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2014年月12月14日
文字に仕えるのは
(新約聖書 コロサイ人への手紙 2章16節〜22節)
『こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:16,17)

   人は、祭り事や食べ物、飲み物、日といったことに関して、「○○してはならない」「○○しなければならない」と、神の律法を使って様々な規定を勝手に作りましたが、そのようなものにしばられる生き方は本質ではありません。このような生き方を、聖書は「律法に仕える」とか「文字に仕える」と呼び、ここに私たちの問題があると教えています。律法は影であり、その本体はキリストです。

『あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:18,19)

   律法に従って、自分はこれだけのことをしていると、謙遜したり自己卑下したり誇ったりする人にだまされてはいけません。それらの人々は、見た目は立派に見えますが、キリストに結びついていないために、成長することはありません。

『もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」とうような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:20〜23)

   あなたは、「○○ねばならない」という思いに縛られて生きていないでしょうか。それらを頑張って達成しようとする生き方は、人の目には立派に見えるかもしれませんが、自分の心を変えることはできず、益となるものではありません。文字に仕える生き方をやめ、キリストを信じ、キリストに結びつく生き方に変えることで、問題は解決します。「○○ねばならない」という生き方の問題点は、次のようなものがあります。

1.文字に仕える生き方は怒りを引き起こす

『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)

   一人一人が心の中に持っている「○○ねばならない」という規定が強ければ強いほど、怒りや嫉妬や憎しみが生まれます。「妻は○○であるべきだ」「夫は○○しなければならない」「上司なら○○すべきだ」「△△は○○して当然だ」等々の律法にあなたが仕えているせいで、人間関係がうまくいかないのです。
   人は怒るとき、相手のせいで自分は怒っているのだと考えます。しかし、私たちが怒りを感じるのは、「○○すべきだ」という自分の考えに、相手が違反した時です。あなたが「○○すべきだ」「○○ねばならない」という考えを持たなければ、怒りを感じることはありません。ですから、怒りの本当の原因は、あなたが文字に仕えているところにあります。
   律法とは、人の価値を判断するための自分のものさしです。自分のものさしで人をはかり、自分にとって価値ある者を愛する、私たちは、これが普通だと思っています。しかし聖書は、「律法を持つと違反を生む」と教えます。それは、人の価値を判断するものさしによって、人を愛せなくなり、その結果、問題が生じているからです。神は愛ですから、違反とは人を愛せないことです。自分の心の律法に仕えるから、愛という神の御心に逆らってしまい、そのために問題が生じているのです。もしあなたが、親子、夫婦、職場等での人間関係をなんとかしたいと思うなら、律法に仕える生き方をなんとかしなければなりません。

2.文字に仕える生き方は魂を殺す

『神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:6)

   新しい契約とは、キリストを信じれば救われるという契約です。キリストを信じれば救われ、新しいいのちを得ます。しかし、律法に仕える生き方は魂を殺し、私たちからいのちを奪います。

『しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:14,15)

   文字に仕える生き方は、心におおいをかけ、神の言葉を見えなくします。神の言葉が見えなくなると、魂は死んでしまいます。

『すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。』(新約聖書 マタイの福音書 19:16〜22)

   この青年は、永遠のいのちをもらって天国で生きるためには「何をすればいいのか」と考えました。多くの人が、彼と同じように、救われるには、何かを実行しなければならないと考えます。しかし、このような考え方は、律法主義、すなわち、文字に仕える生き方から生まれる発想です。多くの宗教が徳を積めば救われると教えますが、神の教えはそうではありません。
   イエス・キリストは、この青年に対して、まず「律法を守りなさい。」とおっしゃいました。この「律法」は、神が私たちに与えたモーセの十戒のことです。律法に仕えて、永遠のいのちを手に入れることができるかどうかやってごらんなさい、という意味です。
   これには、この青年は自信がありました。それなら、自分は律法を守っているから救われますね、と言いたかったのです。しかし、ここでイエス様が教えたかったことは、いくら良い行いを積み上げても救われない、何かをすれば神から祝福を受けるとか見返りがあると考えるのは間違っている、神の救いは、頑張って行いを守らなくても、ただ神に助けを求め、信じさえすれば得られるものだということです。
   そこでイエス様は、青年が神に助けを求めなければできないことを言われました。このことを通して、青年が自分の行いに頼るのではなく、「それは私にはとても実行できません、どうか助けてください」と、神に助けを求めることを願われたのです。ところがこの青年は、イエス様が言われたことはとても実行できないと思って、悲しんで去って行きました。
   このように、律法を守ろうと文字に仕える生き方は、神の御心を見えなくさせてしまいます。あなたはただ恵みを受け取れば良い、などという話は、あまりも素晴らしすぎて信じることができず、救いを受け取れなくさせてしまうのです。「文字は人を殺す」とは、行いを頑張ることで神の御心が見えなくなってしまい、いのちを失うということです。文字に仕える生き方をしていると、心が鈍くなり、御言葉を聞いてもそれがわからないようになってしまうのです。

・どうすれば文字に仕える生き方を手放せるか

   文字に仕え、神の言葉を受け入れられなくなっていることが私たちの苦しみの原因です。ということは、本当に戦わなくてはいけない敵は、文字に仕える生き方、すなわち律法主義です。文字に仕えて何かを手にしようとする考え方を捨てなければ、苦しみから解放されないのです。
   私たちは、なぜ文字に仕える生き方をするようになったのでしょうか。それは、自分の中の恐れを打ち消すためです。「人から嫌われたらどうしよう」「お金を失ったらどうしよう」という恐れを打ち消すために、「○○ねばならない」という規定を作り、安心を得ようとしました。しかし、そのものさしで自分や人の価値を判断するようになったことで、かえって怒りや落ち込みや嫉妬に苦しむようになったのです。
   子どもが親に言われるままに従うのは、言うことをきかなかったら罰を受けるかも知れない、嫌われてしまうかもしれない、という恐れによるものであり、「○○を買ったら運が開けますよ」「お祓いをすれば運が開けますよ」などの言葉に従ってしまうのも、心の中にある潜在的な恐れによるものです。
   そして、恐れによってそれらの言葉に従っているうちに、いつのまにかそれが心に文字として刻まれてしまいました。そして、その律法に従って、人を判断して裁くようになり、神の言葉を信じて受け入れることができなくなってしまったのです。 聖書は、この恐れの源は死の恐怖だと教えています。イエス・キリストの十字架は、私たちを死の恐怖から解放するためのものです。

『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:15)

   人は皆死に対する恐怖を抱いているのですが、この感情は、潜在意識の奥底にあるため、なかなか気づけません。しかし、何を恐れるかは異なるにしても、人は皆、恐れという感情を持っており、その根底にあるのは、死の恐怖なのです。
   人は、神との関係を失ったことで、死ぬ存在となり、この恐怖からなんとか抜け出したいと願って「戒め」を考え出しました。人々は、恐れによって、人が作った戒めに言われるまま従うようになり、その結果、新しい苦しみが生まれました。「戒め」というものさしで人や自分を見て、まだまだダメだと苦しめ合うようになったのです。
   イエス・キリストがこの地上に来たのは、根本にある死の恐怖から私たちを解放し、律法にしばられる生き方から解放するためです。そのために、十字架にかかったのです。
   人は律法を守り、文字に仕えれば幸せになれると思っています。一生懸命生きるのは素晴らしいことですが、いくら律法を守り、文字に仕えても、それはあなたの魂には何の影響を与えることもできず、そのようなものにあなたを救う力はありません。
   私たちは、自分は死の恐怖の奴隷であるという現状に気付かない限り救われません。もし死の恐怖につながれた奴隷だと気づけば、人は必ず神に助けを求めます。現状に気づくことを、聖書は「弱さに気づく」と言っています。
   私たちは、自分がどのように人から見られているのか、どのように評価されているのかにおびえ、何か失敗したのではないか、責任を取らされるのではないかとおびえています。それは、無意識のうちに、心の中に刻まれている「○○ねばならない」というものさしで生きているからです。この生き方を作っているのが死の恐怖です。このことを、聖書は、人は皆一生涯死の恐怖の奴隷となっていると言っているのです。
   イエス・キリストは、初めて人々の前で神の言葉を語った時、冒頭で、次のように言われました。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3)

   「貧しい」とは、原語では、「恐れて縮こまっている状態」を表す言葉です。「自分が、恐れて縮こまっていることに気づいている人は幸いだ、天の御国はあなたのものだ。私はその人のために私は来たのだから。」とイエス様は語っておられます。
   この世界は今も、規定を守れば救われるという発想によって、行いで人の価値を判断し、行いに応じて報酬を得るシステムによって動いています。しかし、キリストは、行いによって救われるわけではなく、自分の心の貧しさ、すなわち、自分が恐れて縮こまっているということに気づきさえすれば、誰でも救われると語ってくださいました。
   どうすれば神が見えるようになり、どうすれば神を知ることが出来るのか、それは勉強や徳を積むことによってではなく、ただあなたが置かれた状態に気づきさえすればよいのです。パウロは誰よりも律法に仕えてきましたが、いくら律法に仕えても平安にならず、問題は解決しませんでした。そのみじめさに気づき、文字に仕えるのをやめて神に仕えたいと願ったとき、それができない自分がいることを発見しました。そしてパウロは、それは恐れが自分を支配しているからだということに、気づくのです。こうしてパウロは、律法が間違っていることと、神様しか自分を助けることはできないと悟ったのです。
   神は決して遠い存在ではありません。あなたが、ありのままの自分の姿に気づけば、気づくことのできる存在です。聖書は、『子どものように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることはできない』(新約聖書 マルコの福音書 10:15)と教えます。幼子は、自分を良く見せようとしません。自分の感情に素直です。私たちも、自分のありのままの姿に気づけば良いのです。
   あなたの心に誠の平安・いのちを与え、問題・苦しみを解決できるのは、イエス・キリストだけです。神を信じて救われるのは、決して難しいことではありません。自分が死の恐怖に怯えて縮こまっていることに気づくならば幸いです。