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2014年月11月30日
堅い信仰を築け
(新約聖書 コロサイ人への手紙 2章1〜10節)
・あなたの罪をあわれむ神

『あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:1〜2)

   パウロが苦闘しているのは、人々が神の言葉で励まされ、奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
   「奥義であるキリスト」とは、神が立てた永遠の契約によって、キリストがあなたを贖うために来られたということです。一般に契約とは、双方の約束事があり、ギブアンドテイクで成り立ちます。ところが、神が立てた契約は、神が一方的に自らに課した契約であり、人には何も要求しません。神はこの契約を徐々に明らかにし続け、ついにあなたを助け、あわれみ、贖うために、イエス・キリストがこの地上に来られました。
   この奥義であるキリストを真に知るようになるとは、人は神によって造られ、神を通して生きることができると、真に知るということです。これは、イエス・キリストに対して正しいイメージを持つということが含まれています。
   多くの人が抱いている誤解の一つに、旧約聖書の神は厳しく、新約聖書の神は優しくなったという考えがあります。しかし、それは人間の思い違いであり、神は、旧約時代から一貫して「あなたをあわれむ」と教えており、神の思いは全く変わっていません。確かに、旧約聖書には、神の怒りや罰といった表現がありますが、ひとつひとつを深く掘り下げてみると、そこには神の深いあわれみと愛が見えてきます。
   人間は、「罪=罰」というものさしを持っているために、悪いことをしたら罰せられると思い込んでいます。ですから、多くの人は、悪いことをすると咄嗟に罪を隠すことを考えます。しかし、そのイメージで聖書を読むと、神の姿がまったく見えてきません。なぜなら、神には、「罪=罰」という考え方はないからです。神の中にあるのは、「罪=あわれむ」という考え方です。
   神の永遠の契約は、あわれむことです。罪を赦し、二度と思い出さないということです。病気にかかった子どもに罰を与える親はいないように、罪という病気にかかった私たちを、神はあわれみ、なんとか助けてあげたいと考えます。そのために、その病気は自分ではどうすることもできないのだから、神である私に助けを求めれば良いのだよ、と教えてくださっているのです。ところが、罪には罰があるものだと思い込んでいる私たちは、困難な出来事に遭うと、神様の罰を受けたんだと勝手に解釈してしまうのです。
   私たちが出会う困難は、多くの場合、人間の選択した行為が引き起こした結果です。それは、神の罰ではありません。例えば、薄着をしたから風邪をひいたとか、不注意やしてはいけないことをして事故を起こすなど、選択した行為の結果なのです。また、自然災害等に関しても、地球のメカニズムというものがあり、神からの罰と呼ぶものではありません。
   むしろ神は、私たちの苦しみを取り除きたいと言われます。過ちや失敗から起きた苦しみであっても、自然災害から受けた苦しみであっても、神はあなたがつらいなら、それを取り除きたいと言っておられるのです。もし、苦しみが神の罰ならば、決してそんなことは言いません。罰でないからこそ、神は、あなたの重荷を背負いたいと言っておられるのです。
   神が罪を赦すとは、私たちの中から恐れを締め出して癒すということです。それは、私たちの過ちを取り消すということではないので、自分のしたことの結果は背負わなければなりませんが、そこから生じるつらさや問題を解決してあげると言っておられるのです。
   旧約聖書に記されている罰は、罰を与えることではなく、それを通して神に立ち返らせることが目的です。そこには、神の深い愛を伝えるための意図があるのです。そのために、神は繰り返し「あわれむ」「赦す」と旧約聖書の中で語っておられます。
   神の正しいイメージは、十字架の姿です。私たちの罪を背負って十字架にかかるという神の思いは、旧約時代から全く変わりません。


・キリストに隠されている知恵と知識の宝

『このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:3,4)

   人間の知恵や知識は、どうすれば人は幸せになれるか、豊かになれるかということに集中しています。しかし、人間の導き出す答えは、私たちを完全に満足させることはできません。
   例えば、人は、幸せになるためには、お金が必要だと考えます。しかし、聖書は、『金銭を愛する者は金銭に満足しない。』(旧約聖書 伝道者の書 5:10)と教えています。人は、見えるものを愛し、見えるもので幸せが手に入ると思っているのですが、いくらそれを得ても満足できないし、幸せになれません。伝道者の書は、そのようなものは虚しいものであり、大切なことは、創造主を覚えることだと語っています。創造主を覚えることこそ、知恵の始まりであり、知識の元なのです。あなたが、なぜここにいるのか、なぜ生きているのか、すべてに理由があります。いくら進化論が、創造主を否定しても、この事実は変わりません。進化論では、未だに世界の始まりの説明がつかないのですから、造られたという説明しか残っていないのです。
   創造主を知ることが知識と知恵の始まりであり、人間のなすべきことは、その方を愛し、従って生きていくこと、それがすべてです。「キリストのうちに隠されている知恵と知識との宝」とは、自分を造った方がおられると知り、その方を愛し、その方に目を向けて生きていくことです。
   もしあなたが無人島で生きていくことになったら、そこではお金も学歴も役に立ちません。その時、あなたの支えになるものは、神しかいないのです。神に祈り、力を得て生きるしかありません。
   私たちが、普段大切だと思っているものは、いざ追い込まれた時には、何の役にも立たないものです。その時、本当に役に立つもの、自分を支え助けてくれるもの、それは過去の実績でも、お金でもなく、神を信頼する信仰しかありません。こういう時に祈れることこそ、本当の幸せです。私たちは、神に祈ることで希望を失わずにいられます。私たちは、このような宝をすでに神から頂いているのです。このことに気づいて、感謝しましょう。


・堅い信仰を建て上げるとは

『私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:5〜7)

   堅い信仰を持つとは、キリストの中に根ざすステップから始まります。神によって造られた私たちは、キリストの中に根ざすことで、自分は何のために生きるのか、その目標を明確にすることができるのです。
   人間は、自分がどこから来て、どこにおり、どこに行くのか、この基本的なことすらわかっていません。地球はどこにあるのか、銀河系とはどこに存在するのか、突き詰めて考えていくと、人間にはもう答えがわからないのです。
   しかし、この問いに、聖書は明確に答えます。あなたは神によって造られ、神によってなすべきことがあり、目標が定められている、あなたがいるのは神のいるところであり、神はあなたと共におられると、聖書はまず基本を明確にしています。
   これが、堅い信仰のスタートです。何のために生きているのか、あなたの人生とはなんなのか、神に根ざさなければ、堅い信仰を持つことはできません。人間は一人一人に役割を与えられ、目的を持って造られ、誰もが神の前では必要な存在です。一人一人が神に祈って問いかけ、その答えを見出してください。
   この信仰を神様が建てあげてくださる上で、一番障害になっているものが恐れです。ですから、キリストによって建てられるとは、神によって私たちの中から恐れが締め出されることです。

   恐れがあるから、見えるもので安心しようとし、どうすれはよく思われるか人の目を気にし、お金にしがみつくのです。この恐れの大元は死の恐怖です。いのちである神から離れ、霊的に死んだ状態となった私たちは、その恐怖に支配されて生きています。神は、あなたは神に愛されている、神があなたを心配するから大丈夫だと教え続けて、人を支配する恐れを取り除いてくださるのです。
   また、堅い信仰を建て上げる上で大切なことは、感謝することです。失敗であろうとなんであろうと、主を信頼するなら、神はすべてを益としてくださるのですから、決してつぶやかず、あきらめることなく、失望しないで感謝しなさいと、聖書は教えます。そうすることによって、堅い信仰を建て上げられるのです。
   感謝の障害は、ゴールが見えないことです。自分が確実に到達できると分かっていれば、途中がどんなに困難でも、大丈夫だと思えるものです。しかし、結果がわからないと、困難にぶつかった時あきらめる気持ちが生まれます。そこで神は、将来に確信が持てるように、信仰を与えてくださっているのです。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)

   この確信を得たならば、今進んでいる道がどんなに困難でも、あきらめる思いになりません。すでに結果がわかっているからです。
   ですから、私たちが、まずしなければならないことは、信仰でゴールを確認することです。死んだらどうなるのか、自分は消えてなくなるのか、そうではなく聖書の言うとおり、神の国があることを確信することができれば、今に希望を持つことができるようになります。たとえ死んでも神の国に行けるという確信は、今を生きる力になります。
   このように、何事においても、まず信仰でゴールを見ることが大切です。神は信仰を与えて、ゴールを見させてくださいます。病は癒され、問題は解決され、益とされる、そのように約束されているゴールをしっかり見るなら、喜びと希望が見えてくるようになり、途中であきらめることはなくなります。
   私たちは、ゴールが見えないために、困難にぶつかると、あきらめてしまいますが、結果がわかっていれば、あきらめずにすみ、それによって、しっかりとした堅い信仰を持つことができるようになるのです。どんな時も、信仰でゴールを確認して進みましょう。