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2015年月4月5日イースター礼拝
「よみがえり」
(新約聖書 ヨハネの福音書 11:25〜26)
   イエス・キリストが十字架にかかり、三日目によみがえったという出来事は、私達の考え方を大きく変え、世界の歴史を変えました。そこには大きな希望があるからです。キリストがよみがえられたことには、いったいどんな希望があるのでしょうか。

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:25〜26)

   この言葉は、ラザロという人物が病気で亡くなった場面で語られたものです。この時、イエス・キリストは、「ラザロは死んでいるのではない。眠っているのだ」とおっしゃって、「私はラザロをよみがえらせる」と言われました。ところが、そこに居合わせた人々は誰もこの言葉を信じず、「彼はいつか終わりの日によみがえるのでしょう」と言ったのです。そこで、イエス・キリストは「私を信じるなら、その人は決して死ぬことはない。このことを信じますか。」と語られたのです。
   イエス様からこのように迫られても、ラザロの姉妹であるマルタやマリヤでさえも、それを信じることができませんでした。イエス・キリストは人々の不信仰に涙しましたが、この後、ラザロをよみがえらせるという奇跡を行われたのです。これを見た人々は、イエス様を信じれば、確かによみがえることができるという希望を持ちました。
   その後イエス・キリストは、ご自身がよみがえる姿を人々に示されました。イエス・キリストは大勢の人々の目の前で十字架にかかって死に、3日目によみがえって、多くの人々の前にお姿を表しました。自分の目の前で確かに死んだイエス様が、今目の前で生きていることを見た人々は、キリストの言葉を思い出し、死んでもよみがえって生きる希望があるという事実を受け入れました。こうしてキリスト教は全世界に広がったのです。
   もし復活という事件が起きなければ、キリスト教は、単にひとつの教えとして歴史の中に埋没した可能性もあります。当時のローマ帝国の激しい迫害の中にあって、なぜキリスト教が世界中に広まったのか、それは、人々が復活という事実を確認したからです。復活の事実は、私達に次のような希望を教えます。

1.死に対する希望

   イエス・キリストの復活を通して人々は、死に対して希望を持つことができました。人は必ず死にます。しかし、イエス・キリストを信じるなら、私達はよみがえることができるのです。死は終わりではなく、よみがえって新しいいのちをいただいて生きることができるという事実は、私達にとって大きな祝福です。
   私達が生きていく上で、最も自分自身を苦しめている本当の原因は、人の目が気になるという恐れです。人は常に、どうすれば人から良く思われるだろうか、どうすれば人から愛されるだろうかと気に病んでいます。なぜそんなに人から良く思われようとして努力しなければならないのか、その究極の原因は死の恐怖にあります。
   実は、死の恐怖には二つの面があります。死とは根本的に神との関係が壊れることであり、その結果人はいのちを失い、肉体も滅びるようになったわけです。また、神との関係が壊れることによって、私達は神の愛が見えなくなり恐怖を感じています。神という存在がわからなくなったために、自分が何者であるかわからない、その恐怖に支配されている状態を指して、聖書は、私達は皆死の恐怖の奴隷であると言っています。
   自分が死を迎えて肉体が滅んだら、その先何が起きるかわからないという恐怖があるために、私達はお金や物や人にしがみつこうとしてしまいます。お金や財産を持つことや、人からよく思われることで、安心を得ようとするのです。しかし、何にしがみついても一時の安心しか得られません。これが私達の現実です。
   このような私達に対して、神は永遠のいのちを与えて死を終わりではなくし、恐怖を取り除いて希望を与えてくださいました。ここに私達は生きる意味を見出すきっかけを得るのです。

2.失敗に対する希望

   イエス・キリストの復活は、私達が「もう終わりだ」と思ってしまうような失敗に対しても生きる希望を与えます。人生誰しも大きな失敗や過ちを犯すものです。そのような時、私達は「もうだめだ。自分の人生はもう終わりだ。」と諦めてしまいます。しかし、イエス・キリストは、あなたの罪はどんな罪でも赦され、あなたの過去はすべて消え去り、あなたは新しくキリストと共に生きるようになったのだと言われました。イエス・キリストが死からよみがえったのは、私達にこのことを教えるためです。
   「もうだめだ、終わりだ。」と思うような失敗も、「自分はもう生きている価値がない。」とさえ思うような失敗も、イエス・キリストを信じる時、決して終わりではなく、あなたはもう一度よみがえって、希望を持つことができるようになります。イエス・キリストの復活は、あなたに生きる希望とやり直す力を与えてくれます。


3.悲しみや失望に対する希望

   人生には、自分の失敗が招くわけではない悲しみや失望が訪れるものです。家族の死や、天災、自分自身に降りかかる予期せぬ出来事もあるでしょう。しかし、そういう時も、よみがえるという希望が、私達を大丈夫だと励まし、生きる力を与えてくれます。
   今、世界中で宣教活動をしておられるニック・ブイチチ師は、生まれつき手足がありません。ブイチチ先生のお父さんは牧師で、彼も小さい頃から神様を信じていましたから、「神様、ぼくに手と足をください」と祈り続けていましたが、手足が生えてくることはなく、彼は10歳の時、絶望のあまり浴室で自殺を図ります。しかし、この時、彼の心に迫る思いがやってきました。彼は自殺を思いとどまり、その後、最も人の役に立つ人生を送ろうと、神を伝える伝道者になりました。ブイチチ師は、「○○があれば幸せになれるというのは妄想だ。お金があれば幸せになれると多くの人は考えるが、お金は人の失敗を許すことはできないし、悪を許すこともできない。人生の答えを見つけることもできない。」と語ります。彼は、手足があれば幸せになれると考えていたかつての自分の考えが、間違っていたことに気づいたのです。
   私達は、失望の中に落ち込むと、自分はダメだと思ってしまうものです。しかし、神はそうではありません。神は、私達にまったく新しい価値観を与えてくれます。聖書は、私達の問題は、私達が自分自身で心を変えないことだと言っています。私達は見えるもので心を満たして問題を解決しようとしていますが、そうではなく、心を一新することで自分を変えなさいと教えられているのです。
   目が見えず耳が聞こえず言葉も発せられない三重苦の障害を持つヘレン・ケラーの家庭教師として有名なサリバン先生は、次のような名言を残しています。「喜びは自分を忘れることにある。」
   いつも自分のことを見て、自分のことばかり考え、自分の過去を見て拘束されているから、自分は幸せではないと思ってしまうのです。そして、そう思っているから、見えるものが手に入ったら幸せになれると勘違いしてしまいます。しかし、本当の喜びは、自分を忘れるところにあるのです。自分のことばかり見るのをやめて神を見上げる時、キリストがあなたを愛し、あなたと共にいることに気づき、真の喜びを手に入れることができるのです。アニー・サリバンはこのことを知り、三重苦の少女にぜひともこれを伝えたいと願って、ヘレン・ケラーの家庭教師を志願しました。そして、ヘレン自身もイエス・キリストを信じ、真の喜びを体験した人生を送りました。
   人は自分しか見えず、自分の過去しか見えない時に苦しむのです。しかし、イエス・キリストが見える時、よみがえったイエス・キリストがあなたの中にいることに気づくでしょう。その時あなたには、もう一度よみがえって生きようとする希望が湧いているのです。
   イエス・キリストはよみがえられました。ここに、私達にとっての希望があります。死んだ後に生きる希望、失敗してもよみがえる希望、失望から立ち上がる希望。このような希望をイエス・キリストが私達に示してくださったのがイースターです。私達に真の希望をもたらしてくれるこの希望を胸に抱き、神を見上げて生きていきましょう。