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2015年1月11日
御国を相続する
(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:17〜)
『あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主にあって喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。)』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:17〜24)

・神が相続させたい福音は二つある

   聖書は、すべてのことを感謝するように教えます。それは、私たちが主から御国を相続させていただくことを知っているからです。御国を相続するとは、神の国に入れるだけではなく、罪が取り除かれることによって平安を相続することを意味します。
   コロサイ人への手紙3章は、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」という言葉から始まっています。「よみがえらされた」とは、死んでいたということです。人は、神との関わりが断たれた状態で生まれ、生まれながらに死んだ状態にありました。しかし、キリストによる救いを受け、神のいのちが宿り、死んでいたいのちがよみがえったのです。神のいのちは永遠ですから、私たちが受けたいのちも永遠です。こうして、御国で永遠に生きるいのちが与えられた者が次に目指すステップは、安息(平安)を手にすることです。神は、私たちが神の国に入れさえすれば良いとは考えず、その上にある安息も相続するように願っておられます。救いが私たちに相続させるものは、いのちと平安という二つがあるのです。
   平安とは、罪が取り除かれて、神を信頼することができるようになることです。ところが、神を信頼しようとする時、罪がそれを邪魔します。罪とは、見えるもので安心しようとする思いです。多くの人は罪というと悪い行いのことだと考えますが、罪の本質は、行いではなく、見えるもので安心を得ようとする不信仰です。この罪を取り除かなければ、神との関係を回復しても平安は築けません。そこで神は、罪を取り除いて神への信頼を増し加え、平安を取り戻すという二つ目の福音を用意しておられるのです。
   救いによって相続するものが二つあることを知らないと、自分の罪の行いを見た時に、自分はまだ救われていないのではないかという疑いが生じ、混乱してしまいます。しかし、聖書ははっきりと、行いによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われると教えています。
   つまり、救いとは、まずイエス・キリストのいのちが宿って神との関係を回復するという第一のステップがあり、これによって天国に行くことが確定します。さらに、平安を確立するという第二のステップがあり、これも救いによって神から相続するものなのですが、この相続を得るには、神との交わりを深めて信頼関係を築くことが必要なのです。
   それはちょうど国交が回復しても、その国との関係はまだ始まったばかりで、そこから信頼関係を築く交流が始まるようなものです。私たちの救いによって、神との交わりが回復し、問題にぶつかったら祈ることができるようになりますが、まだ生き方が変わったわけではありません。救われた者は、さらに平安という相続を受ける約束に進んでいるのです。

・神の福音は、旧約の初めから用意されている

『わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』(旧約聖書 創世記 17:7〜8)

   神の福音は、旧約の初めから用意されており、その計画はまずノアに語られ、やがてアブラハムがそれを受け取りました。この時、神は、契約を「結ぶ」のではなく「立てる」と言われました。通常契約とは、双方に負うべき義務が発生します。しかし、神は人に対して一切の条件や義務を要求しませんでした。約束を実行するのは神の側だけで、人間は無条件にこれを受け取ればいいという契約です。
   契約の第一は、私があなたの神となるという契約で、信じるならば、無条件でこれが与えられます。救いは、行いではなく、一方的な神の恵みであり、信じる人は誰でも救われるのです。
   そして、次の契約は、カナンの全土をあなたの子孫に与えるというものです。この「カナン」は安息の地という意味があり、平安をもたらすことを表します。神が二番目に立てた契約は、私たちを安息に導く契約です。これは、罪を取り除いて神への信頼を増し加え、平安を取り戻せるようにするということです。
   イエス・キリストは、次のように言われました。


『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)

   永遠のいのちを得て、それを豊かに持つとは、神との関係をしっかり持って、神への信頼を増し加え、それによって安息を得ることです。このために、私たちの側には一切条件は要求されず、ただ受け入れさえすれば、誰でも永遠のいのちを手に入れることができます。救いに行いは必要ないのですから、神が私たちの行いを見て救いを取り消すなどということはありえません。

『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28〜29)

   神が永遠のいのちを与えたら、神の愛から引き離すことができる者は誰もいません。救いとは、神の側で一方的にされることで、私たちがすべきことは一切ありませんから、私たちがどんな状態であろうとも、何をしようとも取り消されることはありません。イエスは主であると告白できるならば、その人は救われていますから、自分の不完全な信仰や行いを見て、果たして自分は本当に救われたと言えるのだろうかと心配する必要はありません。

・永遠のいのちとはイエス・キリスト

『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:20)

   イエス・キリストこそ永遠のいのちであるとは、イエス・キリストご自身が私たちの中に住まわれて、私たちのいのちとなるということです。私たちの中に神が住み、神と一つになることを、救われると言うのです。神はあなたの中にすでに住んでおられるのですから、自分は愛されてないとか、見捨てられたなどということはありえません。聖書が福音について教えていることの多くは、どうしたら神に住んでいただけるかという第一の福音より、すでに住んでおられる神とどのように関係を築いて神からの平安を受ければ良いかという、二番目の福音の内容がほとんどなのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

   私たちが見えるものにしがみついて、神への信頼を邪魔する罪の実態は恐れです。人は、神との関係を失ってから死の恐怖の中に生きていて、見えるものにしがみつかざるを得なくなってしまいました。人から悪く言われたり、お金がないと不安になるのは、すべて恐れが原因です。神を信頼したいと願っても、人からの評判や富で安心しようという思いが邪魔をして、信頼することができません。これを取り除くには、その根本にある恐れを締め出すしかありません。イエス・キリストは、私たちを苦しめる恐れを締め出すために、十字架にかかって愛を示されたのです。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9)

   神は十字架によって愛を示し、恐れを締め出して、私たちに平安をもたらしてくださいました。これが二つ目の福音です。
   福音の二つの内容について、「私たちを救い出し安息に導く」「羊がいのちを得てそれを豊かにする」等、いくつかの表現がありますが、パウロは次のようにも語っています。

『しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:22〜23)

   「神の奴隷」になったとは、神との関係を回復したということであり、「聖潔に至る実を得た」とは、罪が取り除かれていくということです。そして、ここで御言葉の意味を理解するポイントは、その行き着く所である「永遠のいのち」とは何かということです。これを、罪が取り除かれなければ救われないと理解してしまうと、救いは行いによるものではなく、一切の条件を求めずに神が一方的にくださる賜物であるという御言葉と矛盾します。ですから、救われた者が行き着く永遠のいのちとは、救われた者が行き着く安息、あるいは、羊がいのちを豊かにすることと同じ意味で、罪が取り除かれることで得られる平安という意味です。つまり、永遠のいのちには、二つの意味があり、神から与えられる永遠のいのちと、罪が取り除かれることで手に入れる永遠のいのちの二つがあるのです。これが二つ目に相続する福音です。聖書はこのことを永遠のいのちであるイエス・キリストに近づくとも言っています。

・出エジプトから学ぶ福音の2つの内容

   これらのことを、歴史の事実を通して理解を深めることもできます。
   アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、飢饉によってエジプトに移住しましたが、やがて奴隷として扱われるようになってしまいます。これを、神から離れ罪の奴隷として苦しんでいる現代の私たちの姿と重ね合わせて、聖書は語っています。神はエジプトで、アブラハムに立てた契約を思い起こし、モーセを指導者に選び、イスラエルがエジプトを脱出するように導かれます。この時、モーセの言葉を信じた人々はモーセに従い、海を渡ってエジプトを脱出し、奴隷から解放されて自由になりました。聖書は、これは恵みの型だと教えています。

『そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:1〜6)

   海を渡って自由になった彼らは、御霊の食べ物を食べ、御霊の飲み物を飲みました。海を渡ることはバプテスマを表し、御霊の食べ物・飲み物は、イエス・キリストを表します。それは、彼らの中に神ご自身が住むようになったという意味です。このようにして、神はイスラエルの民を救ったあと、律法を与えました。律法の目的は、罪をあぶりだすためです。これが、救われた人たちの次のステップになるのです。
   律法がなければ、自分がいかに罪深いかに気づくことができません。神は、イスラエルを奴隷から解放し、次のカナンの地を目指す段階で律法が与えて、自分自身の罪に気づかせ、その罪は赦されることを教えるために、祭司という制度を設けました。
   ところが、カナンの地を目指して、律法に従って罪があぶり出されていく途中で、大多数の者が罪を取り除こうとはせず、神を拒否してしまいました。その結果、彼らは滅ぼされ、せっかく神が用意した安息にたどりつくことができなかったのです。神が彼らを滅ぼしたとは、肉体を滅ぼすことによって、魂を救い出したということであり、神の国に入れなかったという意味ではありません。

『このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 5:5)

・不信仰は従わないところに現れる

『また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:18〜19)

   イスラエルの人々は、不信仰が原因で安息に入ることができませんでした。もし私たちが、不信仰という罪と戦わなければ、いつまでたっても安息には入れず、平安を得ることはできません。

『こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:1)

   神を恐れるとは、神に対して畏敬の念を抱くという意味の恐れであり、神を心から尊敬し、信頼することです。コロサイ3章で、御国を相続するという話の前に、従うことが教えられている理由は、不信仰はまず従わないところに現れるからです。つまり、従うことが、不信仰と戦うことになるのです。
   妻は主にある者にふさわしく夫に従うことが教えられていますから、夫が何か用事を頼んだ時に、イエス様に言われたのだと思ってできるようになれば幸いです。また、夫は妻に辛く当たってはいけないと教えられていますから、妻に不満をぶつけたりすることなく、愛さなければなりません。子どもはすべてのことについて、両親に従うよう教えられています。ただし、これらは、相手に要求するためのものではなく、自分が実行するためのものです。すべてのことに対して、相手を愛して従うことが、不信仰との戦いの第一歩となります。この一歩を踏み出すと、私たちは大切なことに気づきます。それは、「できない」ということです。大切なことは、「できる」ことではなく、「できない」ことに気づくことです。「できない」ことに気づくことは、なんと幸いなことでしょう。一歩を踏み出して、できないことに気づけば、神に助けを求めるしかありません。そして、神に助けを求めるならば、神が恐れを締め出して、できるようにしてくださるのです。これが、罪が取り除かれる二つ目の福音です。
   御言葉を信じきることができなくても、神にすがるしかありません。自分が弱いことを悟ったら、神にすがるしかありません。できることではなく、できないことを見つけて、神に憐れんでいただくことによって、不信仰が取り除かれます。私たちが自分で取り除くのではありません。神が取り除くのです。こうして、神を信頼し、愛する心が育ち、人の言葉に頼らない生き方になります。これが二番目の福音である、罪と戦う報いとして平安を手にする相続です。救われたのですから、あとは平安を得るだけです。すべてのことを感謝するため、不信仰に気づくために、従うところから始めましょう。従おうとしても、従えなくて当たり前ですから、この時こそ、神に助けを求めましょう。そうすれば、神があなたを憐れみ、あなたをいやしてくださいます。これが、神が用意されている二つ目の福音です。