は仕えることを嫌い、上に立つ者となろうとするものですが、それは自我を殺す上でプラスにはなりません。仕えることで、自我に死ぬことができるのです。

『違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:3〜5)

   人は、神の言葉に同意しないから苦しむのです。高慢は自分自身を苦しめます。ですからイエス・キリストは、聞く人になりなさいと何度も言われました。聞く耳を持たなければその人の成長は止まってしまいます。自分はどう思うかではなく、とにかく神の言葉を聞きましょう。
   神は私たちに、あなたはどう思うかと尋ねているのではなく、あなたは信じるかと尋ねておられます。あなたが納得するかしないかではなく、同意するのかしないのかが問われているのです。信じようとしなければ何も変わりません。 御言葉を聞いてはいても、自分の考えの延長でしか理解しようとせず、自分の欲望のままに聞くならば、律法を利用して自分の義を立て、人を裁くようになります。御言葉を聞いたら、次に同意することが大切なのです。
   また、敬虔を利得の手段とするとは、人から良く思われるために御言葉を実行しようとすることです。行いさえできていれば良いクリスチャンだと考えるのは、見せかけだけのクリスチャンです。そのような人は上辺を気にして相手の行いをさばくので、絶え間ない争いが生じます。大切なのは、上辺を良くすることではありません。満ち足りた心を持っていれば、表に出てくるものも自然と良くなるものなのです。

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 6:6〜8)

満ち足りる心を持つとは

   台湾(中華民国)の総統(国家元首)を12年間務めた李登輝氏は、熱心なクリスチャンです。彼は、「指導者とは何か」という著書の中で、クリスチャンが満ち足りた生き方をするとはどういうことかについて証ししています。
   中華民国は、もともと台湾を含む中国大陸を統治していた民主国家です。しかし、内乱によって共産党に敗れ、共産党が中華人民共和国を設立したために、中華民国中央政府は台湾に移転し現在に至っています。当時は非常事態であったために、憲法によって国民党が政権を取り続け、ずっとその状態が続いていました。李登輝氏は、前総統の急死によって総統に就任しましたが、この時「このままでは台湾はダメになってしまう、台湾を真の民主国家にしよう」と、孤立無援の中、信仰によって、経済、農業、汚職等ありとあらゆる大改革を成し遂げ、台湾を新しい民主国家に導きました。
   この李氏の証しを通して、満ち足りる心を持つとはどういうことか学んでみましょう。

1.真の信仰を持つ
   李氏は、信仰のない者はリーダーになれないと語っています。あなたは真の信仰を持っているでしょうか。
   真の信仰とは、人間は本来一人であって、頼るものは神しかないと悟ることです。誰かが助けてくれると思っている限り、人に期待してしまい、真の信仰は育ちません。神しか私を助けてくれる方はいないと悟ることで、満ち足りた心を持つことが出来るのです。
   李登輝氏は、学生時代から哲学を学び、人は何のために生きるべきかを真剣に求め続けました。中学から大学までを日本で過ごし、その後アメリカに留学、中国に帰国して官僚としての道を歩み始めますが、心の中の虚しさは消えず、何のために生きるのかという問いの答えを得られませんでした。彼はついに夫人を伴って教会に通い始めますが、5年間通って創世記から黙示録まで聖書を読んでも、なぜ処女から人が生まれるのか、なぜ死人がよみがえるのかという疑問がネックとなって、信仰を持つことができませんでした。しかし、ある時、ヨハネの福音書を読んでいると、イエスの復活を信じることができない弟子のトマスにイエス様が現れ、十字架に打ち付けられた釘跡にトマスの指を入れさせ、「見ずして信じるものは幸いなり。」と言われた御言葉に、はっとさせられました。「見えないから信じない、見えるから信じる…こうした考えでは信仰を持つことはできない。まずは信じることからだ。納得したら信じるのではない。信じることから始めよう。聞く耳を持たなければ変わらない。」と悟ったのです。
   聖書は「人は、何一つこの世に持って来ることも、何一つ持って出ることもできない」と教えています。人はひとりで生まれ、ひとりで死んでいくものです。大きな力は、神だけを頼ったときに得られます。まずこのことに気づくことが、満ち足りた心を持つ基本です。

2.自我に死ぬ
『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:19〜20)


   自分は死に、自分の中にキリストが生きているとは、どのような状態でしょうか。人は、死の恐怖のために見えるものにしがみついて生きています。人に認められたい、良く思われたい、これが私たちの自我であり、この生き方をやめることを、自我に死ぬと言います。自我の延長には、何の喜びも平安もなく、虚しさしか残りません。私たちが死の恐怖の奴隷となって、見えるものにしがみついて生きてきた原因は、神に愛されている愛が見えないことです。その私たちにイエス様は、十字架にかかることで愛を示されました。神に愛されていることを知り、私たちの自我を作っていた死の恐怖は十字架で死んでしまったのです。こうして私たちは死の恐怖の奴隷の生き方をやめられる状態になったのですが、現実にはまだ自我を満足させる生き方を続けています。この死の恐怖を持たずに生きられるようになることが、自我に死ぬということです。死の恐怖によって作られていた自我は死んでしまい、私の中に生きているのはキリストだと気づくことで、平安を得られるようになるのです。自我に死ぬと、神にすがるしかないと悟るようになります。それが自我に死んだ証です。
   平安な生き方を手にするために、物事を肯定的に考えようということがよく言われますが、本当に肯定的な人生とは、自我に死んだ先に見える人生のことです。自分の欲の上に物事を考える限り、肯定的に人生を見ているとは言えません。なぜなら、それは必ず他者を否定する生き方になるからです。私たちは自分を肯定する生き方を目指そうとしますが、神に愛されていることを知り本当に肯定的な生き方になると、自分で自分を肯定する必要はなくなり、他者を肯定し、他者を生かそうとする生き方になります。これが、自我に死んで初めて手にすることができる平安です。
   あなたはこの平安を手にしているでしょうか。敬虔を自分の利得のために使い、自分の欲を満足させようとして、神を利用していないでしょうか。それではいつまでたっても満ち足りた心を手に入れることはできません。満ち足りた心を伴う敬虔とは、自我に死んだ敬虔のことです。それは、人を生かし、さばかない生き方を生み出します。人を肯定し愛することができれば、恐れは締め出され平安を得ることができるのです。

3.回り道をする
   李氏は、台湾の経済を立て直すために、遠回りでも基礎を築き直す道を選びました。一般的に、経済を立て直すには、外国の投資を呼び込むと近道です。しかし李氏は、結果がすぐに出て選挙の票には結びつく政策ではなく、後継者を養い、学校を無料化し、基礎を築き直すことが、結局自立した強い国を作ると考えて、それを実行しました。
   私たちは問題にぶつかると、早く解決することを望んで近道をしようとするものです。しかし、聖書は願ったものを手に入れるために必要なのは忍耐だと教えています。このような時こそ、あせらずに神を見上げ、自分には神しかないという原点をしっかりと見つめて、自分の土台を見直して再構築するチャンスなのです。
   このようにして問題を解決するならば、解決の後に信仰が残ります。しかし、近道して解決すると、喜びはあっても信仰が残らないために、何かあるとまたつぶやくことを繰り返します。神と向き合い、神との関係を再構築する姿勢が重要なのです。パウロは、伝道するとき、「人が作った土台の上には建てない」と言いました。ゼロから訓練するのは時間がかかりますが、結局は近道になります。問題をぶつかったら、近道しようとしないで、迂回する道を選びましょう。あせらずにもう一度土台作りから始めたほうが結局は近道になるのです。じっくり忍耐して自分を見つめなおす時とし、神を信頼する基礎を築きましょう。