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2015年月5月17日
「永遠のいのち」
(新約聖書 テモテへの手紙第一 3:14〜4:6)
生ける神の教会

『私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」』(新約聖書 テモテへの手紙第一 3:14〜16)

   イエス・キリストは、人の体をもってこの地上に来られましたが神であり、人々の罪を背負って十字架にかかって死なれ、3日目によみがえられました。これを信じることが教会の柱であり土台です。
   生ける神の教会とは、神を信じる人達の集まりのことです。このことは、私達に、キリストはいつも私達と共におられるということを教えています。私達は、教会という場所で初めて神とお会いできるのではなく、どこでも神と交わることができます。


私達が注意すべき惑わす教えとは何か

『しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 4:1〜6)

   パウロは、現代の私達に対して、偽善者によって間違った教えが広められるから警戒するように警告しています。それはどのような教えでしょうか。

『もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」とうような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:20〜22)

   「結婚するな。食べるな。」あるいは「すがるな。味わうな。さわるな。」などの教えに従って祝福を得ようとすることを、律法主義といいます。私達が惑わされないよう気をつけるべき間違った教えとは、このような「○○すれば△△が得られる」という律法主義の考え方です。
   この世界は、律法主義で成り立っています。「〇〇したら嫌われる。○○したら合格する。○○しないと出世しない。○○しないとたたりがある。」等、行いで人の価値を判断し、自分が属する社会の様々なルールに縛られて、「〜ねばならない」という生き方をしています。それはそのグループの中で祝福され、良く思われたいと願っているからです。
   私達はこの律法主義という考え方にすっかり慣れ親しんでいるのですが、パウロはそういう教えに惑わされるなと強く教えているのです。
   宗教は、人間の様々な願いに対して、「○○すれば△△という御利益がある、祝福がある。」と教えます。人の願望を突き詰めると、それは昔も今もまったく変わらず、永遠のいのちと富です。永遠のいのちとは、健康で長生きしたい、できれば死にたくないという願望であり、富とは、人から良く思われたい、お金や権力が欲しいという願望です。これらの願望に対して答えようとするものが宗教です。
   キリスト教も、人間の願いに対して答えを与えてくれるものですが、その方法は律法主義でもギブアンドテイクでもありません。神は、人間が何かをしたから祝福するというパターンでは関わりを持たれないのです。
   このことに注意して、きちんと理解しておかないと、私達は、この世で慣れ親しんだ律法主義の考え方によって、神と間違った関わり方をしてしまいますから、惑わされないように気をつけなければなりません。


神は私達とどのように関わられるか

   神と人との関係は、私達が何かをしたら永遠のいのちを下さるような関係ではありません。ただイエス・キリストについてくるようにと言われています。

『わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:27〜28)

   羊はイエス様の声を聞き分けるということは、イエス様は私達に語りかけておられるということです。まず神が私達に語りかけ、その声を聞いてついていく者に、神は永遠のいのちをお与えになります。
   神が語りかけるとは、私達の耳に神の声が聞こえるということではなく、心のドアをノックするということです。この時、神の呼び掛けとして私達の心に聞こえてくるものは虚しさです。神が心のドアを叩けば叩くほど、私達はつらくなり、苦しくなり、虚しさを感じます。そして、喉が乾けば水を飲もうとするように、虚しい心を満たしたいという願いが起きます。この時、人には二つの選択があります。それは、語りかける神の声に聞き従うか、別のものでごまかすかという選択です。
   別のものでごまかすとは、仕事や子育てで忙しいから自分は虚しくないとか、別の快楽を求めることで自分は幸せだと思い込もうとすることです。自分の良心の声に聞き従おうとせず、見えるところの喜びだけで生きようとしてしまうのです。
   神の声に従うとは、神の「呼びかけ」に応答することです。実は、これは無意識に行なっている場合が多いため、この段階ではほとんどの人がキリストを知りません。しかし、別のものでごまかすことをせず、何か見えないものに対して助けを求めることが、羊が神の声に聞き従うということであり、神はこの時点で永遠のいのちを与えてくださっているのです。
   人には意志があり、自らの意志で心のドアを開けない限り、神はその人に永遠のいのちを与えることはできません。神は、友という関係を築きたいために、人に意志を与えられました。その意志を無視して勝手に永遠のいのちを持ち込むことは、人格を無視することになり、その人を滅ぼしてロボットにするのと同じことです。ですから、神はあくまで心に呼びかけ、それに対して人がどう答えるかによって、神との関係が築かれていきます。

イエス・キリストはあるとき、「何をしたら、永遠のいのちを得られるか」と質問した青年に、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」とお答えになりました。(マタイ19章)。
    イエス様がそのように命じられたのは、この青年に「この世の心づかい」(人から良く思われること)と「富」にしがみついている罪に気づかせたかったからです。イエス様は、この青年にとって耳の痛いことを言うことで、青年の心の戸を叩き、つらさを感じさせたのです。そうすれば、この青年がご自分の呼びかけ(つらさ)に応答し、助けを乞い、永遠のいのちを手にすることができるからです。永遠のいのちを欲した彼に、イエス様はそれが得られる道を整えられました。しかし、残念ながら、この青年は神の呼びかけに「応答」し、助けを乞うことはせず、その場を去ってしまいました。

   神は私達の心に虚しさを引き起こし、神への願いを起こさせますが、それを選択するかどうかは、私達の意志に委ねられます。自分の意志で神に応答し、助けを求めるなら、永遠のいのちが与えられて救われますが、この時点ではほとんどの人に、イエスが神だという自覚はまだありません。永遠のいのちが与えられたことによって、イエスは神だと知ることができるようになるのです。


永遠のいのちが与えられたことによって救われる

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:3)

   永遠のいのちとは、イエス・キリストを神だと信じさせてくれる信仰のことです。信仰がなければ、神の国の情報をキャッチすることができません。三位一体の神を知り、イエス・キリストを信じることができるのは、神によって信仰が与えられているからです。人は、神から信仰を頂かなければ、イエス・キリストを信じる信仰を持つことはできません。この信仰こそ永遠のいのちです。
   この世の情報をキャッチするのは、目や耳といった肉体です。この情報をもとに、人はその意志で様々な選択をします。つまり体は、意志が行動や思いを決定するために必要な情報を伝える働きをしています。体がなければ情報をキャッチすることができません。
   同様に、神の国の情報をキャッチする働きをしているのが、信仰すなわち永遠のいのちです。ですから、永遠のいのちは御霊のからだの働きをするものだと言えます。肉のからだがあるように、御霊のからだがあるのです。
   つまり、「永遠のいのち」とは、「信仰」であり、「御霊のからだ」を指すのです。それは、私達が神に応答した時点で与えられます。その時点ではまだイエスが神だという信仰は持っていないのですが、まず永遠のいのちが与えられ、その後、イエスが神であるという信仰に至ります。

『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:17)

   神が呼びかけ、心がその呼びかけに応答することで永遠のいのちは与えられ、イエス・キリストについての御言葉を聞くことによって、これこそ自分が求めていた神であると信じるに至ります。信仰が成長するには御言葉が必要なのです。心が神に応答し、永遠のいのちが与えられていても、イエス・キリストについて聞いたことがなければ、イエスが主であるとはわかりません。しかし、イエスが主であると告白していなくても、永遠のいのちが与えられた時点で救われているのです。
    ですから、生まれてから1度もキリスト教について聞いたことがない人であっても、救いのチャンスは平等に与えられています。生ける真の神に心を開いた者は皆、永遠のいのちが与えられ救われるのです。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:9〜10)

   人は、心が神に応答した時点で義と認められ、信仰が与えられ、救われます。そして、口で告白した時点で救いの確信に至ります。つまり、自分がイエスを神だと告白したときに、人は自分が救われていたことに気づくのです。この御言葉はそれを教えています。神に応答した時点で与えられた信仰は、御言葉を聞くことによって成長し、確信を持つに至り、告白してバプテスマを受ける決心に至ります。ですから、あくまでもバプテスマや信仰告白によって救われていることを自覚するのであって、バプテスマや信仰告白によって永遠のいのちが与えられるわけではありません。心が応答した時点ですでに与えられているのです。そして、永遠のいのちが与えられていれば、救われています。
   神が永遠のいのちを下さったから、キリストが主だとわかるようになるのです。神と私達の関わりは、人間が何かを頑張ったら何かをもらえるという関係ではありません。神は、頑張ったらご褒美をあげるなどと言う方ではなく、惜しみなく与える方なのです。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:47)

   ギリシャ語の原語で「信じる者は永遠のいのちを持つ」とは、「もしあなたが信じるなら、永遠のいのちを持つだろう」という未来形ではなく、「信じている人は今永遠のいのちを持っている」という現在形で書かれています。
   永遠のいのちは、イエスを神と信じさせる働きをします。この御言葉は、信じたら永遠のいのちがもらえると教えているのではなく、「あなたがイエス様を信じているならすでに永遠のいのちを持っているんだよ」と確認しているのです。
   永遠のいのちを持っているから、イエス様を信じることができ、御言葉を聞くたびに成長し、十字架の贖いを信じることができるようになるのです。この確信に至るまでの時間は人によって異なりますが、一度永遠のいのちが与えられれば必ず成長し、二度と神から逃げることも、神を否定することもできません。

『すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:22)

   「キリストを信じる信仰による神の義」とは、私達が神に義と認められたのは、自分の努力によるものではなく、心が神に応答したことによって神から与えられた信仰によるものだということです。この聖句には、「信じる」という言葉が2回使われていますが、それぞれ異なった意味で使われています。ギリシャ語の「信じる」という言葉にはいくつか意味があり、前半の「信じる」は、イエスを神と信じる信仰の意味で、後半の「信じる」は、心が応答して永遠のいのちを得たという意味で使われています。神に応答する人には、差別なく永遠のいのちが与えられ救われます。
   キリスト教は「信じるだけで救われる」と教えます。しかし、あなたがイエスを神と信じることができるのは、あなたががんばったからではなく、神に応答したことで永遠のいのちが与えられたからです。これが内なる人の誕生です。永遠のいのちは神の国の情報を受け取る媒体であり御霊のからだです。御霊のからだによって、私達は神の国の情報を受け取れるようになりました。すべて一方的な神の働きによるものです。


御霊のからだ

『血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。』(新約聖書 コリントへの手紙第一 15:44)

   永遠のいのちとは御霊のからだです。体がなければ情報をキャッチすることができず、魂が存在するには体が必要です。私達は御霊のからだを頂いたことで、神の言葉をキャッチすることができるようになり、イエス・キリストを知ることが出来るようになりました。この御霊のからだは成長し、私達の肉体が滅ぶ終わりの日には、御霊のからだだけの状態になって神の国に行きます。

『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』(新約聖書 コリントへの手紙第一 15:59)

   ちょうどさなぎが蝶に変わるように、古い体を脱ぎ捨て、私達の内側にあった御霊のからだだけの状態となるのです。これが朽ちないからだです。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリントへの手紙第二 3:18)

   人は、赤ちゃんを身ごもっても、最初はそのことに気づきません。しかし、胎内の赤ちゃんはどんどん人の姿に変えられていきます。同様に、私達は永遠のいのちを頂いても、最初は自分でも気づきません。しかし、それは一人一人の中でどんどんキリストの姿に変えられていき、成長した内なる人すなわち朽ちないからだをもって御国で永遠に生きるのです。

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(新約聖書 コリントへの手紙第二 4:16〜18)

   私達の肉体は衰えますが、内なる人は神への信頼を増し加えて成長し、キリストの栄光のからだに変えられていきます。
   いつまでも続く見えないものとは、永遠のいのちであり御霊のからだです。私達はそれをすでに持っているのですが、見えるものに心を奪われてなかなかこのことに気づきません。しかし、患難にぶつかることによって信仰が試され、その中で神を信頼する選択をすれば御霊のからだは成長します。また、御言葉を食べようと、この世の心づかいや富と戦って信仰を使えば使うほど、御霊のからだは成長していきます。こうして、御霊のからだが成長すれば、自分には永遠のいのちが与えられており、自分の中には神のいのちがあって自分はキリストのからだの一部なのだという事実を信仰の目で見ることができ、失望することはなくなります。