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2014年月10月5日
うしろのものを忘れ
(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:10〜)
・永遠のいのちと罪のいやし

『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:10,11)

   「復活の力を知る」とは、イエス・キリストを信じて救われることです。救いとは、神との関係を回復し、神のいのちにつながることであり、永遠の神のいのちとつながったので、死んでもよみがえることができるのです。
   「キリストの苦しみにあずかる」とは、キリストに従う生き方を通して、罪の苦しさに気づくことです。その罪をキリストに差し出すことで、罪の赦しを体験するのです。
   私たちを苦しめているものは、私たちのうちに住み着いている罪です。罪は、死がもたらした病気です。死とは神と切り離されることであり、その恐怖が、私たちの心を見えるものに向けさせて、罪を犯させ、苦しめているのです。イエス・キリストは、この苦しみから私たちを救うために来られました。「救い」という原語には、「いやす」という意味があります。私たちが罪のつらさに耐え切れず、神に罪を告白して差し出す時、神は罪という病をいやしてくださるのです。
   「罪」と「悔い改め」について、多くの人が、「悔い改め」とは、罪を反省することだと勘違いしています。しかし、聖書に「罪を悔い改めよ」という表現はありません。それは、「悔い改め」とは、「神に心を向け、神に立ち返る」という意味であり、反省して改めるという意味はないからです。聖書は「罪に気づいて、神に心を向け、神に立ち返りなさい」と教えているのです。つまり、「悔い改め」とは、罪を反省して改めることではなく、神に助けを求めることです。
   病気でつらい時、生活態度を反省するもの結構ですが、まずは病院に行って治療を受けることが優先です。同様に、罪の苦しさに気づいたら、まず神を頼っていやしてもらうことが大切です。神は罪をいやしてくださいます。これが福音なのです。
   つまり、「死者の中から復活に達したい」とは、イエスを信じることで復活を知り、罪がいやされることを望むということです。


・罪がいやされるために実行すること

『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12〜14)

   パウロが、自分を完全ではないと言っているのは、行いのことではなく、罪という病気に関してです。自分は、今も罪という病気からいやされている最中であり、完全になったわけではないと言っているのです。そのパウロが、神にいやしていただくために実行していることは、「うしろのものを忘れる」ことと「目標を目指して一心に走る」ことです。

1.うしろのものを忘れる

   うしろのものとは、自分の過去の罪のことです。私たちは、ともすると「あの時、ああすればよかった」と過去を振り返りながら、どのように生きようかと考えます。ところが、イエス様があなたの罪のために十字架にかかり、赦してくださったことによって、あなたの罪はないものとされました。ないものを見て、悔やんだりしないように、教えられています。

『そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』(旧約聖書 エレミヤ書 31:34)

   神が罪を赦すとは、二度と思い出さないということです。神が思い出さないものを、私たちが思い出してどうするのでしょうか。神は、『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(旧約聖書 イザヤ書 1:18)と言われます。これが赦されるということです。どんなに汚れた人生でも神が真っ白にしてくださり、罪を思い出そうとしても思い出せないのです。
   人の赦しは、相手の悪事を覚えているけど、責めないし罰を与えないという程度のものです。しかし、聖書が使う「赦し」という言葉には、「投げ捨てる」という意味があり、あなたのしたことは消えてなくなってしまったから、もう裁きようがないという意味です。すでにない自分の罪を、後悔して悔やむようなことをしてはいけません。そのようなことをして心をうしろに向けると、神のいやしを得ることができなくなります。
   罪の原因は死の恐怖です。神と切り離された恐怖によって、私たちは神の代わりに見えるものにしがみついて、安心を得ようとするようになりました。ところがこの生き方によって、見えるものを互いに比べて誇ったり嫉妬して憎んだりするようになり、私たちは罪のつらさに苦しむようになりました。
   この根本原因である恐れを取り除くには、自分がどれだけ愛されているかを知るしか方法がありません。イエス・キリストは、私たちを赦すために罪を背負って十字架にかかりました。自分の罪を知り、その罪が帳消しにされたと気づく時、私たちは自分がどれほど愛されているか、わかるようになります。多く赦された者は多く愛するようになると聖書にある通り、神に愛されていることに気づくと、神を愛するようになります。
   これが福音です。こうして心の中にあった罪がいやされ、神に目を向けていくならば、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。人生は何度でもやり直せます。うしろを振り返らないようにしましょう。

2.目標を目指して一心に走る

   目標を目指して一心に走るとは、イエス・キリストを目指して生きることです。自分の力ではどうすることもできないけれど、神が引き上げ、罪をいやしてくださるので、神にすべてをゆだねて生きるという意味です。
   明治時代、日本に大きな影響を与えた思想家の一人が内村鑑三です。内村は、クラーク博士の教え子の一人で、札幌農学校時代にクリスチャンになりましたが、結婚で失敗し、二度目の夫人も病で亡くしてしまいます。罪責感に苛まれた内村は、自分の罪深さから回復したいと願って、アメリカに渡ります。アメリカの精神障害者施設で働き、自分の力で自分の罪をなんとかしようと頑張りましたが、どうにもならないでいたところ、次のようなメッセージを聞いて感銘を受けました。「神しか、聖い方はおられない。人が自らを聖くしようと思うことが、すでに誤りなのだ。私たちは神に引き上げてもらうしかないのである。」
   人間は神に引き上げてもらうしかない存在なのだと、内村鑑三は気づきました。人は自分の問題は自分で解決できると思っているが、罪を解決することができるのは神ご自身しかおられないことを知り、内村は、キリストの十字架は私たちをいやすためであったと知ったのです。人は、神のまったき愛でしかいやされないこと、神に助けを求めれば必ずいやされることを知り、彼は帰国して、若者の育成に尽力しました。その後、信仰をゆずらなかったために教職を解雇されましたが、執筆活動を通して、日本に多くの影響を与えました。
   神のいやしを受け取るためには、自らの力ではどうにもできないと悟る必要があります。すべては上に召してくださる神の力によるものであり、神にとらえられるのも、引き上げられるのも神の力です。ですから、私たちのすべきことは、神にゆだねることだけです。神にゆだね、神の助けを受けること、これがキリストを目標にして一心に走るということです。多くの人は自分の病をいやすには、自分で努力したり、何かしなければいけないと思っていますが、そうではありません。神が助けていやして下さるのです。ですからイエス様は、あなたの重荷を持ってきなさい、私が休ませてあげると言ったのです。


・罪という病気はどうやっていやされていくのか

1.聖書の言葉に従う

   罪がいやされて健康な心を取り戻すには、御言葉を実行することによってこれまで自分が気づかなかった罪に気づいて神を求める道と、患難に出会って神を求める道があります。
   神が私たちに御言葉に従うように命じているのは、自分は罪人だと気づかせるためです。御言葉の目的は、全ての人を罪の下に閉じ込めるためであり、御言葉が実行できる立派なクリスチャンになることで、神に喜ばれたり、ご褒美をいただくことではありません。
   私たちは、自分が罪人だと気づかない限り、神に助けを求めないし、自分でなんとかできると思ったら、神に助けを求めたりしません。そこで神は、私たちを自分の罪に気づかせようとなさいます。「自分の敵を愛しなさい」、「さばいてはいけない」、「いつも喜んでいなさい」等々、とても100%実行などできないことです。御言葉を実行できないことに気づき、自分は罪深い人間だと知ることはつらいことです。しかし、これがチャンスなのです。
   自覚のあるなしにかかわらず、すべての人が、罪によって自分自身を苦しめています。自分の苦しみが病気によるものだと気づいたら医者に行くように、自分の罪に気づき、自分ではどうすることもできないと知ることは、神を求めるチャンスとなります。神に助けを求めるならば、神は私たちに神の愛を示し、赦しと平安を与えてくださいます。こうして、神の愛が私たちの中に宿るようになり、聖書の言葉が少しずつ実行できるようになっていくのです。

『しかし聖書は、逆に、すべての人の罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:22)

   キリストに助けを求める人には、病気をいやすという約束が与えられます。信仰によって神に頼る人々に、いやしの約束は全うされます。

2.患難に会う

   私たちは、自らの過ちやいたらなさによって困難を引き寄せてしまったり、自然災害等によってつらさを感じます。これらの困難は、決して神が与えているものではありませんが、神はそれらを益と変えてくださいます。ですから、困難にぶつかったら逃げるなと聖書はくり返し教えています。つらさから逃げなければ、それが試練となって、益と変えられるのです。
    多くの人は、患難にぶつかると、つらさから逃げようとして、同情を求めたり、お金や快楽など、他の楽しみを見つけて気を紛らわそうとしたりするものです。しかし、つらい現実から目をそらしても解決はできません。
   つらい出来事から逃げずに、目をそらさないことが、聖書が教える「忍耐」です。しっかりつらさと向き合うと、その中にある自分の弱さに気づくことができます。弱さとは、神なしでは生きられないという人間の性質のことです。人は本来神と共に生きるように造られましたが、罪によって神と切り離され、神の代わりに見えるものにしがみついて生きるようになりました。つらさとは、この自分の心を支えていた見えるものが役に立たなくなることです。この事実を認め、つらさと向き合い、自分の弱さに気づいたら、神にしがみつくことができるので、いやされるのです。これが福音です。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9,10)

    人は、患難にぶつかってつらいと感じなければ、神を求めようとしないものです。パウロは自分の病気のつらさから逃れようとしましたが、病気を通して自分の弱さに気づき、そこに神の恵みが働くことを発見しました。ですから、患難に会ったら喜べと教えているのです。ごまかして患難から逃げようとするとうまくいきません。

   御言葉に従うこと、患難から逃げないこと、この二つに共通しているのは、イエスから目を離さないことです。神の言葉から目を離さなければ、私たちはいやされます。

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。……あなたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。……訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。……すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1〜13抜粋)

   罪は、私たちの中にもともと備わったものではなく、まつわりついている病原菌です。ここからいやされるためには、うしろを向かず、前を見て、とにかくイエスから目を離さないことが大切です。患難に会ったら、逃げずに御言葉に従って前に進んでみましょう。そうすれば、自分の罪に気づき、神に助けを求めることができます。
   神の訓練とは、患難に会った時にあえて助けないことを指します。それは、助けると罪に気づかないからです。私たちがつらさから目を背けず、神に助けを求めて、いやされ、本物の平安を得ることができるように、神様もじっとこらえていらっしゃるのです。しかし、このような時も神は共にいて、私たちが罪に気づけるように励ましてくださいます。神の訓練とは、神に目を向けるようにという励ましです。こうして、自分の弱さに気づき、罪に気づくことができれば、私たちはいやされます。
   すべては私たちがいやされるためです。まつわりつく罪という病気をいやすために、神は私たちを愛し訓練するのです。パウロは、自分の病はまだ完全にいやされているわけではないと告白し、いやされるためにうしろを見ないで、前に向かって進んでいくのだと語っています。自分がつらいと、ついまわりをさばきたくなるものですが、そんなことをしても、さらにつらくなるばかりで、いやされません。つらさは死がもたらした病気によるものだということを理解して、イエス様にゆだね、イエス様に助けを求めて生きていきましょう。