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2014年月9月7日
救いの達成
(新約聖書 ピリピ人への手紙 2 :11〜)
『そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:12〜14)

   救いの第一段階は、神との関係を回復することです。神との関わりがない状態で生まれてきた私たちが、神との関係を回復して永遠のいのちを持つことが第一段階であり、これが一般的に「信じて救われる」ということです。
   さらに救いには第二段階があり、それは、神への信頼を築く段階です。救いの達成とは、神との関係を深め、神を信頼し愛する者となることです。つまり、救いの達成に努めるとは、神との信頼関係の達成に努めることです。
   そのために神は、「私たちの中に志を立てさせる」ことをなさいます。これは、口語訳聖書では、「願いを起こさせる」と訳されており、神が私たちを導くとは、私たちを強制的にコントロールすることではなく、人の心に願いを与えて人を導くことを意味します。
   人は、心に思い浮かんだことを、なんでもすぐに実行に移すようなことはしません。その願いを実行に移すかどうかは、本人次第です。心の中に浮かんだ願いの中から、どの思いを自分のものにするのか、自分自身で選択しているのです。つまり、神は情報を与えるから、それに応答して自分自身で選択しなさいと、言っておられるのです。
   人は、自分の人生は自分で選択しなければなりません。そして、選択の責任は、自分自身にあります。神が強制的に私たちを操作して手とり足とり導いたり、その選択に関与したりすることはありません。なぜなら、人間に人格を与え、自分で選択する能力をお与えになったのは神だからです。この能力を奪ったら、人は人ではなく、ロボットになってしまいます。自分の未来は自分が決めるものであり、神が定めたものではありません。だから、すべてのことを疑わずつぶやかずに行いなさいというのです。
   救いに関しても、神は決して強制的に救うことはなさらず、私たちに情報を提供して救いに導くのです。では、私たちをクリスチャンに導くために、神は、どのような情報を流すのでしょうか。人はどの段階で、クリスチャンになると言えるのでしょうか。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8〜9)

   人が救われるのは、神が信仰を下さるからにほかなりません。では、救われない人がいるのは、神が信仰を下さらなかったからなのでしょうか。そうではありません。神は、信仰を与える人間を決めてその人だけに信仰を与えているのではなく、すべての人に信仰を与えようとなさいますが、残念ながらそれを受け取らない人もいるのです。ただし、神は誰が信仰を受け取るかをあらかじめ知っておられるということです。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:10)

   「良い行いをもあらかじめ備えてくださった」とは、神は人を造ったとき、その心に神の律法を書き込み、すべての人間に良心を与えたということです。神はこの良心を通して語りかけ、私たちに救いの情報を与え、応答する者に信仰を下さるのです。
   たとえば、罪責感を感じると良心が反応してつらさを覚えます。神は、良心を通して罪責感という情報を与え、神に助けを求めるように働きかけておられるわけです。この情報に応答し、神に助けを求める選択をすると、神が信仰をお与えになります。
   良心は、このまま死んだら自分はどうなるのかという恐れという情報にも反応し、患難にぶつかった時のつらさという情報にも反応します。その結果、神に助けを求める応答をすると、神は信仰をお与えになるのです。また、良心は被造物に対しても反応し、この天地が自然にできたものとは思えない、造られた神がおられると反応します。

『神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ―私は真実を言っており、うそは言いません―信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。』(新約聖書 テモテの手紙第一 2:4〜7)

   神はすべての人の救いを願っておられますが、信じない人の心を強制的に変えたりはしません。それは、その人を否定し、神が与えた人格を壊すことになってしまうからです。そこで、神は情報を与え、人が自らの選択で神に応答するように促しておられます。そのため、パウロも自分自身を、情報を流す宣伝者と称しているのです。
   救いの始まりは、神が与えた情報に人間の側が応答した時です。応答すれば必ず神が信仰を与えてくださるのですから、応答した時点でその人は救われているのです。
   しかし、魂が応答しても、この時点では、まだ本人にはその自覚がありません。ちょうど赤ちゃんを身ごもっても、初めのうちはまったく自覚がないのに似ています。お腹に与えられた命がある程度育って初めて自覚が生まれるのと同様に、魂の応答によって信仰が与えられても、その信仰が成長するまでは、救われたという自覚が本人にはないのです。
   一般的にこの段階にある人を、求道者という呼び方をします。救われた自覚や確信がなくても、御言葉を求めているということは魂が応答しているからにほかならず、すでに救われているのです。『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:17)とあるとおり、信仰は御言葉を聞くところから始まります。その人の魂が神に助けを求めているかどうかは神にしかわかりませんが、魂が求めているならその人は御言葉を聞くようになるものです。こうして、今まで持っていた肉の思いと御言葉との葛藤が始まり、信仰が成長すると、御言葉の側に立って「イエスは主である」と告白できるようになるのです。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:9)

「告白によって救われる」とは、本人が救われた自覚を得たということであり、魂が神に応答した時点ですでに救われているのです。それは、次の取税人の祈りからも読み取ることができます。

『ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。』(新約聖書 ルカの福音書 18:13〜14)

   取税人は、神に助けを求めた時点で義と認められました。それは、神は、神に応答する者に必ず信仰をお与えになるからです。この時点ではまだ「イエスは主である」という告白はしていませんが、信仰が与えられると御言葉を求めるようになり、御言葉を聞くことによってイエスは主はであると確信して告白できるようになるのです。
   魂が応答した時点で救われているということは、神は、福音を聞いたことのない人にも平等に救いのチャンスを与えておられるということです。誰の魂が神に応答しているかは神にしか分からないことですが、神に応答している魂は、キリストについての御言葉を聞いたときに、イエスが主であると分かるようになるのです。

『ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。』(新約聖書 ルカの福音書 19:2〜9)

   ザアカイは、イエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かったので、いちじく桑の木に登って見ることにしました。彼をそこまで駆り立てたのは、彼の心の戸を叩く「良心」の声でした。彼はその声なき声に従って、木に登りました。イエス様はそれをご覧になり、ザアカイに声をかけられました。ザアカイは、イエス様の呼びかけに答えることも無視することもできましたが、イエス様を迎え入れる選択をし、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。これが「応答」です。ザアカイの魂は、自分の罪を告白することで、主に「私をあわれんでください」と叫んだのです。
   12弟子の場合も、彼らはただ「わたしについてきなさい」という呼びかけに応じてついていきましたが、この時はまだ「イエスは主である」という自覚はありません。しかし、救われたのはイエス・キリストの呼びかけに応じたからであり、救われた後に「イエスは主である」という自覚を持ったのです。
   ですから、家族や友達に福音を語っても、信仰告白に至っていないからまだ救われていないとあきらめることはありません。いつ救われているか私たちには分らないのですから、希望を持って御言葉を語り続けていきましょう。

『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 黙示録 3:20)

   神は私たちの救いのために、強制的に心を変えるようなことはなさらず、情報を提供することだけをなさいます。この神の呼びかけがなければ、救いは始まりません。ですから、救いは100%神様のわざです。神は、すべての者に声をかけておられますが、その声に応答しない者は信仰を受け取ることができません。神に応答するとは、助けて欲しいと心を向けることです。私たちが神に応答すると、神は信仰を与えて下さり、共に歩み、私たちを導いてくださいます。
   こうして神と共に歩み、神への信頼を増し加えることが、救いの第二段階です。神は、神との関係を回復した者に、以前にも増して強力に情報をお与えになります。それは、私たちが間違ったものを信頼することをやめ、真の平安を得てほしいと願っておられるからです。
   私たちはこれまで見えるものに一生懸命しがみつくことで、自分の価値を感じようとして生きてきました。しかし神は、そのような生き方に本当の喜びはないことを知ってもらおうと、情報を提供されます。それによって、私たちはこれまでの生き方を、虚しくつらく感じるようになるのです。この時に、神がよくお用いになるのが患難です。
   患難とは、決して神が引き起こすものではありません。神は患難から私たちを助け出すことがおできなりますが、時折、私たちが患難にぶつかっても、すぐには助け出さずに、静観なさることがあります。それは、平安を得ようとしてこれまで私たちが求めてきたものは間違っていたと、気づいて欲しいからです。
   神はこのようにして、私たちの罪を指摘なさいます。神を愛すると言いながら、人の言葉を信じていたことに気づき、この罪を神に差し出すならば、神に愛されている自分に気づき、言葉では言いようのない平安を得ることができます。これが救いの達成なのです。

   かつて、ミス青森だった女性が、その美しさを友人に妬まれ、顔に硫酸をかけられるという事件がありました。友人はすぐに逮捕されましたが、顔と体にひどいやけどを負った女性は、健康な皮膚を剥がして移植する手術を何度も繰り返さなければなりませんでした。美しさを失い、苦しみの中にあった彼女の目に、病室の窓から教会の十字架が見えました。これが神の呼びかけだったのです。この呼びかけに彼女の魂は応答し、教会に行きたいと願うようになり、やがて救われて、洗礼を受けました。しかし、洗礼を受けたからといって、心に平安が来たわけではありません。自分をひどい目に合わせた友人への恨み、憎しみが消えず、心はますますつらくなりました。そして、ついに彼女は自分の罪に気づきました。それは、今友人を憎んでいる自分は、かつて自分を憎んだ友人と同じことをしているということです。彼女は、憎しみという自分の罪をどうすることもできず、神に助けを求めました。
   私たちが自分の罪に気づき、神に助けを求めて祈るなら、神が赦してくださったという確信を得ることができます。自分の罪の大きさに本当に気づくなら、それが赦されるとはどれほど大きな愛か、どんなに自分が愛されているかを知ることができます。これは、今まで知っていた喜び平安とは、まったく比べ物にならない大きな平安です。この平安を得た人は、自分の心が本当に求めていた安らぎがここにあると知り、本当の喜びに気づくのです。
   この喜びに気づいた元ミス青森の女性は、獄中の友人に手紙を書きました。「あなたは私に悪いことをしようとしたけれど、神様は私に良いことをしてくれました。顔は前より醜くなったけれど、心は雪よりも白くなりました。ありがとう。あなたにも、この喜びをぜひ知ってもらいたい。」と書き続けたのです。初めは彼女の本心を疑っていた獄中の友人も、やがて心砕かれ、出所後にクリスチャンとなりました。そして、二人は本当の友情で結ばれ、お互いを神の愛で信頼しあう関係になりました。

   私たちはこの世界で、自分を幸せにしてくれる何かを手に入れようと求め続けています。しかし、神のもとには、私たちがまだ知らない大きな平安と喜びがあります。神はそれに気づかせたいと願って情報を与え続けておられます。救われた者に対しては、救われる以前よりも強力な情報を与え、神に目を向けなさいと選択を迫られます。神の平安を選択する方法は、ただひとつ、「神様、助けてください」と祈るだけです。すると、必ず真の幸せに気づくことができます。これが救いの達成です。
   神が、患難から私たちをすぐに救い出さず、虚しさやつらさにぶつかるままにされるのは、私たちが求めている幸せを与えるためです。見えるものではなく、神に目を向けるなら、真の愛・真の平安を手にすることができるでしょう。それが救いの達成です。神に愛され、神と共に生きる喜びがどんなに素晴らしいものかに気づくとき、人は真の幸せに気づくことができるのです。


…誤解のないように補足…

「応答とは」

1.死に至る自分の現状に気づき、あるいは自分の罪の現状に気づいて、神にあわれみを求めることです。御利益を求めて「主よ、主よ」と言うことではありません。 『わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:21)

2.神にあわれみを求めるといっても、偶像の神に対してではありません。世界を造られた神に対してすることが、「応答」です。 『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 1:20)つまり、いくら偶像の神に手を合わせ、助けを求めても、それは神への応答ではありません。