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2015年月3月22日
永遠の滅び
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1:1〜)
・恵みと平安

『パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1:1〜2)

   テサロニケの人々に対してパウロが二度目の手紙を書きました。パウロが書く手紙には「恵みと平安」という言葉がよく使われます。恵みとは、一言で表すならば、罪が取り除かれることです。罪の本質は、自分の枠の中で物事を捉えようとすることです。神はこの枠を取り払って、私達を自由にしたいと願っておられるのです。
   たとえば、自分が持っている物差しや経験という枠で神を捉えようとすると、自分の理解を超えた部分については受け入れることができず、「神がいるのに、なぜこんなことをするのか」とつまずいてしまいます。人に対して怒ったりさばいたり、人間関係がこじれたりする原因もこれと同じで、相手を自分の枠の中で理解し受け入れようとしているために、自分の枠を超えた部分を見つけると腹が立ったり摩擦が生じてトラブルが発生するのです。また、自分自身に関しても「自分はこれだけのことができる人間だ」と、自分の枠の中で、自分の義を立てよう、自分の価値を見出そうとしますが、自分の枠で自分をしばる生き方によって自分を窮屈にし、自分で自分を苦しめていると聖書は語り、自分の力で自分の救いを達成しようとしていると言っています。これが罪の本質です。
   神は、あなたの心を苦しめるこのような枠を取り除いて平安を与えたいと願っておられるのです。ですから、恵みと平安はセットなのです。

『兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1:3)

   神は私たちの信仰の成長を望んでおられます。それは、神への信頼が増し加わることで、私たちが平安を得るためです。神を信頼するとは、自分の枠をはずして神の物差しの中に自分を入れていく作業です。これが神にゆだねるということです。しかし、私達はなかなか自分の枠を外すことができず、自分の知識の下に神を置こうとしてしまうものです。自分の枠の中で神を捉える限り、それは神を信頼しているとは言えず、知識で神を知っただけであり、それは神を奴隷にしているのと同じことなのです。

・神の国にふさわしい者

『それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1:4〜5)

   私達が今受けている迫害や患難は、信仰の成長をもたらし、私達を神の国にふさわしいものとして育てます。人は「自分はこれだけの人間だ」という自負がある限り、神を信用しようとはしないものです。しかし、患難や迫害によって自分が無力であることに気づく時、初めて自分を神に委ねることができるようになります。苦しみの中で信仰が成長するというテーマは、Tテサロニケの中で再三述べられてきたことです。自分ではどうしても超えることのできない問題にぶつかり、神に向かって助けてくださいと祈る時、私たちの信仰は成長するのです。苦難は嫌なものですが、神への信頼を成長させるチャンスです。
   パウロは多くの才能にあふれた優秀な人でしたが、どんなに祈っても自分自身の病がいやされないという出来事によって、自分の無力を思い知らされました。そして、そのおかげで自分の弱さに気づき、神の恵みに気づいたのです。私達もどうにもできない病や仕事の問題や人間関係の問題にぶつかる時、自分の弱さに気づくことができます。それまで必死に見えるものにしがみついてきたけれど、しがみつくものがなくなってしまった時、枠がはずれ、神に心を向けることが出来るのです。自分の弱さに気づく時信仰は成長する、これが、聖書が教える罪が取り除かれて平安を得る行程です。
   多くの人は苦難や病にあった時、なぜ神がいるのにこのような苦しみに会うのか、神は私を愛していないのかと悲しんだりつぶやいたりしてしまうものです。旧約聖書のヨブも、初めはそのようにつぶやき、彼を造った神に対して自分など生まれてこないほうが良かったと言ってつぶやきました。しかし、そこから自分の弱さに気づき、神の恵みに気づくなら、永遠の宝を手にすることができます。聖書が教える忍耐とは、患難から目をそらさないことです。私達が天国に行った時、今つぶやいてしまっていることも、このことがあったから道をそれずに神に頼ることができたのだと神の奥深い愛に気づくことができるでしょう。
   今私達がそこにふさわしい者になるよう育てられている神の国とは、旧約聖書で預言された、終わりの日に私達が迎え入れられる、神と共に永遠に暮らす場所のことです。しかし、イエス・キリストは、神の国はあなたのただ中にあると言われました。また、信じたら永遠のいのちを持つとも言われていますから、私達は信じた時点ですでに神の国に入っているのです。あとは、朽ちる体が朽ちない体に変えられて、この体が神の国に入り、神と顔と顔を合わせてお会いする日を待っているのです。
   この時、私達が神の国に持ち込める財産は神への信頼だけです。神への信頼がベースになって、天国での神との交わりがスタートします。行いに応じて報いを受けるとは、神を信頼する心が十分に育っていれば、報いとして神との親しい交わりができます。しかし、神への信頼を持っていなければ、神に近づきたいという願いが湧いてこないので、親しく交わることもありません。いずれにしても、神への信頼が私達の永遠の宝になりますから、信仰と希望と愛が永遠に残るのです。
   苦しみは、信仰と希望と愛を育てる上で役に立ちます。問題を通して、神なしでは生きられない自分の弱さに気づくことが、自分の枠を取り払い、自分を変えるチャンスとなります。

『つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1:6〜7)

   神を信じない人にはそれなりの報いがあり、迫害を受けても神への信頼を育てるならそこにも報いがあります。それは、神への信頼から生まれる平安であり、神の国に行った時に与えられる神との親しい交わりのことです。ですから、患難にぶつかったら、神を信頼する心を育てることに着眼して神に目を向け続けましょう。信仰こそ命です。この「報い」と言われている安息について、私達は天に迎え入れられる朽ちない体に変えられる時にわかるようになります。

・永遠の滅び

『そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第二 1:8〜10)

   私達は肉体の死を迎えた時に、イエスを信じた者と信じなかった者の二つに分けられます。最後の審判とか終わりの日と言われますが、肉体の死を迎える時、信じなかった者には永遠の滅びの刑罰があり、信じた者は朽ちない体に変えられて永遠に神と生きることになります。永遠の滅びの刑罰とはどういうことでしょうか。
   一般的に、死んでもその魂は不滅で、死んだ人々は霊となって私達を見守っていると考え、人々は先祖崇拝をし、お墓や仏壇を作って心の拠り所としています。また、仏教やヒンズー教など、死んでも魂は他の生き物に姿を変えて生きるという輪廻転生を信じる宗教もあります。
   初期の哲学は、体は悪であり魂は清いものだと考え、人間の魂は体という牢獄に閉じ込められており、死とは牢獄から解放されて自由になる時だと考えました。この思想が多くの宗教や哲学に入り込み、人は魂は不滅だという希望を抱くようになりました。この考え方は、13世紀、トマス・アクィナスによってキリスト教にも入り込み、霊魂不滅説が生まれました。これによって、黙示録の理解が全く変わってしまったのです。
   しかし、霊魂不滅説は、もともと聖書にはない考え方です。聖書が教えているのは、永遠の滅びです。聖書ではこの言葉は4回使われており、肉体が死ぬとは、原形すらとどめず完全に消えてなくなることを意味します。
   私達は幼い頃から、死んだら仏になって自分を守ってくれると叩き込まれているために、何の疑問もなく霊魂は不滅だと受け入れ、希望を抱いてきました。キリスト教ですら13世紀から霊魂は不滅だという説が有力だったために、魂が滅びるとはにわかには受け入れがたいかもしれませんが、聖書の言葉を基準に考える時、聖書にはそのような教えはないのです。現在、キリスト教の中には、魂は不滅だと考える人と、聖書の教えに戻ろうとする人の対立した二つの考え方があり、葛藤の時期にあると言えます。
   そこで、もう一度聖書はどのように教えているのかを確認してみましょう。

・聖書は死についてどのように語っているか

   神は人の体を地上の物質で造り、そこに神のいのちの息(霊)を吹き込み、人は生き物となったと聖書に書かれています。ここから、人が生きるために必要なものは、肉体と霊(魂)であることがわかります。魂は魂だけで存在できず、魂を支える体を必要とします。ところが人に死が入り込み、体は朽ちるものとなってしまいました。体が朽ちる時、魂も一緒に滅ぶことになってしまったのです。

『朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:53)

   「死ぬもの」とは私たちのいのち・魂のことであり、魂は朽ちないものを着なければ死んでしまう、つまり、体がなければ生きられないと教えられています。死とは神との関係が永遠に断たれることです。死に勝利するには朽ちない体を着る必要があるため、神は肉体が滅んだ後、朽ちない体を着せてくださるのです。
   神を受け入れなければ、朽ちない体をいただくことはありませんから、信じなかった者の魂は、体と共に永遠に滅び、なくなってしまうというのが聖書の考え方です。一般に考えられているような火と硫黄の池に入れられて永遠に苦しむとか、永遠の火に焼き続けられるなどの理解は、魂は永遠であるという考え方と、死とは罪の罰だという考え方が根底にあるために生まれた理解です。しかし、聖書は一言も神が罰を与えるとは語らず、むしろ、神は裁くためではなく救うために来たと教えています。私達の罪を背負って十字架にかかった神が、人間を永遠の刑罰で苦しめるなどまったく想像することができません。黙示録は、神との断絶という死の恐ろしさを伝えるために象徴的な言葉で書かれたものですが、霊魂不滅説が登場してから、字義通りに解釈されるようになりました。さらに、霊魂が不滅だと信じることで、煉獄の苦しみの中でも会心すれば救われるという聖書にまったくない教えまでが生まれました。
   イエス様は自分の死を迎える時、神と離れるその恐ろしさを伝えるために、3人だけ弟子を連れてゲッセマネの園に祈りに行きました。罪を背負って十字架にかかるとは、一時的であっても神との関係が完全に切られるということであり、神を知らない者はまったく希望がないという恐ろしさ・苦しさを味わうということでした。

『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙第一 5:7)

   イエス様は、死から救われる道は神に頼るしかないことを、よく知っておられました。そこで自ら罪を背負って十字架にかかり、罪から贖い出されるためには、神に助けを求めるしかないことを示してくださったのです。そして、キリストはよみがえり、イエス・キリストを信じれば、私達も永遠のいのちをいただいて死からよみがえり生き続けることができることを示してくださいました。
   大切なことは、私達を造った神だけが、私達を朽ちない体に変えることができるという事実です。救われるための条件は、ただ神を信じればいいだけです。御子を信じる者は永遠のいのちを持ち、終わりの日に朽ちない体に変えられるということが、私達の信仰の基本です。
   永遠の滅びの刑罰とは、滅んでしまうということです。私達が生きている間にしか私達を救うことができないために、神であるイエス様が人としてこの世に来られ、福音を語られたのです。イエス様は、私達に神を受け入れるように福音を語り続け、また、私達にも福音を語るように教えておられます。

   人間というのは、体と心からできていると言われます。しかし、人間の本質の最も重要な部分は意思です。人間には、自分で考え、自分で選ぶという意思が与えられており、神は決して人の意思を無視して勝手に救うようなことはなさいません。そんなことをすれば意思は崩壊し、意思を支える魂は滅んでしまいます。
   ですから黙示録には、私達が自分で心を開くように、イエス様は心の戸を叩き続けておられると語られています。キリストを信じるならば、キリストがよみがえられたようにあなたもよみがえることができると教え、心の扉を開いて共に食事をしようと語り続けておられます。これが救いです。
   私達は、自分の意思で決断しなければ前に進むことはありません。私達が自分で選択できるように、神であるキリストがこの地上に来られ、キリストを信じて永遠のいのちを得るようにと情報を与えてくださいました。すべてはあなたが神を受け入れるかどうかの選択にかかっています。罪はその選択を妨げ、あなたの枠の中に収まらない神を受け入れさせないように、心を閉ざさせるものです。しかし、死という壁の前に私達は無力です。そのことに気づき、神の前に心を開き、助けてくださいと祈るなら、神はあなたを助けることができます。生きている間に福音を伝えるのはそのためです。
   私達が救われるチャンスは、生かされている時しかないのです。魂が永遠に続き、いくらでもチャンスがあるような考え方は、今日の宣教を大きく妨げる壁になっています。
   聖書は何を教えているのか、イエス様はなぜ地上に来て福音を語られたのか、それは私達の魂が体と共に生きている今しか救いのチャンスがないからです。今この地上に生きている間に、私たちは心を開いて神を受け入れ、神への信頼を増し加えていきましょう。朽ちない体に変えられた時、その信頼がそのまま天国での神との交わりの土台となります。これが聖書の教える福音です。私達は、神を信じること、永遠のいのちを手にすることの大切さ、素晴らしさと、死の恐ろしさを知るべきなのです。