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2014年月10月19日
罪は病気である
(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:2〜)
『ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:2,3)

   ユウオデヤとスントケは、ピリピの教会の取りまとめをしていた女性スタッフです。パウロは、教会の中心となる人は一致し、教会のメンバーはリーダーを助け、協力するようにと言いました。教会は、そのように成り立つものです。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:4)

   主は私たちに喜ぶことを命じています。何を喜ぶことができるでしょうか。
   第一に、私たちはいつ死んでも天国に行けます。確信があってもなくても、必ず天国に行けます。死後のことを心配する必要がありません。
   第二に、私たちは、創造主なる神を、親しみを込めて「お父様」と呼ぶことができます。この世界には孤独を訴える人が大勢います。しかし、私たちには、いつも共にいてくださる父がいて、いつでもどこでも自分の気持ちを素直に話すことができるし、理解してもらえます。
   第三に、私たちは、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っており、後ろを見ないで生きることができます。

『うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:14)

   この世の生き方は、常に自分の過去に支配され、後悔も後を絶ちません。しかし、神は過去もすべて益としてくださるから、前だけ見れば良いのです。
   このように、私たちが神の教えを信じて生きるなら、喜ばずにはいられません。これらの喜びの根拠を見ると、いかに神が私たちを愛しておられるかがわかります。

『あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:5)

   寛容とは、愛の一つの形です。神に愛されている喜びを知ったら、その喜びを他の人に伝えて生きましょう。
   神が自分を愛していることを知れば、私たちは、本当の意味で、人を愛することができるようになります。しかし、神から愛されることを知らなければ、人から愛されることを求め、見返りを求めなければなりません。見返りが手に入らないと、人は落ち込んだり、怒ったり、嫉妬したりします。神によって満たされ、心の糧が与えられていれば、人からほめられる必要がなくなるので、素直に人に親切にできるようになります。すべてのスタートは、神と自分との関わりです。

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:6)

   神は、私たちが祈る前から、私たちの必要と願いを知っておられますが、あなたが神に祈り求めることを望んでおられます。しかし、神との関わりが深くなると、具体的に祈り求めることをしなくても、私たちが捧げる感謝によって、神は私たちの願い事をわかってくださるのです。神を知り、神との交わりの中で神に愛されている喜びを感じるようになると、神への祈りが、願い事中心ではなく、感謝にあふれるようになります。神様とそのような関わりを築けるようになれば幸いです。

『そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:7)

   感謝を捧げることは、私たちが神の平安を得るための最も強い武器です。私たちの敵は恐れです。この世は、死の恐怖によって人からの攻撃や将来への不安など、絶え間なく恐れに攻撃されます。この恐れに立ち向かう武器は感謝です。感謝によって神の平安が私たちを守ってくれるのです。


・さばかないで赦す

『最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:8,9)

   この世で良いと思われていることを実行し、指導者から学んだことを実行する目的は、この世に愛を伝えるためです。クリスチャンは自分が救われておしまいではなく、人々に愛を伝えていく勤めがあります。そのために、私たちが具体的に実行すべきことは、「さばかないで赦すこと」です。 「さばかないで赦す」、これが神の教えの中心です。イエス・キリストは、この地上で、それを実践なさいました。神は一貫して、人の罪・悪行をさばくことなく赦し、十字架にかかる最後の時まで人を赦しておられます。私たちも、神に愛され、赦され、今日があります。ですから、私たちも家族や友達をさばくことをやめ、赦さなければなりません。
   この世は、相手をさばいて屈服させることで平和を作ろうとします。私たちは生まれた時から、悪いことをしたら罰を与えるのが当然だと教えられ、罪は、さばいて罰を与え、是正すべきものだと教育されてきました。その結果、当然のようにさばき合い、上辺だけでも従わせようとして相手を責めます。しかし、それは、罪の実態を知らないからです。
   イエス・キリストは、「さばいてはならない」と教えています。なぜキリストが「さばくな」と教えているのか、罪を正しく理解することで、それを理解できるようになります。真の平和とは、さばかないで赦すことです。

   罪には、表の罪と裏の罪とがあります。表の罪とは、一般的に認識できる悪い行為のことで、裏の罪とは、そうした行為に至らせる心の内側の原因のことです。人は通常表の罪を問題にして、その行為を改めようとしますが、聖書は裏の罪を解決することで、表の罪という問題も解決すると教えます。
   裏の罪とは、一言でまとめると「死の恐怖」です。聖書が定義する「死」とは、神との関わりがないことです。神との関わりがない状態を人は恐れ、不安が生まれました。神との関わりがなければ、肉体が生きていても魂は死んだ状態であり、肉体が滅ぶと死が確定します。
   人の命は本来、常に神と共にあるように、神のからだの一部として造られました。神に愛され、必要はすべて与えられ、安心して生きる存在として造られたのです。神との関わりを失った人間は、生まれた瞬間から、自分が何者かわかりません。自分が何者なのかわからない恐れと不安から、人は何かにしがみつかずにはいられなくなりました。この地上にあるものは、人か物です。そこで、人間は、人とつながること、お金を手に入れることで安心を得ようとしています。実は、これが罪なのです。
   なぜなら、人につながろうとすると、必ず、様々な嫉妬や妬みが発生します。ほかの人を喜ばせようと人の歓心を買おうとするようになり、比較するようになり、うらやむ心、悔しさ、怒り、憎しみ等が発生します。お金につながろうとすると、富を手に入れることばかりを考え、そのために人は戦争だってするのです。
   つまり、悪い行為の動機となるねたみ、憎しみ、物欲などは、すべて死の恐怖に原因があります。人は、恐れや不安と自分自身で戦いながら生きていかなければいけないために、罪を犯して生きているのです。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   「とげ」は「苦しみ」を表します。私たちが受けた死という苦しみによって、罪が生じました。つまり、罪は、本来人間の内に備わっていたものではなく、外部から入り込んできたものです。外部から侵入した死というウィルスによって、罪という病気が発生したのです。病人の行いを変えても病気は存在し続けます。ですから、罪の問題を解決するためには、その人自身を変えようとしても意味がありません。
   罪とは死がもたらした病気であることがわからないと、罪に対して正しい対応ができません。多くの人が、罪の原因はその人自身の問題と思ってしまっていますが、裏の罪の原因は「死の恐怖」というとげなのです。

『それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:21)

   「罪が死によって支配したように」とある通り、死が私たちに入り込んだことによって罪が存在するようになり、私たちは罪に支配されるようになりました。私たちの罪のすべての原因は、神との関わりが失われたことによるものであり、つまり、死です。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   聖書は夫婦を一体と考えますから、「ひとりの人」とは、アダムとエバのことです。アダムとエバが悪魔にだまされて罪を犯し、人は死ぬものとなりました。つまり、神と切り離された存在になりました。今日、人が生まれながらに神を知らないのは、神と関わりが断たれるという死を負っているためです。
   しかし人間は、神とつながって生きるように造られているので、単独では生きられません。そこで、神の代わりに人や物に結びついて、心の糧を得ようとして生きています。こうして、人は罪を犯すようになりました。人からよく思われるにはどうしたらいいかということに心を向け、あるいは、富を得ることに心を向けています。こうして、人とお金の問題を優先的に考えることによって、様々な悪事も生まれました。しかし、これは私たちの本来の姿ではありません。
   私たちの本来の姿は、神を愛し人を愛するという姿です。本来は、神と信頼関係で一つに結ばれ、必要は全て神が与えてくださいましたから、愛されたいという心配も、お金の心配もありませんでした。エデンの園では、神を愛し人を愛することが人の務めだったのです。今も神は人を愛しておられますが、人は神と人を愛することを求める代わりに、人に愛されることを求めて生きています。
   このような罪を人間にもたらした原因は死です。死は、罪を発症させている病原体です。イエス様が人をさばかなかった理由も、ご自分を医者にたとえた理由も、イエス様がこの地上に来た目的が、私たちを救うため、病気からいやすためだからです。
   私たちは、病気の人に対してどのように接するでしょうか。お前は病気だと言ってさばき、自分でなんとかしろと言って責め立てるでしょうか。そうではなく、なんとか回復して欲しいと願って、看病しないでしょうか。罪も全く同じです。罪がいやされることを願うことが愛であり、聖書は罪をさばくなと教えています。
   このように、罪をさばくのは間違った対応です。しかし、多くの人が、罪は病気だと知らないので、さばくことを繰り返してしまいます。ところが、さばけばさばくほど病気は悪化します。罪は死の恐怖がもたらしたものです。イエス・キリストはこの死の恐怖を取り除くために十字架にかかったのです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14,15)

   私たちが肉体を持っているので、イエス様も肉体を持ち、十字架にかかって、死をもたらした悪魔を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちを解放してくださいました。
   死の恐怖の奴隷から解放されるためには、愛されていると知るしか方法がありません。神との関わりを失ったことが原因で愛が見えなくなり、恐怖を感じるようになった人間に対して、神は関わりを回復し、愛していると伝え、心に必要な糧を与えようとしておられるのです。ところが、クリスチャンになっても、今までの習慣で死の恐怖を感じているために、神が与える糧である御言葉をなかなか食べられません。相変わらず、人の言葉を食べ、富に目が向く生き方がなかなか変わりません。そこで、神は私たちを罪に気づかせ、神の愛に気づかせようと手術を始めます。
   イエス様が十字架にかかったのは、自分の命を捧げても惜しくないほどあなたを愛していると教えるためです。この十字架の愛が分かるようになってくると、死の恐怖は締め出され、罪という状況が徐々にいやされ、人を愛せるようになっていくのです。これが神の福音です。

『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 5:15,16)

   罪は病気と同じです。主は、罪をいやしてくださいます。キリストは、罪人を招くために、この世に来られました。罪の病に病んでいる人は、医者に病気を言い表すように、神に罪を言い表せば良いのです。神は、私たちの人格を尊重するがゆえに、強制的に罪を暴くようなことはなさいません。ですから、私たちが自発的に罪を言い表さなければ、いやされません。
   私たちが、罪は病気だと誠に知るならば、人のことも自分のこともさばかなくなります。罪は病気だと知らないために、人をさばき、病気を悪化させてしまうのです。いくら自分の行いを変えても、病気であることに変わりありません。いつか必ず爆発します。また、自分の思い通りに相手を動かしても、それは一時的なものであり、いつか必ず爆発します。
   病を治すことができるのは、神の愛しかありません。神との関係を取り戻し、関係を築くことしか、病をいやす方法はないのです。「さばいてはならない」という教えは、聖書の基本です。それは、さばくと病気が悪化するからであり、まずは、病気を悪化させないようにして、互いに赦し合うことを実践しなければなりません。これがピリピ人への手紙が教えている中心主題です。

   西郷隆盛は、聖書に従ってこれを実行し、戊辰戦争で戦いを仕掛けてきた敵の首謀者を赦しました。その結果、彼らは西郷に教えを請い、その教えの中で西郷は「人を責めるのはやめて自分の足りないところを見つけよ」と語っています。また、新渡戸稲造は、世界のベストセラーとなった著書「武士道」の中で、武士道を貫いたサンプルに勝海舟をあげています。武士道の基本精神は平和であり、勝海舟は生涯一人も殺したことがない、このように、神の教えに通じるものが日本人の心にはあるのだと、クリスチャンであった新渡戸は述べています。当時のルーズベルト大統領がそれを読んで感動し、日米の橋渡しを買って出てくれたのです。勝海舟自身も当時禁教であったキリスト教を信じ、晩年に洗礼を受けています。このように聖書の教えに感銘を受けた人々によって、世界が大きく導かれているのです。

   罪とは、人間の本質ではなく、外から入ってきたもので、さばく対象でも、反省する対象でもなく、いやされる対象です。罪を正しく認識できない限り、誠の平和を築くことはできません。神はあなたの罪という病を、あなたを愛し、赦すことによっていやしてくださいました。その愛に気づいて、家族や友達の罪をさばいたり責めたりすることをやめ、平和を手に入れましょう。さばくのではなく、祈り、赦し、愛することで、罪という病はいやされていきます。すべては神の愛から始まり、神の愛によっていやされるのです。